after.3 君は
さて、初登場となるが、今俺と美香がちゃぶ台を挟んで向かい合っているのは俺のマンションである。
ワンルームで浴槽も小さいが、トイレと分かれているだけまだマシだろう。現状はというと、さっき駅で彼女を迎えて、お茶を出して、一息ついて、そして俺が例の話を切り出したところなのだが……
「嫌!!!!」
「……まぁそう言うかなとは思っていたけど、ちょっと話を聞いてくれよ」
「何で今更、歌なんか歌わなきゃいけないの?私、もう人前で歌わないって決めたんだよ?
それを今になってほいほいと歌っていたんじゃあの引退ライブが何だったのかわからなくなるじゃない!」
「大丈夫!解散するとか言っておいて数年後しれっと復活してるグループとか無数にあるし!」
「そんな業界の闇について語ってどうするの!?私はそんな事したくないんだから、◯—◯◯◯◯◯とか◯◯◯◯と一緒にしないで!」
「違うもん再結成なんだもん感動の復活なんだもん!」
俺の愛した昭和の精鋭たちを悪く言うのはやめろ!まぁみなさんには何を言っているかわからねぇとは思うが。
「歌うって言ってもあのときみたいにたくさんの人が来るわけじゃないし、小さなライブハウスでかるーく歌うだけなんだから、そんな重く受け止めることないって!」
「それでも!なんかそれは違う気がするの!」
……雅也とののに指令を出され、決行された『一晩限り!樋口美香復活ミニコンサート大作戦』は、第一フェーズ『説得』から全力で難航していた。
「お願い!一回だけ……先っちょだけでもいいから!」
「意味わからないから!ってか先っちょって何!?」
だがここで引くわけにはいかない。俺が考えた……と言うよりは考えてもらった、ぼくのさいきょうのぷろぽーずのため、彼女には俺のわがままを。
「お願いだよ。本当に、これで最後でもいいんだ」
「……どうして……」
「歌っている美香の姿が、見たいんだ」
本当に、誰のためでもない、俺の欲望を、叶えてもらいたいんだ。
それにさ、もう一つ。
「私なんかが、歌っていいわけ、ないよ……」
美香は、一回も歌うことが嫌だなんて言ってない。
自分が出ていいわけがないって、自分を押さえつけているだけだって、わかってるから。
「まぁ、ゆっくり考えてくれ。俺が見つけたライブハウスの枠、もうちょっと待ってくれるらしいからさ」
「伸一くん……」
強く出れる。けど、最後の部分は美香の意思で決めてほしい。
そもそも彼女は俺の計画なんて全く知らないはずだし、唐突で意味不明な話にしか見えないだろう。
それでも俺は、彼女に受けてほしい。そして、このミニライブという一大イベントを以って、過去に残したしこりを取り除いてしまいたいのだ。
「なにそのニヤニヤした顔……全然深刻そうじゃないよね、伸一くん」
「え?ぜんぜんそんなことないですよ〜もう〜」
「もう!絶対やってあげないんだから!」
美香はぷいと顔を背け、どこかへ行こうとするが、ここがワンルームの部屋だということを思い出し、扉の前でウロウロするだけになっている。
「前もこういうことあったじゃん?」
「……え?」
そんな彼女に、ゆっくりと、懐かしむように語りかける。
「アイドルやるってなった時も、歌いたくないって、言ってたじゃん。でも、結局は歌ってくれたじゃん?」
「それとは、違うよ……」
確かに、それとは違う。こんなものは詭弁だ。でも、ののはこうも言っていたんだ。
「俺たち、いい加減、前に進むべきなんだよ」
「っ……」
「麗奈のこと、いつまでも引きずっていられないだろ。俺も……美香も」
ののが言っていたことの受け売りでしかないこの言葉。
でも、彼女が口にするのと、俺が口にするのとでは大きく重みが変わってしまう、言葉。
俺たちは五年間、一瞬足りとも麗奈に会っていない。
テレビでさえ、どうしようもない状況じゃない限り避けてきた。
俺は、きっと一生彼女のことを忘れ去ることはできないだろう。いつだって、あの、いままでで一番楽しかった一年間を思い出しては、泣きそうになってしまうんだろう。
それは、美香だって一緒。
いいや、俺よりもずっと長い時間を過ごしてきて、親友で、姉妹で、ライバルだった彼女たちの絆は、きっと俺なんかよりもずっと深いもののはずだ。
「そろそろ、逃げること、やめよう」
「……伸一くんは……」
「ん……」
「伸一くんは、忘れられるの?」
「無理だよ、そんなの」
「っ……そうだよ。そんなこと、できないんだよ……」
「けど、さ。もう、思い出にしていい頃だと思うんだ」
未練を、思い出に。
過去を、あんなこともあったという、昔話に。
そうしなきゃ、いつまで経っても麗奈のこと、応援できない。
約束も何もかも放り投げたけど、裏切ったと捉えられても仕方のないことをたくさんしたけれど。
ずっと麗奈の味方で……ファンであり続けるっていう約束だけは、守りたいから。
「美香がライブしてくれたら……そして、あの頃のこと、思い出せたら……きっと、変われる気がするんだ」
「伸一くん……」
「だから、考えて欲しい。今少しでも心が揺れたのなら、俺は諦めたくない」
すっかり冷めてしまった紅茶をすすり、ため息をつく。
「そんなの……そんなの、わかんないよ!」
美香はそう言って玄関に飛び出し、扉を開ける。
「あ……」
暖房で温まった部屋へ一気に差し込む冷気。
流れ込む風に揺れる、白い牡丹。
「雪だ……」
俺たちの喧嘩など知らぬとばかりにしんしんと降ゆく花びらは、まだ12月上旬のアスファルトを徐々に白で埋めて行く。
ああ、そういえば今日の夜は雪だって、天気予報で言っていたな。
そんなの全く気にしていなかった。いいや、する必要がなかった。
いつもの癖で、美香は家に泊まっていくものだと考えていた俺のミスだ。夜に降っていたところで関係ない。美香も泊まるつもりでいたのだろう。しまったという顔をしている。
スマホを開き、電車の運行状態を見てみる。案の定、運休が続出していた。
そしてその中には、美香が使っている路線も、やはりあった。
「〜〜〜っ!!」
「あ、美香!」
扉を閉めこちらを振り向いた美香は真っ赤な顔をしており、どすどすと強く床を踏みしめながら部屋に戻ってきた。うん、バツが悪いのはわかるけど下の人から苦情来たら困るからぜひやめて欲しい。
「もう寝るから!入ってこないでよ!!」
「え?あ、ちょ!」
美香はそのまま俺のベッドに寝転がり、布団を頭からかぶって、沈黙した。
「おいおい待て待て、こんな寒いのに布団ないと凍え死んじゃうって」
「…………」
「美香ちゃ〜ん」
「………………」
「美香りん」
「……………………」
「樋口」
「っ……」
「はぁ〜……」
俺は部屋の明かりを消して、地面に腰掛けベッドに寄りかかる。
隣の部屋から、テレビの……きっとバラエティ番組であろう、楽しそうな音がして。
一気に温度が下がった室温を再びあげようと努力するエアコンの駆動音がして。
……美香の、呼吸の音がして。
明かりがない場所では、音が大きく聞こえる。
「ねぇ、伸一くん」
ああ、素敵な雪の音。
「今、じゃなきゃダメなのかな」
それは降り積もる雪の静けさに似ていて。
「麗奈さんのこと、ずっと気にしてた。でも、気にしちゃいけないって、思ってた。
私は裏切り者だって。ひどい女だって、思いたくなかったから……全部、自分のために蓋をした」
踏みしめた時のように、心地よくもあって。
「本当、嫌な女だね。
でも、そんな私を、あなたは選んだんだよ?
もう、取り返しなんて、つかさせないんだよ?」
首筋に触れるように、くすぐったくもあって。
「そんな私だから……いきなりなんて、無理だよ……」
溶け出す時は、一瞬で。
「先輩は、先輩は……先輩、は」
やがて音はなくなって、今度は規則正しい寝息となった。
今、君はどんな夢を見ているのだろう。
あの日の夢?それとも、あの日の夢?
「おやすみ、美香」
エアコンの温度を少し上げて、ソファに寝転がり、目を閉じた。
願わくば、目が覚めたら美香の中で何かが整理できているように、などと思いながら。