パンツレジスタンスの憂鬱
寒い。目を開けば、いつも通りの薄汚い天井が目に入った。
カレンダーを確認してみれば、今朝はクリスマス。清らかな子供に対して、サンタクロースがプレゼントを配って回る日である。それを思い出し、若干の期待を抱いて、私は枕元を確認した。
私は大学生ではある。だが薄汚い青春の中に立ち竦み、これまで純真無垢を貫いてきた。さらに親元からの仕送りに生活費の大部分を頼ってもいる。以上のことから考えるに、私は清らかな子供と言えなくもないだろう。自立自活できていないだけのただの童貞学生であるという意見は封殺させていただく。
よって私はあくまでさり気なく枕もとを確認した。しかしやはりと言うかなんと言うか、私の枕元には寒々しい青春を象徴するような猥褻図書が散らばっているだけである。
「サンタからの贈り物として美しい乙女を、そしてそのパンツの向こうの神秘の世界を!」との私の願いは、今年も木端微塵に打ち砕かれた。
寒い。淡い期待によって熱を帯びていた体が、その微かな希望が打ち砕かれ、一気に冷めていく。いや、実際に寒いのだ。ブリーフとTシャツ一枚ではあまりにも寒い。
私はやってられないね、とため息をつき着替えのズボンを探した。
しかし見つからない。奇怪なことにタンスからも洗濯籠からも果ては物干し台からもズボンが消え去っているのだ。いやズボンだけではない。パンツというパンツ。ブリーフ、ボクサー、トランクス、悉くが消え去っている。私の下半身を守るものは今身に着けているブリーフだけだったのだ。
こんなブリーフ一枚では外に買い物に出ることもできない。公序良俗の頽廃が嘆かれ、自身の良識が疑われる。
私は途方に暮れてテレビをつけた。他にすることがなかったのだ。この下半身の不安を誤魔化すために何かをしていなければ落ち着いていられなかった。
テレビをつけると画面の中で男性アナウンサーが必死の形相で何事かをわめいている。どうやら緊急報道をしているらしい。
「――今日未明、東京からありとあらゆる下着とズボンが消え去る、という怪事件が起き――」
画面が切り替わり、街の様子が映し出された。
そこにはおしゃれなアパレルショップや町のファッションセンター、激安の殿堂などを襲う暴徒たちの姿があった。下半身丸出しの。
下半身丸出しの暴徒たちは降ろされたシャッターを打ち破り、下半身丸出しで店内に突入していく。その様子はまるで核戦争後の荒廃した世界を思わせるほどに野蛮であり、私は顔をしかめた。
下半身を丸出しのまま行動できる非文明的な人間にふさわしい非文明的行為に嫌悪感を抱いたからである。それと彼らの股間で振り子運動をする肉体の一部にも。私には他人の男性器を見て喜ぶ趣味などないのだ。
その野蛮な光景を画面に映しながら、なおもテレビからアナウンサーの声が響いてくる。
「このような行為は絶対にしないでください! まったくの無意味です! 店頭からも倉庫からも、下着やズボンなどは無くなっているようです! また、札幌、名古屋、大阪、広島、福岡などからも同様の情報が入ってきており――」
ネット上の掲示板を覗いてみても同様のようだ。「悲報:パンツが消えた」「朗報;パンツが消えた」などの書き込みが乱れ飛んでいる。
よくよく調べてみると、この現象は日本だけでなく全世界も同様のようであった。
しばらくネットの書き込みやニュースを調べていくうちにいくつかのことがわかった。
・世界からパンツが消えた。それは着用中未着用に関わらず、流通過程からも消えているらしい。
・下半身を隠そうと、上着やタオルを腰に巻くと、それらも消えてしまう。
・工場でパンツやズボンを作るそばからパンツが消えていく。パンツが作ったそばから消えていくことによって生まれる資源の浪費は計り知れない。
つまり。世界から人類の下半身を守るものがなくなってしまったのだ。この私の履いているパンツだけを残して。
私は小躍りをした。乙女の神秘部分を目の当たりにするチャンスである、と。
○
私はこっそりと外に出てみた。いつもならば人通りの多い通りに誰もいないのは「クリスマスだから」などという理由からではあるまい。
皆が皆、下半身を丸出しにして猥褻物を陳列することを恐れているのだ。それは往来だけではない。通りに並ぶ商店や事務所にも誰もいない。まるで自分だけを残して、世界が滅亡したかのような不思議な光景である。
私は誰もいないコンビニで弁当を仕入れ、料金をカウンターに置いて帰ることにした。
帰る途中で、私は人影を見かけた。私は「すわ、乙女か!」とばかりに喜んだが、それがどうやら下半身丸出しの若い男であることを確認して落胆した。
決して、乙女の神秘部分を見ることができる、と期待していたわけではない。私は紳士である。そんな下世話な欲望を振り回すことなどしない。しないが、目の当たりにすることがあれば目をそらすつもりはない。人間、目の前の障害から目をそらしてはいけないのである。しかし男性の下半身を見ることによって生じるやるせなさと、同じ男性にブリーフ姿を見られることへの不毛さに落胆したからといって誰が私を咎めだてられるであろう。
見苦しく、そして恥ずかしいばかりで悦びがないではないか!
だが人恋しさを埋める出会いであったことも事実である。私は彼に近づこうとした。
「おはようございます。寒いですね」
「ぐぅるるる……」
様子がおかしい。そのことに早い段階で気づくことができたのは僥倖であった。彼は妙な唸り声を上げながら、虚ろな眼で私の股間をじっと見つめている。
「ぱ……」
彼が口を開いた。
「パンツをよこせぇぇぇぇ!!」
その言葉と同時に私に飛びかかってくる。が、十分に距離があったのが幸いした。私には踵を返し、脱兎のごとく逃げ出す時間があったのだ。
全力で私のブリーフを求めるゾンビのような男から逃げ出す。
「パンツ?」
「パンツ!」
「パンツ!」
「パァァ~ンン~ツゥゥゥ~~!!」
パンツゾンビの声に呼応したかのように、路地から、マンションから、商店から、虚ろな眼をした人間たちが次々と現れる。男もいる。女もいる。だがそれぞれにみんな下半身丸出しである。
男性の下半身だけでなく、女性の下半身をも見ることができた。しかしその成果に私は喜ぶことができなかった。
一心に求められることは、男として誇れることであろう。
だが男に求められても嬉しくない!
またこの瞬間において、女に求められても嬉しくない。
彼女たちが求めるものは私のブリーフなのだ! そんな意味不明な女性に興奮、そして喜びを感じることなどできるものか!
○
自慢ではないが私は逃げ足には自信がある。これにより数々の危険から逃れてきた。ときに因縁をつけてきた不良学生から逃げ出し、ときに取得不可能な単位への懊悩から妄想の世界に逃げ出した。この逃げ足で肉体的、精神的に健康を保ってきたともいえる。女性と懇意になる機会にもその逃げ足の才能が発揮されるのは困ったことではあるが。
私はパンツを求めるゾンビたちに見つからないように追跡を振り切るため、その逃げ足を存分に発揮した。塀を乗り越え、他人の家の屋根を駆け抜け、下宿先に速やかに逃げこみ、息をひそめ、生まれたての子鹿のようにぷるぷると震えていた。私はパンツを履いたバンビちゃんであった。
○
三日が過ぎた。
政府は世界が一夜にしてパンツ丸出しになった事態を重く受け止め、すぐに対応策を打ち出した。
下半身丸出しでも猥褻物陳列罪に問わない、としたのである。羞恥心からくる人々の活動停止、およびそれによる経済活動の停滞、社会の混乱を重く見た結果であった。
これによりパンツを求める者たちの暴動は収束し、下半身丸出しの羞恥に部屋の隅で震えていた者たちは社会への復帰を果たした。ごく少数の露出趣味のある者たちは純粋に喜んだ。
社会は一応の回復を見たのだ。その構成員たちが下半身丸出しであること、その一点だけを除いては。
公序良俗の定義が改定された次の朝、再びパンツを奪われる恐怖に怯えながら下宿から顔を出した私を待っていたのは、いつもと変わらぬ日常であった。皆が皆、下半身を丸出しにしていることだけが過日と違う。私は牛丼屋に駆け込み、牛丼とみそ汁をかきこんだ。三日ぶりの食事に滂沱の涙を流しながら、私は誰に対するでもなく感謝の念を捧げた。
誰にもパンツを奪われる恐れのない安心感、これが楽園か!
○
下半身丸出しであることが是とされる世界となって一か月が過ぎた。
未だに失われたパンツとズボンは戻ってこない。皆が皆、下半身丸出しである。そんな中、世界でただ一人パンツを履いている私は、いつしかパンツ原理主義、パンツに魂をひかれた旧人類、パンツレジスタンスとして後ろ指をさされるようになっていた。
大学の先輩からは呆れられ、同期からは馬鹿にされ、後輩からは恐れられた。
しかしそれもやむなし。全世界においてただ一枚残ったパンツ、そしてパンツを履くという文化を後世に伝えていくこと、それこそが我が使命なのだ。
パンツとは局部を守る優しさと、自身を引き締める厳しさの両面を併せ持つ、素晴らしい愛の文化である。
縮こまりそうな寒さから暖かく局部を守り、暑さによる蒸れから汗を吸収することで守る。
尿漏れなどからくる不快感を味わわないで済むようにそれとなく注意を促し、軽く締め付けることでブラブラと奔放なちんこを優しく諭す。
ああ、なんと深い愛であろうか。
そしてそんな唯一無二の愛から来る、今は失われて久しい文化にチラリズムというものがある。
鉄壁の防御、その深奥をほんの少しだけ他人の目に晒してしまうという至高の文化だ。
それがどうであろうか。下半身丸出しが当然となったこの世界ではパンチラ、マンチラといった光景はもはや遠い過去の遺物となってしまった。
堂々と曝け出されるものに対して、なんの感慨とエロスを感じろというのか。そんなものは神秘と呼ぶに値しない。
なおチンチラ、モロチンはどうでもよろしい。
○
パンツを体から離してしまえば消えてなくなってしまうような不安に駆られたため、私はパンツを肌身離さず生活していた。パンツを履きながら入浴をし、パンツをズラして用を足し、自慰行為もパンツを履いたまま行った。もちろんそんな状態で満足に体もパンツも綺麗にできるわけがない。
そんな生活を続けるうちに、いつしか私のブリーフの色は変わり、匂いも立ち込めてきた。
いや、これは悪臭ではない。パンツという人類の誇るべき文化の香りだ。そうは思うものの、パンツの中に渦巻いている痒みや悪臭の織り成す混沌のことを思うと胸がむかむかとするのを抑え切ることはできなかった。
奇怪なのはパンツという文化を捨てた野人たちの方が、文化的な生活をしているように思える点である。
風呂で丁寧に体を洗うことができ、常に清潔な風を下半身に送ることのできる彼らからは、文化の香りこそしないものの種々の病気から解放され、幸福に包まれているように思われてならない。
○
一年が過ぎた。
私のブリーフは元の色を想像することが困難なほどになっていた。勿論匂いもとんでもないことになっている。
それらの憂鬱から逃れるために繁華街の立ち飲み屋でしこたまに酒を飲もうとしたが、誰かの舌打ちと共に吐き捨てられた「くっせぇな」という声が耳に刺さった。
なんとでも言うがいい。
パンツとは文化だ。お前のような野人には理解できないだろうが、これは愛が形をもって世の中に顕現したものなのだ。
この世界に残されたただ一枚のパンツの持ち主となった私には、これを守る義務がある。守ってみせる。
そう決意はするものの、来し方一年に及ぶ、痒みと悪臭にまみれた思い出が走馬灯のように去来し、涙がこぼれそうになった。
――泣いてなるものか。
パンチラ、ノーパン、パンツかぶり。ストリッパーのパンツに紙幣を差し込む。美少女が尻に食い込んだパンツの食い込みを直す仕草。
――これらを無くしてしまってもいいのか? いいわけがない!
しかし。
パンツに由来するあらゆる文化が自分の下半身に重くのしかかっているように感じられ、私は立ち竦むより他なかった。
道行く下半身丸出しの人々が怪訝そうに私を横目で見やる。その顔がしかめられているのはパンツレジスタンスたる私に対する侮蔑からか、はたまた悪臭から来る嫌悪からか。
吹きすさぶ冬の冷たい風と他者からの冷たい視線の中、立ち竦む私の脳裏にふとある考えがよぎった。
――もしやこのような事態になってしまったのは、一年前のクリスマスイブの夜、美しい乙女の神秘部分を見たいなどと願ったからではないだろうか。
私は阿呆であった。
確かに乙女の神秘部分は見たい。だがそれは自らの努力で見るべきものだったのだ。下半身の守りなく、丸出しの神秘部分を見て何の感慨があるであろう。
もちろんそのこと事態は頭では理解していた。理解していたつもりであった。
しかし、私はパンツへの愛情、そして文化を守るということにばかりに目がくらんでいた。パンツによって生まれる侘び寂びを己が物とできていなかったのだ。
私は自らのブリーフを握りしめて天を仰いだ。
なんという阿呆か。こんな阿呆にパンツという文化の担い手たる資格などない。私は文化の象徴たるブリーフを脱ぎ捨てよう!
願わくば、パンツ文化が誰かによって継承されれば良いが。そしてパンツがいつの日か復活することを願おう。
そう決意してブリーフを下ろそうとした私の顔に何か白いものが舞い降りてきた。雪かとも思ったが冷たくはない。どこまでも柔らかく、仄かな温かみまで感じられるようである。
私の顔を覆ったそれを手に取ってみると、それは新品の純白ブリーフであった。
慌てて再び空を見上げてみれば、夜空から幾千、幾万枚、のパンツが舞い降りてきていた。
レースがある。縞パンがある。ボクサーパンツがある。トランクスがある。
クリスマスの喧騒は舞い降りてくる柔らかい生地に吸い込まれ、辺りは驚く程に静かである。そして静かな夜の中、色とりどりのパンツと星空の織り成すハーモニーは幻想的ですらあった。
やがて降り注ぐパンツに通行人たちは一人気づき、二人気づき、そして彼らはパンツを履いていく。パンツ文化が復活したのだ。
私は降り注ぐパンツの中、空を見上げて男泣きに泣いた。
パンツ文化を断絶させることなく、今この瞬間につなげることができたのだ。
一年間の苦難苦境が私の脳裏を走馬灯のように駆け巡った。辛いことばかりだったような気もする。ふんぷんたる匂いを撒き散らし、痒みに襲われ、てきめんに病気になった。
周囲の者たちは私を馬鹿にしたし、恐れたし、関わりあいにならないようにした。ついには心挫けそうにもなった。
しかし他者から馬鹿にされようとも、たとえ私が心折れる寸前であったとしても、パンツ文化を守ることができたのは小さく、そして大きな勝利である。
パンツレジスタンス活動は報われた。
大きく息をつくと、心機一転、すっかり往年の面影をなくした古いパンツを脱ぎ捨て、私も今しがた手に入れたばかりの新品ブリーフに着替えた。
これより私と人類は第二次パンツ文化を共に発展させていくのだ。
その決意を温かく包むブリーフの肌触りがなんとも心地よかった。
「メリークリスマス」
私は新たな一歩を記念して、そう呟いた。