異次元の魔女 5
鈴音邸での二日目の夜が近づいていた。外はあいにく土砂降りで、周りの森を探索しようと思っていた僕は仕方なく家にこもることにした。
リビングのほうを見やると、逢瀬川が相変わらずの余裕ぶりで何かの本を読みながらくつろいでいる。バスローブから覗く白い肌が、学校で見る彼女には不似合いな艶めかしさと無防備さを感じさせる。さっき風呂から上がったばかりだから、バスローブの下は下着だけか、素肌だけのはずだ。
僕は無意識にごくり、と喉が鳴るのを感じた。裸に近い美少女が、僕のすぐそばにいる。体の底から沸き立つような感情のせいで、今にも逢瀬川にとびかかってめちゃめちゃにしたいような気分になる。
視線に気づいた逢瀬川が僕のほうを向いて、僕は目をそらした。自分でもわかるほど顔が熱い。照れているのだろうか。それとも、自分の欲望への恥ずかしさと情けなさからだろうか。
気が付くと、逢瀬川が僕の目の前まで来ていた。ハッとして口をパクパクさせている僕をよそに、逢瀬川はバスローブを脱いでいく。やはりその下は何も身に着けておらず、オレンジ色の明かりに照らされているせいか、いつもよりもエロチックに見える。
何かの家具につまずいて、僕は後ろから床に倒れこんだ。その上から、逢瀬川が覆いかぶさるように乗っかってくる。まるで僕が押し倒されたような恰好だ。
「うふふ、久地ヶ先くんったら可愛い」逢瀬川はそっと僕の顔に両手を這わせた。温かな手の感触と逢瀬川の吐息が伝わってくる。「我慢できなくなっちゃったの?だから言ったじゃない、一緒の布団で寝ましょうって。そうすれば、いつでも望みをかなえてあげるわよ」
「僕の望み……」
「そうよ」逢瀬川は笑った。もはや逢瀬川の唇は、僕の唇とくっつくほどに近づいている。「私のこと、殺したいんでしょ?」
言い終わると同時に、僕は逢瀬川の首に手をかけて、逆に押し倒した。逢瀬川の華奢な首が、僕の両手にすっぽりと収まる。風呂上りのせいか、それとも僕の手が緊張で湿っていたせいか、滑ってうまく力を入れることが出来ない。僕は体重をかけて力任せに逢瀬川の首を絞め続けた。逢瀬川は少し呻いて、それから手足をばたつかせて失禁すると、そのまま嬉しそうに息絶えた。
唐突に窓から光が差し込み、それから遅れて雷鳴がとどろいて、僕はハッと我に返った。僕はすぐさま懐中電灯をもって、屋敷の外を確認する。外には誰もいない。誰も、僕が逢瀬川を殺すさまを見てはいない。僕はひとまず安心して、屋敷へと戻った。
リビングでは逢瀬川の死体が立ち上がっていた。どうも折れているらしい首をぶらつかせて、裸のまま立ちすくんでいる。しばらくもしないうちに、逢瀬川の首はまるでビデオを巻き戻したかのように治っていった。最後には僕のつけた指の後さえ消えて、すっかり元の逢瀬川に戻った。生き返ったのだ。
「ふう」逢瀬川は大きく一息ついて、それから脱ぎ捨てたバスローブを拾い上げた。「久地ヶ先くんったら、まるで獣ね。私、我慢弱い男は嫌いじゃあないけれど、それにしても久地ヶ先くんは早すぎるわ」
僕はうつむいて「ごめん」とだけつぶやいた。逢瀬川は特に気にするわけでもない風に、バスローブを片手に僕の横を通り過ぎた。
「お風呂に入るわよ。汚れちゃったから。久地ヶ先くん、背中を流してちょうだい。あなたもずぶ濡れだから、ちょうどいいでしょう」
僕は少しためらってから、言われた通りに逢瀬川の後に続いた。
鈴音邸の風呂はやたらと広い。別荘だから豪華に作られているんだと言われればそれまでだけれど、それにしても温泉宿の大浴場ほどもある上にきらびやかな装飾が施されている。浴槽の上にはどでかいライオンの像があって、そこからお湯が流れてくる。二人きりで入るには広すぎる風呂だ。
逢瀬川に指示されるまま彼女の体を洗ってから、僕は罪悪感にさいなまれながら自分の頭を洗い始めた。冷えた体をお湯が温めてくれるおかげでいくぶんか落ち着いたものの、自分の殺人衝動には本当に打ちのめされる思いだ。これでは、僕自身がこの洋館の怪物になったとしても不思議はない。
「あまり気に病む必要はないのよ」逢瀬川が浴槽のほうから僕の背中に向けて言う。「はしかにでもかかったのだと思いなさい。いつか必ず治るし、今のところは対症療法として私がそばにいる。そうすれば、誰に迷惑をかけることなく殺人欲を発散できるでしょう。それに、それはあなたに取り憑いた小柳さんがさせていることなんだから」
僕は何も言わずに体を流した。
逢瀬川いわく、僕が人を殺したいと思うのは、小柳ここみの仕業らしい。僕のことを好きだった小柳が、僕が他の女性に意識を向けようとすると、その女性を排除するように僕の感情を操作するのだそうだ。だから僕は、逢瀬川を除いて特定の女性とあまり長居することが出来ない。
「それにしても、本当に素晴らしい別荘だわ。私が買いたいぐらい」
「まだ二日目の夜じゃないか。これから何かが起こる可能性は十分にある」
「ないわよ」逢瀬川は浴槽の縁に寝そべりながら断言する。「このわたしが何も感じないんだもの。この家に霊的な何かが存在する可能性はゼロね」
逢瀬川の言い方に僕は少し首を傾げた。本当に何もないのだろうか。なら、僕の見た夢や別荘に取り巻く噂はただの勘違いや作り話なのだろうか。あるいは、この屋敷は僕には手に負えないレベルの悪霊に巣くわれていて、それで逢瀬川は僕に隠しているのかもしれない。いや、逢瀬川に限ってそんなまどろっこしいことはしないはずだ。
「わたし、もう上がるわ」湯船に入ろうとする僕と入れ違いに、逢瀬川が立ち上がった。「久地ヶ先くんもあまり長湯しないことね。明日も学校なんだから。寝坊したら鍵閉めて出て行っちゃうわよ」
「僕を監禁宣言とは。お前も怪物から犯罪者にランクダウンしたらしいな」
精一杯の嫌味を言う僕にいつもの微笑を向けて、逢瀬川は浴室を後にした。
一人きりになると浴室はますます広く感じられて、手持無沙汰になった僕はぶくぶくと泡を作ったりバタ足をしたりと一人遊びに興じた。近頃は、逢瀬川に振り回されてリラックスしながらテレビドラマを見る時間もない。ルーチンを維持するために協力し始めたのに、今ではそんなこと考える暇もないほどだ。
今頃、家では両親と祖父母は笑いながらいつものバラエティ番組でも見ているに違いない。あるいは、祖父が婿養子の父に対してああでもない、こうでもないと昔語りをしながら長い説教をしているのかもしれない。僕は苦笑いしている父を見ながら、一緒に枝豆を食べるのが何よりも好きだった。ほんの少し前までは当たり前だった日常が、今となっては遠い過去のように感じられるのだから不思議だ。
僕はどっぷりと湯船につかってゆっくりとため息をついた。どうも最近、疲れがたまっているらしい。逢瀬川をはじめとした事件に巻き込まれるのも一苦労だし、元オカルト研究会のメンバーに合う気疲れのせいか今朝鏡で白髪を何本か見つけたほどだ。
僕は少し目をつぶって、全身の力を抜いた。




