クラシックは一杯の珈琲と共に - アルプス交響曲
ここはとある地味で目立たない珈琲喫茶「山の牧場」。ここはいつもクラシックの名曲が掛かっている。いわゆる名曲喫茶だ。そこに毎日午後4時を過ぎた頃、ひとりふたりとお客はやってくる。お目当てはマスターの掛けるその日のお勧めの名盤だ。客は常連ばかりで皆マスターのその日の選曲を楽しみにやってくる。
カンカンカンコロコロコロ
入口のドアが開くたびにドアの上部にくくり付けてあるドアベル代わりのカウベルがのどかな音をたて、ドア向こうの暗闇から現れた客人は明かりが控えめに照らす店内にゆるりと入り込む。客たちは店に入ると皆一様にカウンターの向こう側にいるマスターに軽く頷いて見せ、それぞれがいつも座り慣れたテーブル席やカウンター席に腰を下ろす。それを合図にマスターはお客の珈琲を一つづつ時間をかけてサイフォンで入れ、カップに注ぎ、カウンターの左端から丁寧に一つづつ並べていく。そしてお客たちは順番に一人ずつ席を立ち、まるで自分のカップが分かっている様にカウンターに珈琲を取りに行き、再び席に戻ると静かに珈琲をすすり、マスターの選んだクラシックの名曲にじっと耳を傾けるのだ。店内は時たま低いささやき声で会話をする者がいるくらいで、それ以外は静寂の中をしっとりと、そして時に轟くようにクラシックの音楽が空間を満たしていくだけである。
マスターの今日の選曲は
リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲 作品64番」。
客足が一息ついて皆が自分の珈琲と共に席に戻ったころに、重苦しい金管楽器の低い不協和音が太く長く鳴りわたり真っ暗な夜明け前を告げる荘厳で静かな曲の出だしが店内に響きわたった。和音は段々に厚みを増してそれと共に高音のメロディが現れる。流れるような旋律がその音量を増すと登山前の日の出を告げるテーマが鳴り響き、それと共にそれまでほんのりと控えめだった店内の明かりが少しだけ強まった。力強い管楽器の高らかで神聖な響きが店内を覆い、客たちはそれぞれに息をつめ序章の幕開けに聞き入っていた。
その時、店の入り口のドアがそっとためらうように開き、ドアベルの「カンカンカンコロコロコロ」という乾いた音が申し訳なさそうに響いた。しかし静寂の中の侵入者を見咎める客は誰もおらず、皆ドアに目をやる事もなく身じろぎせずに音楽に聴き入っていた。
侵入者はドアを細目に開けるとするりと店内へ滑り込み、そのままドアに一番近いカウンター席に腰を下ろした。カウンターの内側に居たマスターはその女性客に軽くうなずいて見せると、サイフォンをコトコトと音をさせ彼女の為に珈琲を立て始めた。
低音で重厚な弦楽器の響きに金管楽器の調べが重なり、後方の弦楽器の旋律とコントラストを奏で始めるとマスターは小さめの珈琲カップを取り出し、サイフォンを外すと中身をカップにそろそろと注ぎ始めた。そして珈琲を入れたカップをお揃いのソーサーに音を立てないようにそっと乗せるとカウンターの女の前に静かに置いた。女は黙ったまま出された珈琲を右手で少し手前に引きよせると両手をカップに添え、まるで冷え切った手を温めるような仕草をした。
曲は淡々と流れていき、旋律はアルプス登頂への上り道の情景を奏でている。美しい弦楽器の音とその先に甘いホルンの音が控えめに絡む。森に入ったのだ。情景が更に進んで高音を奏でる管楽器が加わり音がだんだん華やかに軽やかになる。もう少し行くと小川が見えてくるだろう。そして川の情景が近づいて来るとともに軽やかなピッコロの音がどこからともなく現れた。それと同時にうつむきながらじっと曲を聴いていた客たちが一人一人と顔を上げ、浮き立つような表情を浮かべた。
するとそれまで何も言わずに珈琲カップで手を温めていた女がふと顔を上げ、カウンターの向こう側で静かにグラスを拭いていたマスターに
「久しぶりね」
と低く囁いた。マスターはグラスを拭いていた手を止めると彼女の方にゆっくり顔を向け、同じように低い囁き声で答えた。
「そうですね。本当に」
店内の空間を音楽が隙間なく埋めるように満たしていった。それまで聞こえていたオーボエの流れるような旋律は繊細で細やかな弦の調べに変わっていた。その先に見えてくるはずの情景は花の咲く草原。そして暫くするとカウベルの「カンカンカンコロコロコロ」というのどかな音が遠くから響いてきた。山間の牧場に到達したのだ。暖かい日が差し込むようなホルンの伸びやかな音が聞こえてくると客たちはくつろいだ様子を見せた。そこここで時折小声で交わす会話が聞こえ始めた。
「あなた、ちっとも変っていないわね」
女は軽く微笑むとマスターに向かってそう話しかけた。そんな彼女をマスターは穏やかな眼差しで見つめると問いかけた。
「珈琲の味はどうですか」
「いつもの味よ。美味しいわ」
女はカップに口をつけ、軽く一口含んで味わう様に口の中で転がすとそう答えた。そしてカップをそっとソーサ―におろすとマスターを透き通るような眼差しでまっすぐに見つめた。音楽は軽やかなステップを踏むような旋律を奏でていて、まるで聴き入る者たちの登山の歩調も軽くなるようであった。
「あの日も二人でこんな光景を見たわね」
女はまるで曲の調べに誘われた様におもむろにそうマスターに声を掛けた。それをマスターはまるで予期していたかのように
「そうですね。確か山あいの牧場でしたね」
と返事を返した。
「カウベルの音が聞こえたわ」
「あなたは何時までも耳を傾けていた」
「何時までも聞いていたかったわ」
「これ以上先に行かずここで夜を明かそうと言いましたね」
それを聞いた女は一瞬寂しそうな顔になり手元のカップに目を落とした。
その後暫く二人は会話をすることなく黙々と流れる音楽に聴き入っていた。情景は変わり不安げな管弦楽器の低い音が流れ、空が変化してきていることを告げていた。遠方からティンパニーの揺らぐような響きが後の天候の予兆を感じさせていた。トロンボーンの力強い音にオーボエの繊細な音色が重なり和音は音量を増し、登山の一行が頂上に近づいて居ることを知らせていた。やがて山頂のテーマが高らかに力強く鳴り響き、それと同時に場面が変わり、山頂の霧が晴れ続いて眩しい太陽の光が一面にそそぐ情景が音となって表れた。客たちは誰もが言葉を発することなくじっと聴き入っていた。カップを持ち上げて珈琲をすする者もおらず、曲の旋律だけが静寂の中にしっとりと響き渡っていた。そして音楽はいよいよ登頂後のクライマックスを迎え弦の旋律はどこまでも高く昇りつめていった。そして高く高く昇りつめた後、急に音量を落としたかと思うとファゴットの不安そうな旋律が現れ、続いて弦楽器の哀愁を帯びたメロディが長く重苦しく鳴り響いた。そしてその重苦しさはやがて静寂へと変わっていった。まるで嵐の前の静けさのように。
その時、女が顔を上げ、マスターを呼んだ。
「あなた、何故私を置いて行ったの?」
再びグラスを磨き始めていたマスターは手を一瞬止めるとそのままの姿勢で手元のグラスをじっと見つめた。
「あなた、何故先に行ってしまったの?」
女はもう一度マスターに問いかけた。マスターは答えずまた黙々とグラスを拭き始めた。音楽は不穏な響きを更に増し、シンバルの音と共に深刻な状況を暗示する低い管弦楽器の音が益々音量を増して行った。高鳴る楽器の音と共に後方から嵐を示唆するウィンドマシーンの激しい音がせわしなく鳴り響き、場面は下山途中の嵐に差し掛かったことを伝えていた。
「私あなたに追い付こうと必死だったのよ。あなたの背中をずっと見つめていたわ。見失わないようにずっと目で追っていたの。あの滝のような雨の中で、わたしずっとあなたの後姿だけを追っていたのよ」
女の口調は低いながらも少し上ずったように震えていた。
その時、それまで黙々とグラスを拭いていたマスターは、拭き終わったグラスをカウンター下の流し台の上に置くとようやっと顔を上げ、向いの女に顔を向けると悲しそうに女を見つめた。
遠方に聞こえていたティンパニーの音は段々と音量を増し今では途切れることなくとどろくように鳴り響いている。その響きに追い打ちをかけるように、弦楽器のまるで山肌を滑り落ちるような激しくせわしないパッセージが立て続けに繰り返される。管楽器のファンファーレが尋常でない危険を知らせるように高く途切れることなく続く。
「私はあなたが振り返って手を差し伸べてくれるのを待っていたのよ。歩みを緩めて私との距離を縮めてくれるのを待っていたの」
女はさらに続けた。
「私の両足はもう一歩も先に進めなかった。私の両手はあなたの背中を掴もうと必死だったわ。それなのにあなたは1度きりしか振り返ってくれなかった。振り返った時、あなたが見ていたのは私じゃなかった」「あなたは分かっていたはずだわ。私があなたと一緒に下山できないって」
「君を置いていくつもりはなかった」
マスターはようやっと絞り出すような低い声で女に向かってつぶやいた。そして続けて言った。
「君を置き去りにして一人で下山するつもりなど本当になかった。振り返った時、あの稲妻で私は何が何だか分からなくなってしまった。幾ら目を凝らしても君の姿は見えなかった。何度も何度も君の名前を呼び、辺りを這って君を探した。けれど打ちつける雨と落雷の激しい光の他は何も見えなかった。あの天候でこのままでは遭難すると思った」
「だからそのまま一人で下山したのね」
女はポツリとつぶやいた。マスターは苦悩の現れた顔で女を見つめ返すと
「悪かった。。。今でもそう思ってる」
と声にならない声でつぶやいた。
女は視線をカップに落としたまま身じろぎもしなかった。マスターも苦しそうな表情で女を見つめたままじっとしていた。
時が止まったような空間に音楽の旋律だけが流れて行った。荒々しい音色はだんだん音量を潜め、代わって弦楽器が厚い和音の静かな旋律を奏で始めた。日没が近づいて居た。
「あの日の事を忘れたことはなかった。君の事を忘れたことはなかった。君の事は自分の責任だったとずっと思っていた」
長い沈黙の後、マスターはやっとそう言った。
山頂でのテーマがバイオリンの旋律となって再び現れた。それに他の弦楽器が重なり深みを増した同じ旋律がもう一度奏でられる。幾重にも折り重なった弦の音が高らかにその旋律を歌い切った後、荘厳なオルガンの調べがまるで天上の音楽の様にどこからともなく響いてきた。そしてその重厚な旋律は店内隅々の空間までに染みわたっていった。それは聴いている者の心の奥深くまでにも染みわたっていき、まるでどんな負い目もこだわりをも洗い流してしまう程の力強さと高貴さを備えているようだった。
女は苦しそうな顔のマスターにじっと眼を据えると落ち着いた口調で言った。
「もう何年も前の話だわ」
マスターの苦悩の表情に切なさが混じる。
「あなたも忘れてもいい頃じゃないの」
女は少し疲れたように言う。
「私の事なら心配しなくていいのよ。もう寒さも疲れもないのだから」
マスターの表情は切なさを一層深め、女を見つめる両目は少し湿り気を帯びてきた。遠くから聞こえてくるオーボエの音は哀愁を帯びた音色から少しずつ少しずつ心のわだかまりを溶きほぐすような柔らかな旋律に変わっていった。その柔らかな旋律に穏やかな流れるような低いオルガンの調べが重なり、音楽は静かで平穏な終末に差し掛かっているのを知らせていた。
「。。。それにあなたはこうして毎年この日になるとこの曲を掛けてくれているわ」
マスターは何か言いたそうに口を歪めるが何も言わずに女をただ見つめている。
「だから私はこの曲が流れる間だけ毎年あなたに会いに来るのよ。あなたが待っているって分かっているから」
そこまで言うと女は店の反対側の壁に掛けてある一枚の写真の方へ顔を向けた。それは大学山岳部時代のアルプス制覇をした時の記念写真だった。マスターと彼女の姿は写真の真ん中に他のメンバーに囲まれるようにして写っている。
「私はいつだってあそこからあなたを見ているのよ」
女は写真に目をやったままそうマスターに話しかけた。音楽は段々と音量を下げ、曲の終末に向かっていることを告げていた。静かなオーボエの音が美しいバイオリンの調べに重なって長く長くそしてゆっくりと響きわたる。
「もう時間だわ。私、行くわね」
女は珈琲カップをそっとマスターに向けて押しやるとふっと微笑んで見せた。「ありがとう。美味しかったわ」
マスターはカップを下げようと伸ばした手をそのまま止め、すっと持ち上げるとカウンターから去りかける女の手首をそっと掴んで言った。
「また来年、お待ちしていますから」
女は軽く微笑んだまま小首をかしげてマスターの顔を見ると何も言わず身を後ろに引いた。マスターの手が彼女の手首を離れた。
「お願いがあるの」
女は低い声で言った。
「もういいって思える時が来たらドアのベルを替えて欲しいの。その時はあのカウベルは外してちょうだい」
マスターは黙って物言いたげに女を見つめた。
「お願いよ。約束してちょうだい」
そう言うと女はゆっくり踵を返すと来た時と同じように静かな「カンカンカンコロコロコロ」という乾いた音をさせてドアを開けた。そして店内に背を向けたままためらうようにふと立ち止まった。しかしそれはほんの一瞬で次の瞬間、女は細目に開けたドアを左手で支えると振り返ることなくそのままするりとドアの向こう側の闇の中へ消えた。
店内には演奏が終わった後の厳かな静寂がたたずんでいた。音楽が終わった後、店内の明かりは再び絞られ、交響曲最終章の夜の訪れをそのまま再現しているかのようであった。そして染みわたる静寂の中に聞こえるのはお客たちが珈琲カップをそっとソーサーにのせる音だけだった。
先日、シュトラウスの「アルプス交響曲 第64番」のコンサートに行ってきました。初めてこの曲を聴いてその物語性に感動しました。ちょうどその頃に人が「名曲喫茶」なるものについて話しているのを聞き、この2つをヒントに話を書いてみたいと思うようになりました。こうしてこの話は生まれました。喫茶店で珈琲でも飲みながら。。。というモチーフ自体はあちこちにあるのでそれらの二番煎じや二次創作にならないように気を使ったつもりです。皆様の読後の感想は如何でしょうか。読んでくださいまして大変ありがとうございました。感想を頂けますと大変ありがたく思います。