第76話 新しい日常
12月ももう中盤に差し掛かる。
今年は気温が低い年らしく、雪が多い。
今日も外には粉雪が優しく降りており、冬が本格的に始まるのだと実感させられる。
今日は土曜日。
俺と麗奈の決別から、一週間が過ぎようとしていた。
「寒い」
俺は部屋のカーテンを閉め、再び暖かな布団に戻る。
そう、こんな生活を、もう、一週間も続けているのだ。
今時女に振られたくらいで一週間学校を休む男子大学生なんて痛すぎるかもしれない。けれど、俺に取って彼女はそれほどに大きくなっていたのだ。
今更そんなことに気づいても、何もかも遅いのに。
「っ……」
今が朝だと言うことすらわからなくなる。
暗い部屋の中で、麗奈のことを思う。
彼女の本当の思い、悩み、願望。わかった気でいた、愚かな俺への自問自答。
そこに、ピンポーン、という無異質な音が響き渡る。
これも、いつものこと。
俺はゆっくりと扉に近づいていき、開ける。
「来なくていいって……言ってるのに」
「いいじゃないですか。私が、こうしたいんですから」
「……お茶くらい出すよ」
「ありがとうございます」
優しく微笑む樋口。
彼女は樋口美香。
容姿端麗、性格もしっかり者の優等生。でもたまにドジ。
綺麗な黒髪ストレートを右側へ流している、現在はアイドル活動なんかも始めた元同じ高校の二個下の後輩。
そんな彼女は一週間前、近所の河川敷公園でその……信じられないことに俺に告白した。
でも、俺はあの時、結局何も言わなかった。
言えなかったのだ。
樋口に惹かれていた。そんなことずっと前から気づいていた。
でも、今の俺に取って麗奈以上は考えられないから、ありえないから。
そう、正直に伝えた。でも……
「今日の夕飯は私が作ってもいいですか?」
「またか?」
「先輩だけだとどうせジャンクフードか錬金術料理しか食べられないじゃないですか」
「なんだよ錬金術料理って……」
樋口は、俺の家に来て、甲斐甲斐しく世話を焼いていってくれる。
料理だけではない。この前なんて目を離した隙に洗濯までしていた。
別に今の俺は凹んでいるだけで、死のうとかそこまで追い詰められてはいないし生活能力も一応あるんだけど……何が心配なんだか。
「じゃ、座って待っててください」
「…………どうし」
「好きだからですよ?」
「まだ言い切ってないんだけど……」
どうして、こんなに俺の事を心配してくれるんだ?
そう、聞こうと思った。
その返答は、ずるいだろ。
だって、樋口はきっと、俺が彼女に明確な返事を言えずにいる事を負い目に思っているって、ちゃんとわかっている。
まったく小狡いと言うか……小悪魔というか……やっぱり天使というか。
「先輩はわかりやすいですからね〜」
「なにそれどの発言について言ってるの!?」
……やっぱ最後の完全に落ちちゃってるみたいだから訂正する。
樋口はずっとこうだった。
俺が麗奈にかまけ過ぎて、樋口のことをちゃんと見て来なかったのだ。
アイドルに引きずり込んだのは、日本に止まらせたのは、俺だっていうのに。
「はい、どうぞ」
「……いつもありがとう」
「それは言わない約束。でしょ?」
「騙されない……俺は騙されないぞ」
あざとい。ウインクとかしちゃってあざとすぎる。
何かの漫画か何かで書いてあったが、恋に正直になった女の子は無敵だとか。
うっわ、樋口の感情を俺に対する恋とか偉そうに語る俺キモっ!
別に誰も聞いていないからいいんだけどさ。
テーブルに並べられた焼き魚定食。香ばしい香りがして、いかにも美味しそうだ。
「先輩、結構元気になって来ましたね?」
「…………いただきます」
「大学、行きませんか?もし良かったら、私に校舎案内をするという意味でも」
「今、さりげなく無視しようとした俺の意図に気づいてただろ?」
「まぁ、そうですけど」
「結局お前、冬海大学に行くのか?」
「そうですね。今の学力でいけるかどうかわかりませんけど」
「え、受験するの?推薦じゃなくて?」
社長さんの持つコネクションを最大限利用して麗奈のように滑り込むものだと思っていた。
「もう、推薦は叶いませんから」
「どうして?」
「先輩、私は本気なんです」
「それはどういう……」
樋口は、急に真顔になり、俺を見つめる。
「本気で、先輩のためなら何もかも捨てられる」
「っ!?」
「先輩の彼女になるためにアイドルという肩書きが邪魔だというなら、すぐにだって辞められる。
私は、先輩だけいればいいんです。だから、社長さんの力で大学に行くわけにはいかない」
「お、お前……急に何を……」
冗談だと思いたい。けど、彼女の目は悲しいくらい真剣で。
「でも、だからと言って好きでもないのに私と付き合って欲しいとは思えない……そんなの、悲しすぎるから」
「樋口……」
「重いでしょう?わがままでしょう?こんな私、知らなかったでしょう?」
すると急にいたずらっぽく、年下らしい笑顔を向けて来た。
「だから、私は私のために、先輩を惚れさせてみせます。
そのためなら、しつこいって言われたって追いかける。麗奈さんのこと、忘れさせてみせる」
なんだよ、それ。
俺は何も、この子に返せないっていうのに。
「さしあたっては料理でも。冷めないうちに食べてくださいよ」
「……強いな、樋口は」
申し訳なくて、でも、本当に助かっていて。
だって、一週間。
樋口がいなかったら、きっとまともに会話すらできなかっただろう。
それがこんなに回復できた。
俺が今できることは、一つだけ。
「大学、今日から行くよ」
「え!?」
「今日から大学、行こうと思う」
「えぇ……もう学校に病欠出しちゃったのに……」
「いやそれ完全にアウトじゃねぇか」
こいつ……本当にちゃっかりさんだな。
「じゃあ、今日が最後かな。樋口のお願い、なんでも聞いてあげるよ」
「ん?今なんでもって……」
「お前は女だろうがッ!」
なんでこのネタが通じるんだよおかしいだろ……
「でもお願いって……それこそ言い出せば無限というか」
「俺にできる限りで、一つだけ」
「なんか急にせこくなりましたね」
「うっせ。もう聞かないぞ?」
「ああー!嘘です今から考えます!」
でも、外に出たくないのが正直な気持ちだった。
樋口はまだ経験も人気も麗奈ほどではないからつきっきりでカメラマンがいるとは思えないが、念には念をいれたい。
「とりあえず天気予報でも見るか?」
樋口が唸ったまま動かないので、とりあえずこれからの気温と天気を見よう。
リモコンを手に取った、その時だった。
「ダメ!!」
「わっ……」
俺の元に飛びつき、リモコンをふんだくる樋口。
「あ……ごめんなさい……」
「いや、別に……いいけど」
「本当にごめんなさい。でも、わかりましたよね?」
「何が?」
「私、全然強くなんかないんです。
今の時間でさえも十分に幸せで、これ以上何を望んだらいいいのかわからない。だからこそ、今が壊れちゃうことがどうしようもなく怖い。
本当に、わがままな女です」
怖い、か。
どうしてこの子は、こんなに俺のことを好きでいてくれるのだろうか。
俺は、こんなに思われるほど価値のある人間だろうか。
こんなに優しい女の子を、こんなに泣きそうな顔にさせてしまうような、俺なんかが。
「今、お願い決まりました」
「……え?」
「この部屋で、一緒にいてください。
今だけは、私のそばにいてください。目に見えないところに、行かないでください」
「そんなことでいいのか?もっと色々……」
「そんなことが、一番幸せなんですよ?」
「……そっか」
明日から、また大学に行こう。
今日が最後。
これ以上、麗奈によって停滞するわけには行かないから。
でも、そうすることで少しずつ麗奈を忘れていってしまう気がして、少し怖い。
新しい日常の中に、もう、彼女はいない。
真っ黒な画面の奥にしか、彼女はいないと認めてしまうのが、辛く、悲しいのだ。