want it that way.
パンツは脱いでおけばよかったかも。そう思ったけれど、もう遅いし。多分あんまり意味はない。
窓の外からは暖かい光が差し込んでいる。今日は金曜日、牛乳のタイムセールの日。
「何してるの」
ちゃぷ、と音がした。朱美はついと目をあげて、湯船から一メートル先、こちらを見下ろしている琴子を見た。スーツ姿の琴子は右肩にバッグをかけたまま、いびつな表情で突っ立っている。走ったのだろう、頬が上気していた。
「着衣水泳」
ちゃぷん。開きっぱなしのシャワーカーテンに湯がはねた。紺色のスカートがふらふら揺れる。しっかりとした生地なのに、見かけによらず上手に泳ぐものだ。まさかまだ入るとは。ファスナーが全部しまったとき、単純に驚いて、そう思った。だってこれは、青春の全てを共にした、聖女限定戦闘服。
「馬鹿な真似はよしてよ」
呆れた声で琴子が言った。ふう、とため息まで。こげ茶色のセミロングの、丁寧なウェーブがさらりと動く。朱美はそんな琴子をじっと見ている。このウェーブをつくるために、琴子は五分少々しかかからないのだ。化粧も、マニキュアも、下手くそな子だったのに。口の端のニキビのために、お小遣いを使い切ってしまうような子だったのに。
「怒ってるのね」
「そんなんじゃない」
「そうよ」
小窓からは午後の柔らかい光が差し込む。湯を掬って落として、首を後ろに倒した。コキッと音がする。琴子の視線が刺さったまま、朱美は静かに目を伏せた。
「足りないわ」
「え、嘘。いくら」
「百円」
蝉が鳴いていた。夏休み、夏期講習も半ばを迎えていた頃だった。学校の最寄りのコンビニの前で、琴子が泣きそうな声で言ったのだ。「百円足りない…」。
「出したげる」
明美は財布から五百円玉を取り出した。イーストボーイの茶色い革財布は誕生日、母に買ってもらった物だった。琴子が怪訝な顔をする。
「奢り」
「ええ、いいよ」
「なんで。いいじゃない。琴子模試の成績良かったんでしょ」
だから、お祝い。笑みを作って覗き込むように言ってみる。この仕草に琴子が弱いことを良く知っていた。案の定、琴子は少し俯いて、小さな声で「ありがと」と言った。照れたとき、足の親指同士をもぞもぞ動かすのは、彼女の癖。
「私バニラバー食べる」
あの頃。少女と女の間にいた。無知ゆえに強かで脆弱で。そういう生き物であることが誇らしかった。朱美は、自分だけが、琴子の唯一のナイトのような気持ちで生きていた。
「あっつい」
琴子の白い首筋を汗が伝う。受験勉強が本格化し始め、教室には妙な焦燥感が漂っていた。多忙なスケジュールの中、毎日のように講師陣から発破をかけられ、叱咤激励され。夏がこれでは冬はどうなってしまうのか。木陰のベンチ、自分の横でチョコレートバーをくわえている琴子を見やる。汗のせいでブラウスが肌に張り付き、タンクトップが透けている。
「ねえ」
「ん?」
「…来年どうなってるんだろうね」
陰になった琴子の顔がいつもより大人びて見えて、そう言った。目線を地面に向けたまま、彼女が小さく「うーん」と唸る。
「受かってるといいけどね、とりあえず」
目の前を三毛猫がするりと通った。琴子が反射運動のごとくくわえていた木の棒を離す。「あ、猫!」。
「ほんとだ」
猫はいきなりの声に驚いたのか、ぴくんと反応し、目にも止まらぬ速さでゴミ箱裏に消えた。
「あ……」
「いきなり声上げるからよ」
琴子は残念そうにうなだれる。少しくらいすり寄ってもいいんじゃないの、と朱美は心の内で意見した。当の猫が去った後には、食べられ損ねたポテトの死体が散らばっていた。
好きです、と言ったのは琴子だった。真っ赤というか、いや、真っ青な顔をしていた。三つ編みが肩にかかっていた。例えば、そのまま何も言わずにお互い卒業していたら、とか。そんなことも時々考えたけれど、それでも。
「好きです」
言わなければ、きっとどうにかなってしまった。好き、が、体内に溜まって、中毒死してしまったと思う。十六歳の二人にはもうどうすることもできなかった。真っ青な琴子の、張り詰めて今にも泣きだしてしまいそうな瞳。
コーヒーが飲めない琴子。
春も秋も花粉症で苦しむ琴子。
初めて肌に触れた日、暗がりでも良く分かる程耳たぶを染めていた琴子。
数学と化学が苦手で、国語と英語が得意だった。スカートは膝下、模範みたいな制服の着方が、朱美は好きだった。揃いの制服で駆け抜けたいくつもの、だけどきっと一生の中じゃ一瞬みたいな季節たち。世界に何十億という人間がいたって、二人きりだった。構わなかった。
「お願いだから、びっくりさせないで」
バッグが肩からずり落ちる。ストッキングを履いたまま近付いてくる。床は、お湯が漏れたせいで少し濡れていたけれど朱美は何も言わなかった。琴子がしゃがみ込んで、浴槽に方肘をつく。子供がペットショップで犬を覗いている絵が一瞬、朱美の脳裏に浮かんだ。「朱美」。視線を上げた。かち合う。尻尾を振ってやる気はなかった。
「私、仕事抜けてきたのよ」
下唇を軽く噛んだのは、無意識。
一か月前から琴子はせかせかしていた。今日は遅くなるから、と言って家を出ていき、終電を逃して朱美が迎えに行くこともあった。プロジェクトのリーダーなのだと言っていた。初回会議は確か今週中だったはずだ。
知ってたわ、とは言わなかった。琴子だって分かっているだろう。今朝、慌ただしく、それでいて妙に気を張って出かけていったことを朱美が知っているからだ。頑張ってねの言葉の代わりに朱美は彼女にミルクたっぷりのコーヒーを淹れた。ここ最近のどこかぎくしゃくとした空気の中で、それでも彼女が一番落ち着くそれを淹れて、見送った。
こんなことのために呼んだの、と、詰られるのを少しだけ期待していた気がする。あるいは、いい加減にしてよ、と首を掴まれるのを。琴子に嫌われたいわけではない。そうではなく、枯渇していたのだ。そして一心に、大量に、欲しかった。殴りつけるほどの痛みをもって、そんな感情の奔流に横殴りにされ、その圧で身体に大きな穴が開いて。いっそ事切れてしまってもいい。素敵な死因だと朱美は思う。幸せかもしれないとさえ。
『好きです』。
だけど、琴子でなければ何もかも全く意味はない、そんな思考回路はおそらく不幸なのだろう。
濡れた指で真っ直ぐに切りそろえられた琴子の髪の毛に触れると、その髪は当然湿った。
「やめて」
振り払われる。「今日会議だったって知ってたでしょ」。
「どうしてあんなライン送るの」
私本当に心配したのよ。立ち上がる。泣き虫の琴子。ちょっといじめると、すぐに鼻声になる。朱美は、そのうるんだ目を見ていた。アイラインが滲んで下瞼が黒ずんでいるのは、多分汗のせい。外はまだ残暑が厳しい。
「……分からないの?」
朱美は自分よりも大分高みにあるその顔を、少し顔を持ち上げて真っ直ぐにみた。湯が冷めてきている。ぷかりと水面にたゆたうスカーフは臙脂。
送ったのは、たった四文字だった。四文字で、しにそう、と。一時間半前だった。
「分からないの?」
その日の飲み会は渋谷のチェーン店だった。午後一杯は雨だと告げられていたが結局降らず、参加者は皆傘を持て余しながら歩いていた。
「結局降らなかったじゃんね」
「ねー」
世間は明日から三連休。大学院生の朱美もカレンダー通りに休日が続く。前を歩く大学生たちの中には、その後の授業も踏み倒して自主的な四連休をつくり、旅行を計画している者もいた。モラトリアムを謳歌している、というわけだ。
「先輩、三連休ですか?」
美紅が問う。大学の四年生で、卒論の題材に朱美の研究を手伝っている生徒だった。関係上、朱美は彼女と親しい。
「うん。だから研究室、火曜まで開かないよ」
「あー、そうなんですか」
でもまあ私、就活の面接で今週行きませんけどねえ。ぽやぽやした喋り方の割に、実験はきびきびこなす生徒だった。去年の担当生徒よりも進行のスピードが早く、手がかからないので朱美も助かっている。
「どこか行かれるんですか?」
「ああ、うん。友達と、箱根に」
「わあ、温泉ですかあ。いいですね!」
スクランブル交差点は、相変わらず人がごった返している。いくつも聳えるビルのモニター画面は煌々と光を放ち、踊る宣伝文句が目に痛い。人気のアイドルグループがCDをリリースするようだ。
「楽しんできてくださいね!」
「うん」
箱根に行きたい、と琴子が言ったのはひと月前のことだった。食後に、二人でぼーっとテレビを観ていたら、ぽつりと彼女が言ったのだ。「最近二人で遠出とかしてないし」。
大学生のころはよく二人で旅行したものだったが、朱美がそのまま大学院に、琴子が社会人になってからは土曜あたりに近場をぷらぷらするくらい。最後に旅行したのはいつだっただろう。思考を巡らせて、卒業一年目の夏、北海道へ行った時が最後だったと思い当たる。ということは二年前だ。琴子の会社は祝日休みではないが、今回は有休を使うと言っていた。
「それじゃあここで解散ー。二次会行かない人、お疲れさんでしたー!」
交差点を渡りきったところで幹事が声を張る。ハチ公前は人が群がっていて、とてもこの大所帯では入っていけないらしい。「お疲れー」「また火曜日ー」「お土産よろしくなー」。一人、また一人と抜けていく。
「じゃあ、私もここで」
「あ、はい!先輩また火曜日ー!」
赤ら顔の男子生徒が大振りな動きで挨拶してくれる。隣の女生徒が脇腹をどついた。「ちょっと、酔いすぎ」。
「先輩、また」
美紅は二次会組らしい。朱美は軽く手を振って背を向ける。
何か甲高い雄叫びが聞こえた。声の方へ視線をやると、外国人の団体が、何やら盛り上がっている。アルコールが入っているのか妙にハイテンションだった。声をあげたのはそのうちの一人、鼻筋の通った金髪の男だ。英語で何か喋り、手を叩いている。団体は外国人らしく皆背が高く、少人数だが目立っていた。
(ハナキンだもんなあ)
しかも連休前。ここへ来るまでも千鳥足のサラリーマンを何度も見た。ハチ公前に溢れかえるこの人々だって、十中八九居酒屋へ行くのだろう。ちらりと時計を見る。午後十時二十五分。琴子は、どうしているだろうか。今日は彼女も飲み会だと言っていた。
(飲みすぎてないといいけど)
しじみの味噌汁、作ってあげたら明日、喜ぶだろうか。
僅かに上がる口角をぐっと締めて歩く。ハチ公前。必ず来る誰かを待っていることは、幸福なことだと思う。
玩具メーカーに就職し、晴れて社会人になってからの琴子の日々はとにかく目まぐるしかった。一年目は当然ピリピリしていたし、二年目からは企画の運営に積極的に携わるようになって益々多忙だ。素っ気ない態度も増えた。重ねた年月が、次第に二人を空気のようにしていくのだろうと朱美は推察する。熟年夫婦のように。同性同士だって、きっと同じ道を辿るのかもしれない。それが人の目から見て幸福なことかは分からないけれど、少なくとも、二人は待ち合わせが不要なほどそばにいて、ただいまとお帰りを交わす。
駅ビルのショーウィンドウにはブランドものの新作バッグが我関せずと鎮座していた。夜の澁谷。冷淡さに磨きがかかり、より現実的に、排他的にシビアに。雑踏。
「ちょっとやだ!あははっ」
聞きなれた笑い声が耳に響いた。重なるように、男の深い笑い声が聞こえた。朱美は、反射的にパンプスの踵にブレーキをかけた。
「それでもう最悪だったの、今日」
「そりゃあ災難」
「セクハラよね、あの上司」
琴子の声がする。
そういえば、お互い飲む場所の話はしなかった。もしかして同じだったのだろうか。
ハチ公の銅像の、丁度裏側。整えられた芝のせいで分からなかった。隣には背の高い華奢な男が立っていた。
その男のがっしりとした腕が、するりと蛇のように動き、琴子の腰に回る。
琴子は、顔を少し持ち上げて、男を見る。後ろを向いているので表情は分からない。だけど、楽しそうに笑っている。手に取るように分かった。表情までくっきりと思い描くことができた。
「行く?」
「うん」
さっきまで朱美が歩いていた交差点に向かって、二人歩いていく。腰に回った手が離れて、今度はそっと肩に触れた。いかにも人込みから守るように男は歩く。
棒立ち、という言葉が頭の隅に浮かんだ。
琴子。
着ていたワンピースは、琴子の気に入りのものだった。普段よりも丁寧に髪が整っていた気がした。交差点の入り乱れる人の波の中。二人は紛れていく。
わああん。
波紋のように鈍い痛みが、音が、米神や耳の奥で、強まっては弱まり、弱まっては強まる。波のように返す。
頭の中を鐘付きで付かれたら、きっとこんな感じだろう。
朱美はまさに棒立ちで突っ立っていた。足元から腹部にかけて徐々に冷えていき、腹部に冷気の渦があるようだった。しじみの味噌汁は、いつの間にかどこかへ行ってしまっていた。
かっこん、かっこん、かっこん。
信号が赤になって、やがて交差点は無人になった。
飲み会も、美紅も、お開きの音頭も、全部全部一瞬でファンタジーになってしまった。
ちゃぷん。
スカートは天井のライトのせいでより青みがかって見える。日に当たった海藻みたいだ、と朱美は思う。毎日これを着て通った日々。未完全で、完璧な皮膚を持ち、無知で、何をしても無罪放免だった。多分、完成されていない、ということはそれだけで価値ある美しさを持っているだろう。そしてそのことには完成してしまった後でしか気づけない。
「別れましょう」
あの頃は、いつかそう言う日が来るのかもしれないと思うたびに眠れなかった。だけど、現実には案外、するりと滑り出るものだった。口に出してしまえばあまりにも短い。
琴子が一瞬目を見開く。全身の筋肉が、一瞬だけきゅっと縮んだようだった。ごく微弱な電気に感電したみたいに。
「嫌よ」
どうしてそんな話になるの。
朱美は、琴子を見上げていた。琴子は、見下ろしていた。おそらくどちらも、何か決定的なものがここに漂っている気がしていた。していて、そのことに最後まで気づかないでいたいと祈っていた。
琴子が悲痛な面持ちで、髪の毛に指を通す。落ち着きたいとき彼女はよくそうした。
「後藤君のことは、言い訳しない」
きっぱりとした口調だった。朱美は顔を歪める。わざと深く眉間にしわを寄せて。その名前を心底聞きたくない、ということを存分にアピールした。頭の中は、ぐちゃぐちゃ。乱暴に脱ぎ捨てた制服のようにぐちゃぐちゃ。
「それが好きなの?」
「やめて。そんな言い方するの」
「じゃあどう言えばいいのよ!」
あの日。夜の渋谷で。腰に手を回されても、肩に手が触れても。琴子は何も言わなかった。にぎやかな街明かりの中で、二人はただありふれたカップルだった。
「私が女だから?」
「朱美、」
「あの人が、男だから?」
浴槽の中で、制服だけが時間軸を歪めていた。ゆらゆら揺れるスカート、スカーフ。肌に張り付いたブラウスからはブラジャーが透けている。あの夏の、琴子と比べ物にならないくらいに。
『好きです』。
男だからという理由で選ばれ、女だからという理由で選ばれない。そうでなければならない。そうでなければどうしようもない。そうだと言って。そんな冷静な目で見ないで。しにそう、ねえ、分からないの。
みっともない。
琴子の唇は一文字に結ばれていて、時間が経つ毎薄れたベージュの口紅が艶やかに光っていた。
「きゃあ!」
それは衝動だった。ふいに手を伸ばし、朱美は琴子の腕を思い切りつかんだ。甲高い声が耳を貫く。スロー再生のようにゆっくりと視界が動いた気がして、琴子の髪の毛の先と、耳についた小ぶりなピアスが目にしっかり入った。
どぽん、ばしゃん。
ストッキングを履いたままの琴子の右足が、朱美のスカートを踏んでいた。
「な、なに」
至近距離、吐息のかかる距離。怯えを含んだ小さな声で琴子が問う。左手首を朱美は掴んだままだった。
まじまじと顔を見た。綺麗に整えられた眉毛や、茶色のアイラインが引かれた目元や。人より少し長めのまつ毛。いつの間にかベージュなんて選ぶようになった唇。
高校生のころの琴子はこんなにメイクが上手ではなかった。髪の毛は黒く、三つ編みだった。メロンパンが好きで、本人曰くそのせいでニキビができていた。口の端の、ニキビ。十六歳だった。どうしようもない引力で、朱美と琴子は磁石みたいに引き寄せあい、それが運命なのだと固く信じていた。
十六歳だった。
「現実的じゃないわ」
「何が」
「私は、結婚してあげられない」
子供も、作ってあげられない。
男の固く張った腕は彼女の腰に回しても余りあり、頼もしく。大きな体躯はすっぽりと彼女を包むことができるだろう。その胸で、琴子はいつか泣くだろうか。朱美は、自分の腕を一瞥した。
喉がひりつく。
「ずるずるしてたってしょうがないわ」
腕を軽く引いた。それでも、琴子は動かなかった。右足以外は、浴槽の外。浴槽の縁を掴んで器用にバランスを取って、こんな不意打でも、それでも安定している。背中を切り付けられたような顔で、琴子が朱美を見ている。じりじりと焦げ付く気がするのは腹の底か、あるいは心臓の奥。
ぐっと引っぱり、一瞬よろけた彼女の両手を朱美は掴んだ。態勢を崩した彼女の唇に半ば強引に噛みつき――ばしゃり、と湯船に波が立つ――獣同然の行儀の悪さで荒らした。琴子は大人しく息を弾ませ、唇が離れた後には銀の糸が掛かった。昼下がりの浴室で日の光に照らされ光るそれは、なんだか酷く間抜けにも見えた。
朱美の腿に張り付いたスカートは水分を多分に含んで黒々とし、不機嫌に沈黙していた。スカートも、臙脂のスカーフも、同じように黙っていた。琴子がぐっと縁を掴み、二人の間に距離ができる。右足は浸かったまま。荒い呼吸を整えようとしている。目線の高さはほぼ同じだった。
本当は。
「貴方にやって欲しかったの」
「……何を?」
本当は。
「貴方にこれを着て、沈んで欲しかった」
抱きしめただろう。掻き抱くように。
自分でも驚くくらいの力で。ためらいなく飛び込んで。
妄想。
琴子は黙っていて、一瞬だけのどがひくりと動いたが、言葉は続かないようだった。たっぷり五秒見つめあって、もうこれ以上はというように二人同時に下を向いた。どちらのものともしれない呼吸音だけが響き、ちゃぷん、と様子をうかがうような水音が立つ。
「……アイスを買ってきて」
朱美が言った。制服をもぞもぞと動かす。琴子は、母校のスカートがポケット付きだったことをそこでようやく思い出したようだった。
「はい」
掌に乗った、五百円。
「奢るわ」
「……」
もう高校生じゃないわ、と琴子が言った。
「うん」
覚えてたの。覚えてるわよ、夏期講習の帰り。そう、公園のそばのコンビニで。暑かった日。猫がいたの。そう、猫。
「いらないわ。…ハーゲンダッツでも買ってくる?」
今限定のやつ、好きでしょう。パンプキン。琴子が肩のバッグをかけ直す。制服を着た大人の女が、ゆっくりと首を横に振った。
「いじわるね」
泣かせたいんでしょう。そう言わんばかりの瞳で朱美が言った。何もかも許容する、弱々しく優しい瞳だった。琴子はふうと息を吐いて、それから今日初めての笑みを浮かべた。ぎこちない、それでもそれは琴子の笑みだった。
「…着替えてから行ってくる。びしょびしょだもの」
ぱしゃん。音を立ててゆっくりと立ち上がり、琴子が浴槽から足を引き抜く。その場でストッキングを脱ぐのを、朱美はじっと見て。踏み出す度に、ぺたぺたと足裏が音を立てるのを聞いた。
「琴子」
ドアノブに手をかけたまま、琴子が振り返る。朱美は、浴槽に肘をもたせ掛け、顔をその上に乗せたまま気だるげにしていた。のぼせたのかもしれない。唇が開き、二秒、閉じた。
「何でもない」
「そう」
琴子は出来るだけ颯爽とドアを開け、ゆっくりと出て、閉めた。
二十五歳の二人には、どうしようもなかった。誰もいなくなった浴槽の中で、朱美が何を呟いても、琴子がコンビニでどちらの硬貨をつかっても、どうしようもなかった。
のぼせ上がった頬で、朱美は小さく歌を歌う。
湯はまだ暖かく、小窓の外からは柔らかな日差しが差し込んでくる。琴子はなにを買ってくるだろうか。そもそも会社にはなんと言っただろう。制服……は、クリーニングに出そうか。多分あの店主は勘ぐるような視線を送ってくるだろう……それでも制服を洗うのは面倒くさそうだ。朱美は目を閉じる。喉が渇いていたことに気づいた。そろそろ出た方が良さそうだった。
ねえ、牛乳が切れそう。昨日琴子が言っていた。
ざぱん。
静かに立ち上がったが、それでも水音は立った。少し頭がふらふらしたが、じきに治まるはず。湯はゆらゆら揺れて、広がり、やがてぴたりと静止して静かになった。深く息を吐ききってから、朱美はゆっくりと、重くなったスカートのホックに指をかけ、重力に従って鉛のようなそれを落とす。底に沈んでいく。パンツも脱ぎ落す。
『好きです』
スカーフをほどき、ブラウスのボタンを一つずつ外して、落とす。音もなく、それらは湯の上に浮かんだ。
全裸のまま、のろのろと朱美は浴槽をまたぐ。緩慢に足を抜き、床を盛大に濡らして洗面台の、鏡の前に立つ。何の変哲もない、二十五歳の女が立っていた。
背の高い男だった。どこにでもいるような男だった。
ひたりと触れる自分の身体の丸み。肩、鎖骨、膨らみのある乳房、やんわりとくびれた腰。どこにでもいるような女が、鏡の中、あまりに情けない顔でこちらを見ている。それでも、この身体に、彼女は触れたのだ。何度も。何度だって。「行く?」、「うん」、だって。
(好きです)
唇は動かなかった。心の中だけで、ぽつりと呟いて、すぐに目を背け、上がり湯も浴びずに朱美は浴室を後にする。電気を消して、後ろ手でドアを閉めると、バタンと大きな音が立った。……バスタオルは浴室の中だ。
ねえ、牛乳が切れそう。ミルクたっぷりのコーヒーとホットミルクのために必要な牛乳。低脂肪ではだめで、ちゃんとした「牛乳」。今夜が冷えていてもそうでなくても、きっと必要だろう。朱美は考える。牛乳のことだけを。浴槽に放置されている、抜け殻のような制服のことを隅に押しやる。ぶはあ、と息を吐き出す。吐いて吐いて、吐ききる。そうしてもう一度ドアを開けて、一息に洗面台の上のバスタオルを引っ掴み、飛ぶように浴室から出ると、今度こそ勢いよくドアを閉めた。バタン。やっぱり大きな音が立った。
がしがしと皮膚を拭い、新しいパンツもブラジャーも身に着ける。朱美はのろのろと歩いた。今日は金曜日。牛乳のタイムセールの日。後藤君のことは、言い訳しない。行く?。うん。やめてそんな言い方するの。別れましょう。
好きです。好きです。好きです。
今日は金曜日、牛乳のタイムセールの日。今夜の二人に必要なそれを、きっと夕方、買いに行く。身体が冷えてしまう前に、女はスウェットに四肢を通した。