逢瀬川まなみ 3
やらずに後悔するよりは、やって後悔したほうがいいという言葉がある。
しかし実際のところは、やろうがやるまいが結果次第だ。
例えば、狂気に駆られた男子高校生がクラスメイトの女子を追いかけて、怒りに任せて後先考えずに殺してしまったとする。近くの農家に忍び込んで、納屋から手頃な鎌を持ち去り、下校途中の女生徒を襲うのだ。夕暮れで人気のない田舎道で、あたりは雑木林に囲まれて、叫ぼうが喚こうが助けはどこからもやって来ない。引っ越してきたばかりで土地勘もない少女は逃げ道さえわからず、大量の血を体中から吹き出しながら、断末魔の悲鳴を上げる間もなく絶命する。少年は力任せに彼女の死体をバラバラにしてからビニール袋に入れて、そのまま近くの貯水槽へと沈める。これでもう少女の死体は二度と日の目を見ることはない。道路の血も、自動車が野生動物をひき殺した程度にしか認識されないだろう。完全犯罪の成立だ。
だが、もしも万が一、誰かが死体を見つけてしまったら?ただでさえ降水量が少ない今年は、どこかの田んぼから貯水槽の水を引きに来るかもしれない。あるいは野生動物が死体をあさって、引きずりまわした挙句どこか人目につくところに放置するかもしれない。そうなれば、警察が少女の死体を入念に調べるだろう。もしかしたら髪の毛や何か、犯人を特定する物的証拠を見つけるかもしれない。そうなれば少年の人生は終わりだ。彼は一生、一度の衝動で犯したあやまちを後悔し続けるだろう。
僕は飛び上がるようにして布団から起き上がった。心臓がバクバクとして、汗が滝のように流れている。寝間着と敷布団いっぱいに、汗のあとがくっきりと残っている。
僕はしたたる汗をぬぐいながら、網戸を開けた。真夏のぬるい風がまとわりついて、余計に不快な気分になる。僕は駆け降りるように外に出て、頭から井戸水を被った。ひんやりと冷たい水が、僕の熱と汗を洗い流す。それでも何か、まるで僕の体にしみこんでしまったように、気持ちの悪い感覚が付きまとって離れない。
逢瀬川まなみを殺したからだ。
大丈夫。僕はうまくやった。明日からも、今までと同じように平穏な日常が続くんだ。僕はいつも通り、平凡なルーチンを続ければいい。いつも通り学校に行って、同級生と適当に話をして、終わったら祖父と一緒に再放送のドラマを見ればいい。それだけだ。
ふいに誰かがこちらを見ている気がして、僕はハッと振り返った。暗がりにぼんやりと浮かび上がる人影に、僕は目を凝らす。
逢瀬川だ。逢瀬川がいつもの無表情のまま、こちらをじっと見ている。何を言うわけでもなく、ただじっと僕のほうを見つめている。
馬鹿な!僕はかぶりを振った。そんなわけがない。だって僕は、今日あいつを殺したのだ。
逢瀬川はニャーと一声鳴いてゴミ箱から飛び上がると、そのまま音もなく夜の闇に消えていった。その場には恐怖に震える僕と、そこらじゅうの田んぼから聞こえるカエルの鳴き声だけが残った。
猫と人間を見間違うなんてどうかしてる。僕はしゃっくりをするように声を出して、それから自室に戻った。本当は笑い飛ばすつもりだったけれど、かすれるだけでまるで声にならなかった。
*
翌朝、一睡もできなかった僕は、それでも今までのルーチンを取り戻すように、今まで通りの時刻に家を出た。もちろん、学校に着くのは僕が一番早い。教室には誰もおらず、エアコンもついていないから僕が窓を開ける必要がある。十分後にネガティブな話をする女生徒が来ることはないし、ましてや見知らぬ転校生が僕の前に座っていることもない。
教室に入って、僕は戦慄した。僕が殺したはずの逢瀬川まなみが、まるで何事もなかったかのように僕の前の席に座っていたのだ。彼女のほうも僕に気づいたらしく、こちらをじっと見つめている。
「お、おはよう」
僕は前と同じようにぎこちなく、しかし今回は探るように逢瀬川の反応を待った。彼女のほうは僕になどまったく関心がないかのように、正面を向いたまま黙り込んでいる。そうしているうちに他の生徒がやってきて、ホームルームが始まっていた。
嫌な感じだった。クラスでは何の変哲もない、いつも通りの日常が進行している。教師はおろか他のクラスメイトも、何一つ疑問を持たずそこに逢瀬川がいることを受け入れている。もちろん、彼女の死を知っているのは彼女を殺した僕自身だけだから、僕以外の人間が気が付くはずもないのだけれど。
あるいは、間違っているのは僕の記憶のほうかもしれない。逢瀬川のことをあんまり憎らしく感じたせいで、彼女を殺す妄想をしてあたかもそれが現実であったかのように錯覚していた可能性もある。それか、今朝までやたらと長い夢を見ていて、いまだに寝ぼけていたということもあり得る。そうであれば、彼女がいつも通り登校していることにも納得できる。きっとそうなのだ。
教室の前のほうから順番にプリントが回ってきて、僕の前で少し止まった。それから逢瀬川が、振り向きもせずに細く青白い腕だけを伸ばして、僕にプリントを渡す。その腕には、まるでこの世のものではないかのような不気味な美しさがあって、僕は思わず目を奪われた。
「えー、ひょっとしたらもう皆も家族から聞いているかもしれないが」担任がもったいぶるようにして口を開いた。「昨日、市内で殺人事件があったらしい。今朝一番で学校に連絡網が回ってきた。地図を見てもらえばわかるが、学校から比較的近い場所で起こったとのことだ」
僕はハッとして目を凝らした。地図のバツ印のついた場所は、間違いなく僕が昨日逢瀬川を手にかけたところだった。しかし、逢瀬川は目の前にいる。僕はパニックになって、地図と担任と逢瀬川を何度も見返した。
「第一発見者は近所の住人で、朝の散歩中に道路でこの血の跡を見つけてすぐに警察に連絡したそうだ。警察の調べによると、現場に残された血液から被害者が人間であることは確実で、血の跡がその場所以外に見つからないことから何者かが被害者の死体を持ち去った可能性があるとみているらしい。犯人についても被害者についても、目下のところ調査中だそうだ。いずれにしても、安全のために登下校の際は複数で行動するように」
はあい、とクラス全体が間の抜けた返事をした。僕はかろうじて、口をパクパクと動かしただけだった。
僕は頭を抱えた。僕が逢瀬川を殺していたんだとしたら、目の前にいる逢瀬川は一体なんなんだ?双子の姉妹か?そっくりさんか?あるいは逢瀬川の幽霊か?いや、そんなことはありえない。あまりにも非現実的過ぎる。一番可能性が高いのは、僕が昨日逢瀬川と勘違いして、まったくの別人を殺してしまった説だろう。それなら少なくとも、殺人事件があった事実と目の前に逢瀬川がいる現実が両立する。僕の記憶が正しいことを前提にしてだが。
プリントの裏に何か書いてあることに気が付いて顔を上げると、逢瀬川が不敵な笑みを浮かべて僕を見つめていた。まるで何もかもを見透かすような、僕の考えていることなんてすべてお見通しであるかのような表情だ。僕はすぐに顔を伏せて、そのまま震えながら時間が過ぎるのを待った。
いずれにしても、僕は確かめなければならない。逢瀬川の死体が、昨夜僕がバラバラにしたまま、無事に貯水槽の底に沈んでいることを。死体が死体のままであることを。そして、誰も死体の存在に気が付いていないということを。
僕は掌が汗ばむのを感じながら、プリントを握りつぶした。裏側には、「アナタ、ヤッパリツカレテルヨ」と書かれていた。