異次元の魔女 6
ごうごうと響く雨風の音に、僕は目を覚ました。風呂場にいたはずが、いつの間にか服まで着て、僕はリビングのソファに座っていた。あまりの熱さに額をぬぐうと、汗がべっとりと手についた。明かりはなく、目の前の暖炉がパチパチと音を立てながら火の粉を散らしている。まだ残暑なのに暖炉を使っていることに驚いて周囲を確認すると、クリスマスツリーさえ飾られていた。
「おい、誰かいないか!」
返事はない。
さっぱりわけがわからなかった僕は、まずは状況を確認することにしたものの、それでもまったく理解が出来なかった。風呂場にいたはずの僕が、一体全体どんなことがあってリビングにいるんだ?
廊下に出ると、雨音が遠ざかって途端に静かになった。真っ暗で人気はない。電気をつけようとすると、スカスカと指がスイッチを透り抜けてしまう。そこでようやく、僕はまた夢を見ているのだと気が付いた。
背後で物音が聞こえて振り返ると、ドアから雨がっぱを着た少女が現れた。少女は吹き込む雨風と冷気を遮るようにドアを閉じて、それから雨がっぱを脱いだ。
昨日見た夢と同じ少女だ。ずいぶん大きくなっているものの、髪の色や面影から、すぐに同一人物であることがわかった。昨日の夢では幼稚園児程度であったが、今は中学生かそれ以上に見える。ということは、昨日と今日の夢の間には少なくとも十年ぐらいの時間差があるのだ。
「ただいま」少女が少し声を張って呼び掛ける。「外、大丈夫だったよ。海が荒れてるけど、道は少しぬかるんでいる程度だったから。……お父さん、お母さん?」
少女が電気をつけようとするものの、スイッチはカチカチと音を鳴らすだけだった。少女は「停電かな」といぶかしがりながら、浴室へ向かってまっすぐと歩いていく。僕も彼女の後ろをついて歩く。もちろん、彼女に僕の姿は見えない。まるで幽霊にでもなった気分だ。
少女は濡れた衣服を洗濯機に入れて部屋着に着替え、バスタオルで頭をぬぐいながらリビングへと向かう。誰もいないリビングできょろきょろとして、それからまた両親を呼ぶ。しかしやはり反応はない。
ようやく異変に気付いたらしい少女は、不安な様子で両親を呼びながら一階の各部屋を確認する。誰もいない。再びリビングに戻ると、少女は二階へとつながる階段を見上げた。一階のどこにもいないのだから、きっと両親は寝室にいるはずだ。
少女は明かりも持たずに、ゆっくりと階段を上がっていく。一段ずつ足を踏み出すたびに、ギシギシと板が不気味な音を立てる。外の雷雨と相まって、まるでお化け屋敷にでも来たかのような気分になる。
電気のない廊下はとても暗い。たまに雷光が差し込むときにしか先が見えないほどだ。少女はこわごわと廊下を歩きながら、一つずつ部屋を確認していく。
まずは両親の寝室だ。室内を確認しようとすると、ノブを下ろした途端に勢いよくドアが開いて少女が吹き飛ばされた。窓が開けっぱなしになっていたせいで強風が吹きこんだのだ。少女はうめき声をあげながら立ち上がり、よたよたと部屋に入る。誰もいない。窓が開いて窓際が水浸しになっていること以外は、なんの変哲もない。窓が開いていると言っても、ここは二階だから出入りするのは不可能だろう。
少女はすぐに窓を閉めて、それから部屋を後にした。僕は何となく、閉められたドアのほうを振り返った。もちろん、ただ寝室があるだけだ。しかし、何となく誰かに見られているような、嫌な気配を感じた。
順々に部屋を確認していくが、どの部屋ももぬけの殻だ。部屋を確認するたびに落胆しながら、少女は最後に子供部屋へと入った。
子供部屋は僕が昨日見た時とは様子がまるで違っていた。古いぬいぐるみや洋風の人形が所狭しと飾られていて、部屋の暗さも相まって恐ろしささえ感じられる。部屋には他に二段ベッドと小さめの箪笥が置かれていた。しかし、残念ながらこの部屋にも少女の両親はいなかった。
「こっちよ」
戻ろうと身をひるがえしたところでふいに声が聞こえて、僕と少女は同時に振り返った。もちろん、子供部屋には誰もいない。いよいよ怖くなったらしい少女は顔を引きつかせながら、それでも再び部屋へと入った。
少女は再び子供部屋を確認する。天井から、ベッドの上、人形の間に至るまでくまなくチェックしていく。しかし何も見つからない。床中に散らばされたぬいぐるみたちの目が、何となくにらんでいるように見えるだけだ。
その時、ガタリと小さい音が聞こえた。音のしたほうを見ると、箪笥の引き出しがかすかに開いて、そこから明かりが漏れている。少女は首をかしげながら箪笥に近づいて、引き出しを開ける。明かりが大きくなり、少女の顔をまばゆく照らす。それからハッとした顔をして一気に引き出しを抜き取ると、すぐさますべての引き出しを同じように外した。
愕然とした表情をした少女の背後から、僕は箪笥の中を覗いて驚愕した。
なんと箪笥の中に、下へと続く洞窟があったのだ。ずいぶん古めかしい、レンガの階段があり、その先はぽっかりと穴が開いている。どうやら光はそこから差し込んでいるらしい。少女は意を決して階段へと足を踏み込む。僕も少しためらってから彼女に続いた。
階段の先はまるっきり異世界だった。天気のいい青空の下には青々とした芝生が広がり、しっかりと手入れされた美しい草花が道脇を彩っている。その横には小さな煙突が付いた小屋があり、もくもくと煙を上げている。見た目は子供向けのジオラマのガーデンハウスのようだ。一方で芝生のすぐ先には崖があり、その向こうには切り立った岩山がいくつもそびえている。
まるで魔法使いの隠れ家だ、と何となく思った僕はハッとした。ここが鈴音の言っていた「異次元の魔女」の住処なのではないか。そうだとしたら、僕たちは今ものすごく危険な状態にあるのかもしれない。
気が付くと、少女が小屋へと向かって歩き始めて、慌てて僕は走り出した。
小屋の入り口には呼び鈴がなく、少女はドアをノックした。返事はない。少女がノブに手をかける。どうやら鍵はかかっていないらしい。ゆっくりとドアを開く少女を、僕は固唾をのんで見つめる。
ドアを開けると、すぐそばにいくつか樽や籠が置かれていた。中には食品らしい動物の乾物や液体が入っている。物凄い悪臭がして少女はたまらずせき込み、すぐにふたを閉めた。
「そこに誰かいるの」
小屋の奥のほうから、消え入りそうな声がした。あまり日の光が差し込まない小屋の中を目を凝らして見ると、暖炉の脇で何かが動いているのが見える。
「お母さん、お母さんなの!」
少女はためらいもせずに小屋の中へ入り、声のしたほうへと駆け寄った。どうやら母親を見つけたらしく、嬉しそうな声だった。僕は少し安心したものの、魔女のことが気がかりで少女が入ってからもしばらく周囲を警戒していた。
唐突に小屋の中から悲鳴が聞こえて、僕は急いで中へと入った。暖炉に火がついているためか蒸し暑く、すえたにおいが充満していた。
少女は青ざめた顔をして立っていた。その隣には大きなテーブルがあり、女性が一人横たわっている。その様子を見て僕も戦慄した。女性は全裸で両手両足に手錠をつながれ、磔られたように身動きが取れない状態だ。さらに、片足は切断されていて大腿部がそっくりなくなっているうえ、腹部がぱっくりと切り裂かれて内臓が丸出しになっている。テーブルはおびただしい量の血であふれていて、床にもしたたり落ちている。もうほとんど死を待つような状態の母親を前に、少女は身動きも取れずに立ちすくんでいる。
「どうして……」
「聞きなさい」母親は息をひゅうひゅうと吐きながら、今にも息絶えそうな声で言う。「すぐにここから逃げるのよ。もう魔女が戻って来るわ。恐ろしい魔女よ。人間をここに誘い込んでは殺して食べてしまうの。お父さんも、もうやられてしまったわ」
ちらり、と母親が視線を向けた先には、バケツに入った白骨死体があった。少女はまた小さく悲鳴を上げて、ぼろぼろと涙を流し始めた。自分に起こった不幸を受け入れることが出来ず、これから取るべき行動もわからず、ただただ困り果てて絶望している様子だ。
親子はしばらく黙ったまま、お互いを見つめていた。その時、遠くからケタケタという笑い声が近づいてきて母親が顔をこわばらせた。
「隠れなさい!早く!」
母親が小さく、しかし声を張り上げて言った。少女はびくっとして、それからドア近くの樽の中に隠れる。僕は思わずアッと声を上げた。あまりに急いで隠れたために、袋詰めされていた野菜や果物のいくつかが転がり落ちたのだ。少女は全く気づいていない。僕は何とか伝えようと少女にアプローチしたけれど、どうしようもなかった。
足音がすぐ近くまでやって来た、と思った瞬間、三人の老婆がドアから現れた。全員が黒いローブを着て、何か外国語で談笑している。僕が昨夜の夢で見た、森の魔女とまるっきり同じいでたちだ。こいつらが、母親の言う魔女に違いない。
魔女たちは手荷物を下ろしてから、いそいそと何やら支度を始めた。僕はそっと、彼女たちの持ってきた籠の中身を確認した。見たこともない不気味な植物や、動物の死骸だった。何かの魔術に使うものだろうか。
魔女のうちの一人が包丁を持って、母親のところまで行った。魔女は母親の脈を確認して、顔を右へ左へと動かす。それからにたり、と笑って、仲間たちに何かを伝えた。すると別の魔女が別の机に皿を用意しはじめ、もう一方の魔女は野菜や動物を鍋で煮始めた。そこで僕にもようやく合点がいった。食事の準備をしているのだ。
包丁を向けられても、母親は何一つ抵抗をしなかった。声を上げることはおろか、魔女に触れられてもなすがままだ。もうとっくに自分の死を受け入れているのだ。それに、さっきよりもずっと顔色が悪く見える。おそらく、少女に再会したときにすべての力を使い果たしたのだろう。僕はやりきれない思いのまま、母親と少女のほうを交互に見た。少女はうまく樽に隠れている。せめて彼女だけでも生き残ってくれ、と僕は必死に願った。
大きな音がして、僕はハッと母親のほうへ振り返った。魔女が母親に向けて包丁を下ろしたところだった。もう一方の足が切断されて、少量の血が飛び散った。もう、母親の体にはほとんど血液が残っていなかったのだ。母親のほうは小さく呻いただけで、それっきり反応しなかった。
魔女たちは笑いながら母親をバラバラに解体していく。あまりのことに僕は目を伏せる。料理をしている魔女たちの歌声と、鈍い音が小屋中に響いている。その異様で残虐な音色に、僕は頭がくらくらとして今すぐこの場を離れたいとさえ思った。
ふいに、魔女の一人が怒鳴り始めて、僕は目を開いた。料理をしていた魔女が、別の魔女に文句を言っているらしい。見ると、一方の魔女が血に浸されたパンを手にしている。調理中にサボっているのを非難されたのだろうか。僕は吐き気を催しながら、連中の様子を見守った。
非難し始めたほうの魔女が、包丁を片手に床のほうを指さしてがなり立てた。察するに、どうやら床の掃除でもしていろと言っているらしい。一方の魔女はしぶしぶという具合に、床を片付け始めた。散らばっている食品を手に、元あった袋のほうへ向かう。
しまった、と僕はドア横を振り返った。樽の中にはまだ少女が息をひそめている。魔女が近づいたときにもしも気取られれば、万事休すだ。少女も捕まって、両親と同じように食料にされてしまうか、もっとひどい儀式に使われてしまうだろう。
何とかしたいけれど、僕には何もできない。何せ、僕はまた夢を見ているだけなのだ。
魔女は食品袋に野菜を詰めて、それから周囲の整頓を始めた。どこに何を入れるかが決まっているらしく、確認のためか一つ一つ樽のふたを開けていく。僕は緊張のために心臓が爆発するかと思った。
とうとう魔女が少女の潜む樽のふたに手をかけて、そして開けた。その時、また最初の魔女が何か喚いて、魔女はふたから手を放した。何やら口喧嘩が始まったらしく、僕はとりあえず一安心した。
その時、外から「すいません、誰かいませんか?」と呼びかける声がして、小屋の中が一気に静まり返った。死ぬほど驚いた僕は、すぐさま外へ出て声の主を確認した。そこには、僕が追っていた少女よりも少し背が低い、別の女の子が立っていた。見た目もどことなく、僕が追っていた少女に似ている。僕は子供部屋に二段ベッドがあったことを思い出した。少女には妹がいたのだ。
魔女たちが目くばせをして、それからゆっくりとドアのほうへ向かう。まずい。このままでは、妹まで魔女の餌食になってしまう。魔女たちは凶器を構えて、そろりそろりとドアの前まで行くと、ドアの両サイドに魔女が一人ずつ待機して、最後の一人が勢いよくドアを開けた。
「遥、逃げて!」
魔女がドアを開くと同時に、少女が樽から飛び出して、魔女たちを押しのけて小屋を出た。さすがの魔女たちも驚いたらしく、少しおろおろとしてから逃げた少女たちを追いかけ始めた。姉妹は両方とも裸足だったが、腰の曲がった老婆に比べればそれでも十二分に有利だ。このまま走り続ければ、間違いなく逃げ切れる。
少女たちが階段を上り始めたところで、魔女の一人が後ろから何やら呪文を唱えた。すると階段へとつながる洞窟自体が音を立てて揺れ始める。先に箪笥の向こう側で少女たちを待っていた僕は嫌な予感がして身を乗り出した。
なんと洞窟の天井が崩れ始めたのだ。ただでさえ狭い洞窟である上に、足元のレンガは古く、もろい。少女たちは急いで階段を駆け上がるものの、天井からの落石に邪魔されて思うように進めない。
ようやく妹が箪笥までたどり着いたところで、姉が階段から転げ落ちた。足を滑らせたのだ。妹は必死になって姉の手を取ろうとしたが、姉は目に涙を浮かべながら微笑むと、その手を振り払った。
「お姉ちゃん!」
妹の声が、子供部屋に響き渡った。もはや、魔女の小屋へと続く隠し階段は完璧にふさがれていた。少女の嗚咽と、外から聞こえる相変わらずの雨音だけが屋敷に響いていた。僕は目の前で泣いている少女に対してどうしようもない無力感を覚えながら、何か大事なことが引っかかっている気がした。
さっき、少女の姉が叫んだとき、この子のことをなんて呼んだ?
「遥……もしかして、鈴音遥か?」
僕の中で、物語の糸がつながった。




