第64話 キス
あまり大きくない社長室には、俺、樋口、美月さん、そして社長、計4人が顔を合わせていた。
そんな中、俺は頭を深々と下げる。
「お願いします!!」
「………気持ちは分からなくもない。けどな」
社長さんは、俺にパソコンのディスプレイを見せてきた。
ブラウザに記された、インターネット記事。大きな赤文字で書かれた見出しは「山橋レナ、活動復帰と見せかけ再び活動休止。ファン戸惑い声」。
次のページにも、その次のページにも、山橋レナの事ばかりだ。
そして、その多くは麗奈の印象を貶めるようなもので、酷い記事にはファンを振り回すわがまま女、とまで書かれていた。
そんな状況、当然事務所としても看過できない。
だから……
「俺ら風間プロダクションは麗奈の活動休止の、本当の理由を話す。その結論は変わらん」
「駄目です!」
樋口のデビューライブで復活を果たしたかと思われた麗奈が、再び活動休止した本当の理由。
最愛の妹、香奈ちゃんの死を公表すべきと。そして、麗奈の家族に起こった悲劇を公表すべきと言うのだ。
「こうなってしまったら、どうしようもないだろうが!!こうして世間の同情を得ないと、もう山橋レナは終わっちまうんだよ!!」
「だからって、香奈ちゃんのことを晒し者のようにして……」
「仕方ないだろ!!」
そんなの、あまりに可哀想すぎるじゃないか。
やっと母親と向き合えたのに、そんな風に悪者にしてしまっては全部無駄になってしまうではないか。
そして、妹の死を世間で騒がれる麗奈も、あまりに報われない。
「2人ともやめなさい!」
「そうです!こんなの……っ!!」
そこへ、2人の女性が仲裁に入る。
「美月、お前……っ!」
「社長さん、熱くなりすぎ」
「っ……」
「樋口、お前はこれでいいのか!?」
「そうじゃ、ないですけど…」
「じゃあ……」
「だからって、こうして言い合うことになんの意味があるんですか!!?」
「っ……」
どうして、うちの男衆はこう弱いんだろうな。
いや、女が強すぎるのか?
「でも、私も正直、どうかと思います。
香奈ちゃんの死をこんな風に利用するなんて……」
「じゃあ、このまま美香は麗奈が復帰できなくていいの?悪く言われ続けてもいいの?」
「それは……」
「このことはもっとよく考えて、慎重に動くべき問題よ。
幸い美香の人気も上がってきて、新曲、CD、セカンドライブの話もたくさん来ている。すぐに経営難になることはない。
社長さんも、レナを過保護にしすぎないの。
そして伸ちゃん、麗奈を過保護にしすぎないの」
「あの、美月さん。それ音だけだと全然違いがわかりません」
「とにかく、この件についてはもう少し頭を冷やして議論すべきってこと。わかった?」
「……はい」
「ちっ……」
社長さんは舌打ちし、タバコの火をつけた。
「行くわよ、伸ちゃん」
「はい……」
そうして、俺たちは社長室を出た。
これ以上話しても、なにも変わらなかっただろうしな。
社長室の外では、2人の男先輩が待ち構えていた。
「今日は、もう帰っていいぞ?」
「博多先輩……」
でも、掛けられる言葉は前のように仕事しろ、とかではなく。
「ああ、早く、帰ってやれよ。な?」
「…………ありがとう、ございます」
今、家に帰ることこそ、俺の仕事だとでも言いたげに、優しげに声をかけてくるのだ。
まぁ、実際そうなのかもしれないけど。
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「た、ただいま……」
「お、おかえり」
こんなやりとりが、あの日からずっと続いている。
「ご飯にする?お風呂にする?」
「うっ……」
「そ、そそそ…それとも……わ、わわわわわたたたたたたた……」
「……そんな恥ずかしいなら言わなくてもいいよ」
「う、うっさいなぁ……」
あの日、俺と麗奈が想いを交わしたあの時から、彼女は俺の家で暮らすようになった。
……でも、手は出していない。彼女はまだ処女だ。安心してほしい。
「別に、私でも……」
「へ?」
「っ!!」
だから……安心……
「う、嘘だから!料理、そろそろできるから食べて!」
「お、おう」
……本当、危うく襲っちゃいそうになる。
だって家に帰ったら好きな女の子がご飯作っていてくれて、一言一言にいちいち反応して顔真っ赤にして、エプロンなんかつけてまるで新妻みたいで。
ってかこの子アイドルなんだよなぁ…どうして俺の家にいるんだろう。何これ、ドルオタの妄想?その通りでした!
「早く食べて!冷めちゃうから!」
食卓の上には色取り取り…ってほどでもないが、鳥の唐揚げとサラダと味噌汁というまさに新婚っぽいような……
「い、いただきます」
「はい、あ、あああ…あーん」
「え…?」
いやホント、こんな幸せでいいのだろうか。
こんなにも恥ずかしくて、こんなにも暖かくて……こんなにも、愛おしくて。
「ぅ……ぅぇぇぇぇっ!!」
「麗奈……」
こんなにも、悲しい。
俺はすぐに椅子から立ち上がり、麗奈の側に行き、抱きしめる。
「ごめんね……ごめん、ね……?」
「いいんだ。俺がこうしたいんだよ」
「うん……うん…ありがと…っ!」
俺の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らす麗奈。
こういうことが、あれから度々あった。
日常の、小さな出来事一つ一つが引き金になって起こる、発作のようなもの。
香奈ちゃんと過ごした日々を思い起こさせる、呪い。
その度に彼女の瞳からはボロボロと涙が溢れ、その度に俺は彼女を抱きしめた。
「ごめん、もう、帰らなきゃ迷惑……だよね」
「いいよ、ずっと、ここにいても」
「でも…でもぉっ……!」
「迷惑だなんて思っていないよ。気が済むまで……」
麗奈の肩を掴んで少し離し、顔を見つめ合う。
真っ赤になった顔。濡れる頬。
透き通るような金髪をそっと避けて、その顔を良く見る。
ここまでも、いつも通り。
「ん……」
「…んぁ…………」
舌を絡め、唾液を交換し合う。
口とか、粘液とかそういう次元じゃなくて、心まで溶け合うように、熱い。
でも、こんなにも心地いい時間だというのに、その唇が濡れていなかったことは一度だってない。
「んんんっ…む……」
だから、烏滸がましいって思われるかもしれないけど、少しでも麗奈の心が安らぐように。
優しく、でも力強く、長いキスをする。
麗奈の涙が止まるまで、何度でも、何度でも。
俺のベッドの上で、静かな寝息を立てる麗奈。(勿論服は着ています)
据え膳食わぬは男の恥、と、世間では言うが実際目の前にすると簡単に食べちゃうわけにもいかぬのだ。
さて、床で寝ようとクッションを敷く。
「伸、一ぃ?」
「……ごめん、起こしちゃったか?」
寝ぼけ眼で、俺を見つめる。
「怖い……」
「……そっか」
「ねぇ、お願い」
「うん?」
「一緒に、寝よ?」
「ぶっ……」
え、これは、私を食べてってこと?
いや、僕も19歳の男の子。こんなのが毎晩のように続けば溜まるものも溜まるし……
「そんなわけ、ないよな」
俺はベッドに入り、麗奈と背中を合わせる。
ほら、もう、再び寝息を立て始めてる。
優しく髪を撫でると、ああ好きだなぁ、って、思う。
「なぁ、明日は……どっか行こう?」
返事は、勿論来ない。
でも、ずっとこのままというわけにはいかないんだ。
麗奈は、本来俺なんかが独占していいような子じゃないんだから。
「明日……そうだ、どこか遊びに行こう?」
だから、少しでも立ち直れるように。
その支えに、俺はなりたいんだ。
「あれ……はは、なんだよ、情けないな、俺」
そっと目をこすり、眠った。
隣の、好きな女の子の、心臓の音を子守唄に。