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逢瀬川まなみ 1

 いつも通りのクラスで暮らす。そんなくだらないダジャレを言えるほどに、僕の生活は平凡で、しかし平穏無事に進んでいく。高校三年に進級しても、高校最後のクラス替えを経てもそれは取り立てて変わらない。それは僕の住む町自体も変わらず、どこかで変化するタイミングを忘れてしまったかのように、代わり映えのしない毎日が過ぎていくのだ。


 ところで、僕はそれを好ましく思っている。いうなら、僕は平凡な日々というものを愛している。それどころか、唐突なアクシデントや人生を百八十度変えてしまうような大事件とは、一生無縁でいたいとさえ思っている。まるで季節が進むごとに順繰りと色を変え、そしてまた元に戻る野山のような生活こそが、僕の一番愛するものなのだ。そしてその中で、特にひたむきに努力するでも、過度な競争やプレッシャーの中に身を置くでもなく、ただただ自由気ままに生きていくのが僕のモットーである。


 毎日通う道を通って、毎日顔を合わせるご近所さんに挨拶し、そうして僕はいつもと同じクラスの一番後ろの席に着いた。早起きを心がける僕は、いつでも一番最初にクラスに入る。他に誰もいない教室の、シンと静まったところに僕がカバンを置いて椅子を引く音が響く。これを聞くと、今日も僕の一日が変わりなく始まったという実感がわく。そうして今日も何も変わらない学校でのルーチンをこなすのだと想像するだけで、僕は心底落ち着くのだ。

 僕の到着から二十分ほどすると、これまたいつもと同じように小柳ここみが席に着く。学校の近くに住んでいるという彼女は、ぐっすりと寝て、両親が家を出た後にゆっくりと出発するものの、いつでも一番先に学校についていたと言う。高校三年になって、僕と同じクラスになってから二番目なのだと、特に悔しがるでもなく言っていた。だから僕も、ああそうなんだ、と適当に相槌を打ったのを覚えている。

「おはよう、久地ヶ先くん。今日も早いね」

 微笑みながら挨拶をする小柳に、僕も軽く頭を上下させて返事をした。ここまではいつも通りだ、と思うと同時に、僕は肩をこわばらせて身構える。なぜなら小柳は、いつも僕の好みではない事故や事件や不吉な噂話を語って聞かせるからだ。

「もう、怖い顔しないでよ」小柳ここみは、僕の前の空いている席にどっしりと腰を掛けて、体全体を机に寄りかからせるようにした。「せっかく面白い話を仕入れたんだから、ちょっと聞いてほしいの」

「どんな話だい」僕は出来るだけ短く、ぶっきらぼうに返事をした。朝から陰鬱な気分になるのはまっぴらごめんだからだ。しかし小柳のほうは、もう慣れたという風に薄く笑うとゆっくりとまるで鼻歌でも口ずさむように話し始めた。

「今朝、学校に来るときの話なんだけど、珍しく早起きしたからいつもと別の道を通って来たの。そうしたら踏切につかまっちゃって。どうせ二両編成が通るだけだからすぐだろうと思ってたんだけど、やたら長く待たせるのよ。そうしたら、横で待ってたおばちゃんたちがなんかひそひそ話始めて。どうやら最寄り駅で人身事故が起こったんだって。だからあたし、居ても立ってもいられなくなって」

 そう言いながら、小柳はおもむろにスマホを取り出して、しばらく操作をしたかと思うと僕のほうに突き出した。


 写っていたのは、血まみれの女子高生。まるでマリオネットの釣り糸が絡まったかのように、手足がおかしな方向を向いている。体の正面と真逆を向いた頭にべっとりと血がついていて、人相は全く分からない。あたかも、自分の死にざまを他の人に見せまいと女子高生が最後の力を振り絞ったかのように思えた。

 僕は不快感に胃が縮こまるのを感じながら、小柳を恨めしくにらんだ。一方、小柳の顔は朗らかで、まるで昨日の晩に作った夕食の出来栄えを自慢するかのような、日常の平凡な出来事であるかのような表情だ。その顔を見るたびに僕はうんざりすると同時に、あきらめに似た感情がわいてくる。小柳はいくらやめろと言っても気にすることなく、こういう不幸を見せつけてくる、語ってくる。だから僕はこの朝の時間をやり過ごすしかないのだ。

「小柳。こういうのもうやめてくれって、前にも言ったと思うんだが」

「ええ、でもせっかく朝の時間、二人きりなんだもの。コミュニケーション取りたいじゃない。あたし、久地ヶ先くんと話すの好きなんだから」

「それにしたって、もうちょっと明るい話題にしよう。毎日毎日、ネガティブな話を聞かされて、僕はもう気がめいりそうだぜ」

「それはダメ」小柳は変わらないほんわかとした調子で言う。「だってあたし、こういう人の不幸って大好きなんだもの。もっと不幸な人がいると思うと、前向きになれるじゃない」



 憂鬱な気分になるのはもちろん朝だけで、そのあとはお待ちかねの、代わり映えのしない日常がやってくる。高校三年の夏ともなると、教科書の内容はあらかた終わって、大学受験に向けた演習や試験問題が主になる。進学先は地元のさして偏差値の高くない国立大と決めていた僕としては、有名大学向けの超難問や時事問題を扱った小論文の練習をする必要もなく、ただただセンター試験の過去問を解き続ければよかった。退屈なようで、ルーチンをこなすことさえ続けていればいいのだから、僕にとっては居心地の良い時間だ。首都圏の大学や、旧帝国大学を目指して奮闘するクラスメイトを後目に、僕は窓の外に広がる澄み切った青空を眺めながら、昼間から忙しく練習に励む野球部の声に耳を傾けていた。もちろん甲子園なんて行けるわけもなく、次回の秋選抜に向けて今から必死に練習をしているのだ。自分とはまるで違った高校生活を送っているものの、短い青春に情熱をかけている姿は一緒にいて心地よい。

 ふと、手元に何か触れたかなと思うと、ぐしゃぐしゃに丸められたプリントがいくつか机の上に置かれていた。顔を上げると、前の席で小柳が机に突っ伏しながら、腕の間から覗くようにしてこちらに視線を送っていた。顔にはやはり、いつもの気の抜けたような笑顔が張り付いている。

 気乗りがしないまま、僕はプリントを一枚ずつ開いていく。それらのプリントには試験問題がコピーされていたものの、答えは空白のまま。代わりに、裏側には殴り書きされた悪口や中傷する落書きが、所狭しと並べられていた。死ネ。生理クサイ。学校ヤメロ。ヤリマン。すべて、小柳ここみに宛てられたものだろう。

 僕は大きくため息をついて、再び顔を上げた。教室を見回すと、何人かの女子が教師の目を隠れながら小声で会話し、たまに小柳のほうを向いたかと思うと、またひそひそといやらしく笑っていた。彼女たちに同調するようにして反応した人間も、何人かいた。

「おい、小柳」僕は彼女の背中をつついた。「もしもお前さえよければ、僕が代わりに先生に言ってやろうか。こんだけ手元に証拠があるんだから、十分に告発できるぞ」

「いらないよ、そんなの。あの人たちはどうせ知らんぷりするだろうし、それに国語の加藤先生はことなかれ主義だから、犯人探しなんてしたがらないよ」

「それでも、ここまでやられて黙ってることないだろ」

「えへへ、それは大丈夫。逆に黙ってなかったら余計エスカレートするし、それにあたしは久地ヶ先くんに愚痴れればいいからね」相変わらずの笑顔のまま、小柳は言った。「でも、ありがと。まさか平和を愛する久地ヶ先くんが、あたしのために立ち上がろうとしてくれるとは思ってもみなかった。その気持ちだけで嬉しい。今度、どうしようもなくなったら、そのときは久地ヶ先くんを頼ることにするね」

 そんなどうしようもなくなってから僕を巻き込むのはやめてくれよ、と僕は内心すがるように念じる。


 そもそも、小柳ここみに対する嫌がらせ、もといイジメは今に始まったことではない。僕の知る限り、三年次のクラスメイト発表があった日には既に一部の女子からイジメられていた。そのイジメ規模がどのように拡大、あるいは縮小したのかは知らないが、常に一定以上のメンツが小柳にちょっかいを出している。

 小柳自身は、当初はもっと暗く、いつも一人で過ごしている友達ゼロの、典型的ないじめられっ子だった。口数も少なく、主張せず、空気も薄い。僕自身、最初は彼女のことなんて気にもかけていなかった。しかし、ある日の放課後、彼女が飛び降り自殺を図ろうとクラスのベランダから身を乗り出していたところを、たまたまその隅で本を読んでいた僕が引き留めてから、小柳の呼ぶところのコミュニケーションが僕と彼女の間に始まったのだ。今にして思えば、あの時にイジメ自体を根源からすべて解決しておけば、今日に至るまでの小柳の悲劇的な状況は、ひょっとしたら収まっていたのかもしれない。

 それから僕は散々小柳のネガティブな打ち明け話や、自殺未遂の報告を聞き、時には目の前で睡眠薬を飲まれたりリストカットを実演され、その都度必死になってストップしてきたものの正直もうかなりうんざりしていた。そもそも平穏に生きていたいだけの僕と、悲劇の中に生きている小柳とは相性が良くないのだ。もちろん、小柳が酷い高校生活を歩んでいるのは必ずしも彼女の望みではないし、小柳は僕との会話を楽しんでいるから今日だって朝から長々と陰鬱な話をしてきたわけだけれども。


 終業の鐘が鳴ると同時に、僕は手早く帰り支度を始めた。今日は祖父と水戸黄門を見る約束がある。家までは自転車で三十分かかるから、放課後に長居するわけにはいかないのだ。と言って、特に部活動も補習も進路相談もない僕は、寄り道をせずにただまっすぐに帰るだけで十分に間に合う。

 教室では、クラスメイトたちが忙しく、各々の目的に向けて移動し始めていた。あるものは、高校最後の生活の名残を惜しむように、仲の良い友達と雑談などしている。その中に、何人かの女子に囲まれた小柳の姿があった。

「あ、久地ヶ先くん!」小柳が、悲鳴のような、いつもより少し上ずった声を上げて駆け寄ってきた。「今日時間あるかな。よ、よければこれから一緒に帰らない?話したいことがあるんだけど」

 僕は小柳の顔を見て、それからわざとらしく時計を確認した。小柳は困ったような顔をして、しかし、その態度は控えめでも、僕に懇願しているようだった。彼女の背後では、先ほどの女子がにやにやしながらこちらの様子を見ている。おそらく小柳はまたイジメの被害にあっているのだろう。だが、小柳を助けている時間はない。彼女の話はやたら長いし、僕と彼女の家は正反対だし、何より僕には祖父と水戸黄門を見るという約束がある。僕にとって、僕の日常のペースを保つ大切なルーチンだ。

「悪い、小柳。僕はこの後予定があるから」

「そ、そっかあ。そうだよね。ごめんね、変なこと言って。じゃあ、また明日学校でね、久地ヶ先くん」

 小柳は少し残念そうにしたものの、いつもの楽観的な笑顔を浮かべてそう言った。

 足早に立ち去る僕の後ろから、ケタケタという笑い声と、「彼氏行っちゃうよ?」等という声が聞こえた。小柳が、また困ったように連中に返事をする声も。

 小柳がトラブルにあっているのは明らかだった。しかし、僕には僕の生活があるのだ。僕は少しの罪悪感を覚えたものの、気を取り直して駐輪場へと向かった。


 明日の朝は、今日の愚痴を聞くことになるだろうな、と僕は翌朝の長く陰鬱な会話を想像して肩を落とした。


 小柳が死亡したニュースを聞くのは、だから当然、翌朝のことだった。


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