Ⅰ
身体の中の熱は収まらず、何時までも眠れないままだった。
すぐ横には、さっきまで散々一緒にバカ話で盛り上がっていた女が、寄り添うようにして規則正しい寝息をたてている。微かに漂う香水の匂いに誘われ、その金色の髪に唇で触れる。起きようとしないそいつをそのままに、サイドボードに置いた煙草に手を伸ばした。
出会いは、二十年以上前だった。
クラス替え直後の四月の教室で、あいつはひどく目立っていた。そこらのシャレっ気を出した野郎共よりも短く切った髪を金色に染め、ダークカラーの化粧に赤い口紅をひき、おまけに両耳には、凶器のようなピアスがいくつもくっついていた。下着が見えそうなくらいの短いスカートに、オーバーサイズのパーカーを着こなしたその女は、どこからどう見ても、「異端」だった。
初めて喋ったのは、夏の終わりだった。
部活でしごかれた俺は、汗臭い部室から逃げてきていた。買ってきた一リットル入りの麦茶をがぶ飲みしながら、冷房の切れた教室の窓際で風に当たっていた。
そんな夏休み中の、誰も来ないはずの空間に入ってきたのが、ヒトミだった。
「それ、ちょうだい」
突然やってきて半分も残っていない麦茶のパックを指差したそいつは、頬を腫らし唇を切っていた。
「どうしたの、それ」
「殴られた」
初めて交わした会話がこれだ。今でもはっきり覚えている。
「なんか、そこの非常階段のところでつきあって欲しい とか言われて、嫌だって言ったらいきなり」
言いつつ、ヒトミは勝手に麦茶を豪快に飲み始めた。喉仏が動く女を見るのは初めてだった。
「うわあ、血ついてる」
真夏でなければいつもはパーカーに隠れている女もののブラウスには、擦れたような赤いあとがついていた。だが、血よりも鮮烈に俺の目に入ったのは、ブラウス越しの素肌に映った、風変わりな影だった。
「何それ」
「どれ?」
「腰の。アザ?」
「ああ、これね、ちょうちょのしっぽ」
俺の視線に応えるように、そいつは腹のあたりを指差したあと、くるり と俺に背中を向けて、ブラウスの裾を捲った。
細い腰に、二匹の青い蝶が、踊るように戯れていた。
いきなり見せられた同級生の女の素肌よりも、その蝶の刺青は、鮮烈に俺の脳に焼き付いた。くびれたウエストに舞う二匹は、尾をたなびかせ、今にもひらひらと逃げていくような、そんな姿をしていた。すげえな と思わずもらした俺に、ヒトミはすげえでしょ と、得意げに笑った。
「お隣さんが彫り師のお姉さんでさ、本当は未成年は駄目なんだけど、彫ってもらったの」
触ろうと手を伸ばしたのは、無意識だった。空を掴む前に引っ込めた手のひらを握りながら、平静を装って聞いた。
「で、そいつは」
あくまでも装っただけで、実際は上ずった変な声が出たのを覚えている。
「そいつ?」
「殴ったヤツ」
「ああ」
前歯折ってやった とそいつは腫れた顔でニカッと笑った。濃い化粧の奥での満面の笑みは、やっぱり今でも俺の脳に焼き付いている。
新学期、なんの偶然か、俺とヒトミは隣同士の席になった。
ヒトミは見かけによらず、真面目に授業を受けるタイプだった。部活でくたびれた俺が寝こけた授業のノートをヒトミに見せてもらい、俺は唯一得意な数学をヒトミに教えた。早弁する俺の傍らでヒトミは人の弁当をつまみ食いし、ヒトミが他の女子とつるまず一人で昼飯を食っている隣で、俺は本や雑誌を読みながら、ヒトミの持ってきた菓子をつまんで過ごした。それまでは寝ているか、別のクラスメイトと何となく駄弁っているかしていた休み時間は、確実に自分の席で過ごす時間が増えていた。
「ハジメ、つまんなくないの?」
九月の終わりには、もう呼び捨てで呼び合う仲になっていた。いつものように、ヒトミが持ってきたチョコレートを食いながら、自分の席でぐうたら過ごしていた昼休みだった。
「あたしとばっかりいたら、友達減っちゃうよ」
「もとから少ないし」
「寂しいヤツ」
「おまえもな。早く友達作れ」
「外見で判断するような友達なんていらないし」
だったらその格好を何とかしろ と言うと、決まって頭をはたかれる。だから、放っておいた。
ヒトミは、明らかにクラスの、特に女子の中で浮いていた。むしろ、自分から距離を置いていた。女の子と喋ると、自分が女じゃないと言われているような気がする と話していたことがあった。
「別に見下しているとか、自分とは違う とかそういうふうに思ってるんじゃないんだよ。あたしはあんなふうにはなれないから、遠くから見ている方がいいだけ」
はしゃぐ女子たちを眺めるヒトミの目には、確かに憧れに似た色が映っていた。
「一緒にいて楽になれなければ、友達なんて言えないじゃん」
「必要以上に気遣うとか?」
「わかるんだ。どんなに誉めたり、前向きなこと言っても、それ絶対本音じゃないだろ って言うのがさ」
ガサツに見えて、意外に繊細な一面を持っているのが、この女の飽きないところだった。
「それをいちいち気にしちゃ、ダメだとは思うんだけどね」
「めんどくせえな、女って」
「男は違うんだ?」
思いがけない反撃をしてくるところも含めて、面倒で、退屈しなくて済む。
「そこまで深刻じゃない。どうでもいいことでライバル意識持ったり、優越感に浸ったりはあるけど」
「たとえば」
「あそこのデカさとか?」
「あー、それアレだ。女同士で体型とか体重とか内心比べあってるの同じ」
「内心なのが怖えよ」
「男だったらネタで済んでも、女は根に持つからね」
「いや、自分のバカにされたら男の方が一生根に持つって」
「別にいいじゃん、小っちゃくたってちゃんと動けば」
「何でもかんでも小型化世代の考え方だな」
「機能性重視!みたいな?」
くだらねー と、教室の端っこの席で爆笑した。今思えば、昼時から下ネタで盛り上がれるとは、贅沢な青春だった。
学校帰りに映画を観に行ったのも、そんな日々の一日だった。秋が冬に変わろうとしていた、風の冷たい日だった。
いわゆるミニシアター系の作品だったその映画は、ひどく退屈で、ものすごく鮮やかだった。大正時代の文豪の小説が原作で、過去に上映されたものを、同じ監督がリメイクしたものだった。俺は監督の、ヒトミは出演する俳優のファンだった。
「さっきの映画でさ」
コンビニで買ったおでんをつつきながら、暗くなった道の途中でヒトミが呟いた。
「主人公が言ってたじゃん。妻じゃなくて、友達ならよかったっ て」
地位も金もあり、美人で非の打ち所のない妻がいるにも関わらず、その妻を女として見られず愛せない男と、夫に愛されない寂しさから不倫に身を堕とす女の、虚しい夫婦像を描いた話だった。
「それって、女としてではなくても、友達っていう同格の存在でいたかった、ってことじゃん?奥さんは愛されたかった って言ってたけど。どっちが幸せなんだろうね」
ヒトミはまた呟いて、ゆでたまごを丸ごと頬張る。
「それって、恋人と友達どっちが上かっていう問いに繋がるよな」
もういいや と押し付けられた容器を受け取り、残っていたしらたきと汁をかきこんだ。割り勘で買ったのに、ほとんど食われてしまっていた。
「そうそう、友達以上恋人未満って。なんでそもそも友達のが下になってんだろ。恋人なんて、いつか別れるじゃん」
「所詮は呼び方の違いだよな。あとは」
いつもと違い、日が落ちたあとの、しかも映画という非現実からの帰路だったからかも知れない。俺は自分でも気づくほど饒舌になっていて、夜という雰囲気に酔っていた。
「するか、しないかの違い」
何をとは口に出さなかった。ヒトミの視線を感じつつ、電灯に浮かされた道の先を見つめながら、俺は喋り続けた。
「そうすると、やる友達と、やらない恋人なんてのが出てくる。さっきの話と同じだ。異性として愛されなくても、やることはやれる関係と、なんだっけ。ほら」
「プラトニック?」
「それ。性欲抜きで愛するっていう」
「じゃあさ」
わざと逸らしていた目を、行く手に回り込んで俺の足をとめたヒトミの、挑戦的な上目遣いに射止められた。
「あたしたちは、どうなるんだろう」
化粧のせいじゃない、強い眼差しだった。
「この先、変わっちゃうのかな」
はぐらかせる訳がなかった。
「どうにもなんないんじゃね?」
「ずっと?」
「ずっと、今のままだろ」
そう言うと、ヒトミはそっか とまたあの満面の笑みを見せた。
時間が止まればいい。
叶わないと分かっていても、あの時の願いは、今も消えないまま燻っている。