第69話 これが経産婦だと?
「あ、先輩たち着いたみたい……」
「伸一…」
久しぶりの今井家。
その大きなホールの中には老紳士と、麗奈と樋口が待っていた。
「うまく撒けた?」
「問題ないかと思われます」
「そう、多分こっちも大丈夫だと思うわ」
今井は老紳士と会話し、安心したように胸をなでおろした。
「コートをお預かりいたします」
「あ、どうも……」
俺は今まで運転してくれていたメイドさんにコートを手渡す。しかし、よく見ると綺麗な人だ。一体何歳だろう。
「先輩、随分と仲良さげですね?」
「そんなんじゃないって」
樋口さんのツッコミがなんか厳しい。
何かあったのかと思っていると、彼女は俺の横に並び立ち…
「最近私のこと避けてたみたいですけど、もう、いいですよね?」
「っ……」
耳に顔を近づけ、小声で囁いてきた。
避けてきた?俺が?
……いや、本当は気づいていた。あの、雪の降る駐車場で誓いを交わした日から、半ば無意識に俺は樋口と接触することを避けてきたのだ。
「麗奈さん、寂しがってますよ。行ってあげてください。
今はきっと、すごく不安だと思うから」
「樋口……」
自然でいられなかった。そうしてきっと、彼女を傷つけた。
でも、それを責めるでもなく、ただ告げて、樋口は今井の元へ向かった。
「じゃあ、あたしたちは学校行くから、あんたたちは好きなだけいていいわよ?」
「え、行っちゃうの?」
「当たり前でしょ?ほら、いこ、美香」
「うん、そうだね?」
二人の女子高生は再び玄関から外に出る。
その間際、樋口はちょっとだけ振り返って、麗奈を見た。
「麗奈さん……麗奈さんは、幸せになっていいんですよ?」
「っあ……」
そう言って笑うと、今度こそ彼女は玄関から外に出て行った。
老紳士は再び運転手として彼女らの後を追う。
残ったのは、俺と麗奈、メイドさんだけだった。
「こちらへどうぞ」
メイドさんは階段を指し、進んでいく。
しかしメイドさんとは……流石金持ち。
ご両親は何をやっているのだろう。母親が業界の大物らしいと言う話は聞いたが……
「こちらです」
メイドさんが扉を開ける。その奥には机とテーブル、二つのベッドが置かれた質素ながらも広い部屋があった。
「ほとぼりが冷めるまで、こちらで生活なされば良いでしょう」
「ありがとうございます。その件について、この家の今井のご両親にちゃんとお礼を言いたいのですが……」
「いえ、その必要はありませんよ?」
「え?」
「私がののの母、今井みみでございます」
「……は?」
いやいや待て待て。この人が、今井のお母さんだって?
これが経産婦とかありえないだろ?歳なんかほとんど俺とおんなじくらい……いや、若いまである。それにメイドじゃんこの人!いや、それは関係ないか。
「はは、ご冗談を」
「ちなみに主人とはとうに離婚しておりますゆえ、そのお礼は、私がしっかりと受け取っておきました」
「えっと、マジなんですか?」
「もちろん、マジでございますよ?」
その時、初めてこのメイドさんは笑った。
なんだか、胸の奥がざわざわするような魔力を持った笑みだ。端的に言って迫力がある。
確かにこの人大物かもしれないと、少しだけ納得した。
「では私には仕事がありますから」
「あ、ちょっと待ってください!最後に!!」
「なんです?」
「……どうして、メイド服を?」
「好きだからです、メイドさんが」
「そう…ですか」
そうして、彼女は去って行った。
今井みみ……作品屈指の強属性キャラが出てしまった気がする。
それはともかくとして、だ。
「麗奈、いつまでもそんなに落ち込んでいるなよ」
「……あ……ごめん……」
「麗奈?何かあったのか?」
俺は麗奈のそばに行き、うつむいた顔を覗く。
彼女がこんな風にぼーっとしてしまうのは、決まって何かよくないことが起こった時だと、もう経験でわかっているのだ。
「なんでもない。うん、なんでもないよ……?」
「あ、お、おい……」
そして、その予感は間違っていなかったらしく、麗奈はまた涙をこぼし始めてしまった。
「うん、なんでもないの……ごめんね?あたし、こんなのおかしいよね?」
「……そっか、なんでもない、か」
「……あ」
きっとこの涙の訳は、事務所に迷惑がかかったから、とか、マスコミに責められて不安、とか、そう言うんじゃないのだろう。
それだったら、彼女はもっと大きな声をあげて泣けるはずだから。こんなに、我慢したような泣き方をする必要なんて、ないはずだから。
そんな彼女に俺ができることは、やっぱり側にいてあげることくらいしかないんだ。
こうやって抱きしめてあげることしか、ないんだ。
「大丈夫。話したくなった時に言ってくれればいいよ」
「そんなに……あたしなんかに優しくしないで」
「なんかだなんて、言うな」
「ううん……だって、あたし嬉しいって……思っちゃっているもん」
「それは悪いことじゃない」
「違うよ。最低だよ。本当に、汚いよ……」
「麗奈が最低でも、俺は側にいる。約束する。……って、もうとっくにしたんだけどな?」
「馬鹿…」
麗奈のために、何かしたい。
こんなことしかできない自分が、本当に悔しい。
立ちはだかる様々な障害を超えるでもなく、俺たちはここに逃げるように隠れるしか、できることがないのだ。
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「あっつ!!これあっつい!!」
「あ、ちょ、何やってるのよ!!これはこっちに入れるって言ったじゃん!」
「言ってない!」
「言ったっての!!」
そんなこんなでシリアスから飛びまさかのこのハイテンション。
俺は今、今井家の誇る最高設備の厨房をお借りして、俺史上最大の壁に挑んでいるのだ。
しかし隣の教官殿、なかなかにスパルタである。
「もう!砂糖はこっちだって何回も言ったじゃない!何?ラノベによく出てくる錬金術系料理下手ヒロインなの!?あんなの実際にやるやついる訳ないじゃないいい加減にしなさいよ!!」
「それを僕に言われましても……」
「あんたのことよ!」
「うわああああっ!!鍋当てんなクソ熱いぁあぁぁああああああ!!!」
「あ、ごめん」
ほら!加熱した鍋を勢いで僕に当てる始末!おかげでビブラートかかっちまったよ!
では、そろそろどうしてこんな状況になったのか説明しよう。まぁお察しだとは思うけどね。
俺たちが今井家に住み込むようになってから早4日が経った。みみさんは基本的にメイド服で、家にいることはあまりない。
ののの方も最近は同じ家にいるのにあまり会うことがない。
曰く、
「あんたらの部屋の近くなんてごめんよ。もし喘ぎ声とか聞こえた日には……しばらく立ち直れそうにないわ。当然、悪い意味で」
らしい。いや、ほんとすごい目で睨んできてたな。怖かった。
だが安心してほしい。俺は伊○誠もびっくりの意気地なし、ヘタレっぷりを見せ、未だに手を出していない。
別の部屋にしようかと思った時もあったのだが、麗奈が無言で俺の服の裾を掴んで離さなくなったので結局同棲時と同じ感じになってしまった……同棲って言うとなんかエロいけど本当に何もしてませんよ?
とまぁ、こんな感じで今日までが過ぎた訳だ。
俺は唯一()の弱点である料理を克服すべく、麗奈と一緒に頑張っていたのだ。
鍋を当てられ、赤くなり出した腕を流水で冷やしていると、一通りの作業を終えた麗奈が歩いてきた。
「本当、伸一って変なところで不器用よね」
「うっせ……」
一度、こう突き放して。
「大丈夫……?ごめんね、痛い……よね?」
こうして、しゅんとする。
ツンしゅんってなんかのアニメで言ってた気がするけど、これがそうか。
「いいよ、俺も不注意だったし」
こんなの、許せない訳ない。
安心したように麗奈は俺の腕を見続ける。
「見たって何も起こらないぞ?」
「ううん…水を見てたの」
「それなんか怖いな」
「ねぇ伸一、大学はいいの?」
「今、それ関係あるか?」
「仕事の方は美香がなんとか言ってくれたみたいだけど、大学は……あたしと違って伸一はちゃんと単位とって優等生なのに……」
「優等生ってことはないと思うぞ?別に真面目に授業聞いてた訳じゃないし」
「でもそろそろ行かないと……」
「そんな事より、できたんだろ?食べようぜ?」
「あ、ちょっと伸一!」
大学、か。確かに、俺はそこそこ頑張って必修は落とさないようにしてきたが…そろそろ全体的に欠席数がやばそうだ。
だが、かと言って麗奈を一人にできない。彼女がもし俺のいない間に泣いていたらと思うと、一歩も動けなくなる。
はは、なんだ俺、れっきとした麗奈依存症だな。
俺たちの(というかほとんど麗奈が)作ったパスタを食べようと、テーブルに向かおうとした時だった。
「うわ!おいしそう!!これ麗奈が作ったの!?」
「…………?」
「いっただっきまーす!!」
「ああ、あああああああ俺の初めてまともに作った料理が!」
「あんたもしかして今まで自分の作る料理がまともじゃないって知ってたんじゃないの?知っててこの前あの朝ごはんあたしに食べさせようとしたんじゃないの?」
「うーん、トマトソースの酸味がしびれますが……あれ、なんだこれ、変な味がする……」
「どうしてお前がそれ食ってるんだよ今井!!」
そう、なぜか俺の食べるはずのパスタを今井が食べていたのだ。ってかいつからいたんだよこいつ。
しかし変なもの……砂糖のことか?なんかやっぱ食べなくていい気もしてきた。
「何ケチ臭いこと言ってるのよ石田。家賃と思えば安いものよ」
「痛いところを……」
「き、キッチンは使っていいってあなたのお母さん言ってたわよ?」
「ああ、別にそんなこと怒りにきたんじゃないわよ。石田と……まぁきっと麗奈にとってものお客さんが来たから、呼びに来たの」
「…………何それ?」
「客って、今井通したのか!?」
今の状態で!?俺と麗奈が一緒にいるってバレてしまうじゃないか!
なんてことをしてくれたんだと今井を責めそうになったその時……
「よ、思ったより元気そうだな?」
「……え?」
「久しぶりだな石田、景気付けに一発歌っていこうか?」
「いやそれはマジでやめて…」
「お、お久しぶりです……」
厨房の入り口に、いつかのバンドメンバーが現れたのだった。