逢瀬川まなみ 2
その日、僕のクラスは公式には休みになった。小柳の葬式のためだが、受験を控えた高校三年の夏ということで、希望者には午後から授業があったという。当然、担任とクラス委員、それから何人かのクラスメイトは小柳の葬式に出席した。突然の小柳の死は、クラスどころか学年中を噂でもちきりにするほどだったとのことだ。葬式に参列していた僕は、あとから噂程度に聞いたのみだったが。
小柳の死を、僕は担任からの電話で知った。普段、教壇で話す時よりも一層静かに、担任は受話器越しに彼女が死んだことを告げた。そうして、僕にどうしても葬式に参加してほしいというリクエストが、小柳の両親からきているとも言った。寝耳に水だった僕は、寝起きで朦朧とした頭が見る見るうちにクリアになったのを覚えている。すぐに両親にその旨を伝えて、学ランのまま伝えられた葬式会場へと向かったのだ。
遺影の小柳は、いつもの間の抜けた、楽観的な笑顔を浮かべていた。
式が始まってから、僕は小柳のことで頭がいっぱいだった。なぜ、小柳は死んだのだろう。昨日までは元気だったのに。いつもの、あの穏やかな笑顔を浮かべていたのに。僕に、また明日って言ったのは、ほかでもない小柳ここみ自身だったのに。
式が行われた会場は、その斎場の中でも一番小さいところだったように思う。小柳の親戚のほかは、極々わずかな人たちが式に参列していた。高校の連中も、先に挙げたような人たち以外には、僕だけだった。だから僕の焼香が回ってくるのは、ひどく早かった。
解散してから、担任が僕に声をかけてきた。小柳の両親が、どうしても僕と話したいということだった。担任の後ろから出てきた両親は、とても焦燥している様子だったものの、僕が挨拶をすると涙を浮かべながら愛想笑いをした。
「ここみが、いつも『久地ヶ先くん』『久地ヶ先くん』ってね。最近、学校が楽しいんだって、久地ヶ先くんと今日はこんな話をした、久地ヶ先くんはこういう人なんだって、本当にうれしそうにね。だから、今日は本当に来てくれてありがとう」
言いながら、腰を曲げて頭を下げる小柳の両親に、僕もお辞儀を返した。気の利いたことは何も言えなかった。ただ、「このたびはご愁傷さまです」「僕も本当に残念です」と、どこかで聞いたようなセリフを言っただけだ。
参列したクラスメイト全員を家まで送り届けてから、担任は僕に小柳の死は自殺だったと教えてくれた。家族全員が寝静まった後に、浴室で喉元をカッターナイフで深く切り裂いたのだという。お湯によって温められた体は血液の循環を早めるから、首元から溢れる自分の血がお湯に広がっているのを見ながら眠るように死んでいったのだろうと言って、それっきり担任は口をつぐんだ。
家についてから、心配そうに声をかける祖父母に適当な返事をして、僕は布団にもぐりこんだ。まだ昼過ぎだというのに、やたらと体がだるい。まるで魂が抜けたような気分だった。
小柳は、僕と話すのが楽しかったのだと、小柳の両親は言った。僕のおかげで学校生活が楽しくなったのだと、僕と話している間が一番幸せなのだと言った。
小柳の自殺は、イジメが原因だろう。家庭にも問題がなく、成績が特段悪いわけでもなく、悩みのない楽観主義の彼女が唯一苦にしていたものは間違いなくイジメだ。だから、昨日小柳が僕と一緒に帰りたいと言ったのは、彼女からのSOSだったのだ。その後どんなことがあったのかは知らないが、彼女はもう生き続けるのさえ拒否するほど苦しんで、自ら死ぬことを選んだのだ。
だとしたら、じゃあ僕はどうすればよかったんだ。あの時、僕に話しかけてきた小柳と下校すればよかったのか。あるいはイジメている連中を怒鳴りつけてやればよかったのか。小柳のために?小柳という、僕にとって朝のほんの短い時間話すだけのクラスメイトを助けるために、身を挺して行動すればよかったのか?僕にとっては、本当にただの、ネガティブなだけの、クラスメイトの一人に過ぎなかった小柳ここみを?
朝よりももっと速く、ぐるぐると行き場なく頭が回転して疲れた僕は、その日は一日寝ることにした。大切なルーチンの夕食や入浴もせずに、朝まで布団の中でうずくまっていた。
まるで眠りもしないまま、僕の中で小柳の存在がどんどん大きくなっていくことに、もう手遅れなことと知りつつも感じていた。
それからすぐに夏休みになってからも、僕は小柳のことだけを考えて過ごしていた。
*
二学期初日の朝は、普段よりもずっと遅く家を出た。一学期には僕を急き立てるようにしていた家族も、夏中の僕を知っているからか何も言わなかった。僕自身は、今までのルーチンが乱れていることに少しイライラしたものの、初日だからノーカンにすることにした。どうせ始業式があるから、授業の開始まではたっぷり時間がある。
夏休みが明けても、うだるような暑さとセミの声は続いていた。今年はろくに雨が降らなかったくせに湿度だけは高く、大学受験を控えた高校三年生からはもれなく熱意を奪っていることだろう。
体育館で聞こえる校長の声を背に、僕はそのまま教室に入った。以前なら、クラスで待っていれば十分後には小柳が来て、またうんざりするようなストーリーを聞かせてくれた。だが、今はもうそれがない。
入ってすぐ、僕は室内の冷気に気が付いた。クーラーがついているのだ。
同時に、僕は見慣れない人物と目があった。僕の前の席、つまり小柳の席に、知らない女生徒が座っていたのだ。色白で、長いスカート、長い黒髪。すましたような、あるいは退屈そうな顔をしながら、頬杖をついていた。
「お、おはよう」
僕はぎこちなく挨拶をした。女生徒は、僕をにらむように一瞥しただけで、それっきりだった。僕は居心地の悪さを感じながら、彼女の後ろの席に着いた。始業式が終わってほかのクラスメイトが教室にやってくるまで、長い無言の時間が続いた。
彼女の名前は逢瀬川まなみと言う。親の転勤で、東京から急遽転校してきたらしい。二学期からの短い期間だけになるけれど仲良くするようにと、担任はいつもより余計に声を大きくして言った。対照的に逢瀬川本人は、自己紹介もそこそこに自席へと戻った。自己紹介自体も、ほとんど担任が話したようなものだった。
逢瀬川まなみは物静かで、教室では主に本を読んで過ごしていた。本にはカバーがかかっていたから、何を読んでいるのかは誰も知らない。自分からは積極的に話そうともしなかった。
それでも男子からは猛烈なアプローチがあった。逢瀬川は頭脳明晰で、スポーツ万能で、おまけに人形のような美人だった。噂では帰国子女でもあるらしく、その肌の白さからハーフかクオーターではないかとさえ言われていた。しかし逢瀬川側は田舎の男子になどまるで歯牙にかけないらしく、そのすべてをばっさりと切り捨てていた。
逢瀬川は女子にも人気があった。都会から来た美人というのは同性からも興味を引くようで、休み時間になると彼女の机の回りにわらわらと人だかりが出来ていた。もっとも逢瀬川自身は面倒くさそうに返事をするだけだったが、それでもキャーキャーと甲高い声が周囲から絶えなかった。
僕自身は、目の前に座る新しい級友の登場を、あまり歓迎できずにいた。それどころか、小柳の席が奪われたような気がして、無性に腹立たしいとさえ感じていた。そして、まるでそこにかつていた同級生の存在を、クラス全体がすっかり忘れてしまったような気がして、それがどうしようもなく許せなかった。
逢瀬川が僕の前に座っているということ。逢瀬川の一挙一動。逢瀬川がこの学校で過ごす一分一秒は、もともと小柳のものだったはずだ。それを逢瀬川は、あたかも小柳が最初からいなかったかのように、ものの見事にすべてかっさらっていった。僕と小柳が、二人で過ごすはずだった朝の時間でさえ。
逢瀬川が憎い。憎くてたまらない。気が付いた時には、何も言わず試験問題に向き合う逢瀬川の背中に、僕は憎悪を送っていた。
かさり、と音がして手元を見ると、丸められたプリントが机に置かれていた。広げると小奇麗な字で「アナタ、ツカレテルヨ」と書かれていた。
僕はハッとして顔を上げた。逢瀬川は微動だにせずに、そのまま問題を解き続けている。僕は自分の中で怒りが沸騰していくのを感じた。
何が疲れている、だ。お前に僕の気持ちがわかるはずがないだろう!
僕は今日、下校次第すぐにでも逢瀬川まなみを殺そうと決めた。