第60話 お母さん
もう馴染みつつある扉を引いて、俺は病室に入る。
「……遅かったね」
「ちょっと野暮用があってね」
朝日を浴びながら、俺はこの病室の主人である香奈ちゃんのそばに歩いて行った。
「昨日、帰れなくてごめん」
「いや、それはいいよ」
「寂しかった?」
「お兄ちゃん、調子に乗らない方がいいよ?」
「手厳しい」
いつもの会話がどこかぎこちなく感じるのはきっと、互いに思うところがあるから。
「お姉ちゃん、昨日帰ってこなかったんだ」
「……………」
「いや、今までずっといる方が異常だったんだし、別に、悪いことじゃないと思うんだけどさ」
昨日、俺が麗奈を連れて帰らなかったことに、思うところがあるから。
「でも……ちょっと弱っているのかも。お姉ちゃんがいない夜は、確かに寂しかったよ」
「ごめん、な」
だから、謝る。
昨日麗奈が帰れなかったのは、香奈ちゃんに寂しい思いをさせてしまったのは、俺のせいみたいなものだから。
「会えなかったんだよね?」
でも、できるだけ感じさせないようにしていた少しだけニュアンスの違う謝罪を、彼女は敏感に嗅ぎとってしまう。
「昨日、結局教会でお姉ちゃんには、会えなかったんだよね?
お姉ちゃんはきっと、お父さんのことを思い出して、悲しくて少し一人になりたかったからここに戻らなかったんだよね?」
香奈ちゃんの表情が、次第に焦燥を帯びる。
動悸がしてきた。うるさいくらいの心音を、消し去ってしまいそうになる。
冷静になれば、なんとひどい裏切りだろうか。
このことが、どんなに彼女を苦しめるか、わかったものじゃない。
病気の彼女は、麗奈とは違う。こんな拷問、する必要はないのかもしれない。
でも、お互い様だろ?
だって香奈ちゃんも、麗奈のために、俺を生贄にしようとしただろう?
だから俺は、君にもそれを要求する。
君を生贄にして、山橋麗奈を取る。
「香奈ちゃん、恨んで、いいよ?」
「っ!!?」
俺は扉に近づき、ゆっくりと開ける。
「お姉ちゃん…?」
そこに立っていたのは、麗奈。
「……え?」
その、悲しみに満ちた疑問符で、胸が一気に苦しくなる。
だって、麗奈の後ろに立っていたのは……
「香奈」
「あんた、また…!?」
ここまでなら、まだ許されたかもしれない。
薄々、彼女もこの可能性を察していたかもしれない。
でも、その先は。
恐ろしく残酷な現実が、待ち構えている。
怒りで振り上げた香奈ちゃんの手が力なく降ろされたのが、何よりも、その現実を見たくなかったことの証明だった。
「初めまして……沢良木、貴弘です」
中年の、優しそうな顔をした男が、香奈ちゃんを見つめる。
揺らぐ瞳。ここに来たのだって、ものすごい勇気を必要としたはずだ。
でも、本当のとどめは、彼じゃない。
その腕に抱かれた、一人の小さな少年。
「こんにちはー!さわらぎしんじです!」
香奈ちゃんと麗奈の母から生まれた、弟の姿だった。
重たい沈黙が、空間を支配する。
でも、何もなかったわけじゃない。何度も、何度も香奈ちゃんは何か言葉にしようとして、諦めてきた。
「香奈……」
「お姉ちゃん、なんで……?」
そして、ようやく絞り出された言葉は、責めの語調を含んだ、姉への呼びかけだった。
「どうして、こんなことになってるの?」
「ごめん」
「そんなことを聞いてるんじゃないよ」
「……ごめん」
「そうじゃないって言ってるだろ!?」
ベッドに付属している机を思いっきり叩き、目の前にたつ沢良木家と、麗奈、そして俺を睨みつける。
そのあまりにもの形相に全員、特に、真司くんが怯える。
「これが……これが見せたかったもの?こんなことをして満足なのかお兄ちゃん!」
「……………」
罵倒は、覚悟していた。
でも彼女の前にこんな現実を叩きつけるのは、意味があることだから。
その免罪符があれば、俺は折れない。
「あなただけは……わかってくれると思っていた。
私のこと、わかってくれてるって……信じてたのに……」
「っ……」
こんな風に、弱々しい涙声を聞いたとしても、折れないはずだったんだけどなぁ……
「香奈ちゃん、俺は……」
そんな、どこまでも格好のつかない言い訳をしようとする俺の前に、麗奈が立つ。
そっか。俺は、必要ないか。あとは、任せていいんだな?
麗奈は香奈ちゃんをまっすぐに見て、話し出す。
「私、ずっと怖かったんだ」
「……………」
「自分が、お母さんから必要とされない存在だったのだと思うことが、怖くて仕方なかった。
ううん、それだけじゃない。おんなじように、周りの人からも必要とされなくなったら捨てられちゃうんじゃないかって。目の前から、届かない場所に消えて言ってしまうんじゃないかって……そう思ったら、人と関わるのが本当に怖くなったの」
「……知ってるよ」
「でも、香奈は……香奈だけはあたしを必要としてくれる。だって、香奈のためにお金を稼げるのは私だけだから。だから、その代償がある限り香奈はあたしのそばから離れない。ずっと一緒に居られる。そう安心して……香奈に頼り続けて来たの」
「……そんなこと」
「最低だね」
「やめてよ……」
「ごめんね?」
「そんなこと……言うなぁっ……」
麗奈の、哀しい懺悔。
香奈ちゃんは耐えきれず、両目から涙が零れ出す。
「あたし……お姉ちゃん失格だ……!!」
でも、そんなのを見て、香奈ちゃんよりずっと泣き虫で、弱虫な麗奈が耐えられるはずもなかった。
ボロボロと涙をこぼしながら、麗奈は懺悔を続ける。
「本当は、お母さんのことも覚えてた……でも、認めたくなかった。
お母さんだって認めちゃったら、向き合わなきゃいけなくなる。
私がいらない子だから捨てられたんだって、認めなきゃいけなくなるから……っ!!」
「もういい……もういいよ……そんなこと言わなくていい!」
「でも……ね?でも……でも…っ!」
麗奈は、これ以上ないってくらい悲壮な顔で、自分の嘘のない本心をさらけ出す。
「私、やっぱり、苦しかったこと、悲しかったこと、恨んだこと、全部忘れてまた仲良く元どおりなんて……できないよ」
「っぁ…」
アイドルなんて、人と関わることを恐れてしまってからは、苦痛でしかなかったはず。
それなのに頑張ってきたんだ。その全ては……
「でもね……でも、それに香奈が付き合う必要、ないんだよ?」
母親を失くして、寂しがる妹のために。全部押し殺してきたんだ。
少なくとも、俺が麗奈と出会う、前までは。
「何言って……」
「もう、嘘つかなくても、いいんだよ?」
———母親を思い続ける、妹のために。
「あたしに合わせて、お母さんを憎まなくていい」
「違う……」
「あたしのために、お母さんから逃げなくていい」
「違うって言って……!!」
「あたし知ってたんだから!!!!」
麗奈は香奈ちゃんの言葉を遮り、告げる。
麗奈が今まで……いや、香奈ちゃんが吐いてきた、最大の嘘。
「香奈がお母さんのこと大好きなこと……ずっと知ってたんだから!!!!」
「〜〜〜〜っ!!」
歯を食い縛って、泣くのを耐えようとするけど。でも、できない。
暴かれた好きって気持ちに、嘘は、吐けない。
「ひどいよ……ひどいよぉっ…………」
香奈ちゃんは拭っても拭っても止まらない涙で布団を濡らす。
結海さんも、そして貴弘さんも、みんな泣いていた。
「ねぇ、どうして泣いてるの?」
「っ……」
でも、それが何故なのかわからない少年は、そっと、香奈の涙を手で拭う。
「いや、だな…はは、こんな風に…っ」
「痛いの?」
「ううん……痛く……ないよ?」
「泣かないで、お姉ちゃん」
「あ……あっ……はは……ははっ」
その純粋に、ただ純粋に香奈ちゃんを思いやる声に。
姉、と、呼ぶその声に、彼女は苦しそうに笑う。
「5歳になるんです」
すると、真司と言う小さな少年の手を握り、貴弘さんは香奈のそばに寄った。
「僕が、君たちからお母さんを奪ってしまった。こんなに長い間、遠ざけてしまった。
でも、僕はお母さんを……結海さんを愛している。だから、結海さんの愛したものを守りたい。困っているなら、助けてあげたい。
だから香奈ちゃん。僕に、君の手助けをさせてほしい」
「あなたが……そんなことする必要ないですよ…っ!」
「そしていつか病気も治って、借金も返し切って、もしも君たちが結海さんと僕、そして真司を許せる時が来たなら……」
貴弘さんは、強い意志を持った眼で麗奈と香奈ちゃんを見つめる。
「一緒に、暮らしてくれないか?」
その、残酷かもしれない宣言は、どうしてか不思議な暖かさに包まれて居て。
「お姉ちゃん、一緒?」
「そんな……ずるいよ……っ!!」
「香奈……」
「こんなのずるい…っ!!」
香奈ちゃんは、差し出された真司くんの手を除け、母親を睨む。
結海さんは、夫と息子の前に出て、香奈ちゃんの前に立つ。
「ごめんなさい……っ」
「………………」
「ずっと、忘れたことなんかなかった……っ!」
「…………っ!!」
「ごめんなさい。こんなに最低なのに、最悪の母親なのに。
あなたを……あなたたちを、愛している」
その瞬間。
香奈ちゃんはベッドから跳ね起き、結海さんの胸に飛び込んだ。
「ひどい……ひどいよぉ…っ!」
「うん……」
抱きしめ返していいのか、わからなくて、結海さんの両手は空をかく。
「寂しかった……ずっと…ずっと待ってたんだよぉ!!」
「うん…うん!」
「生きているのかもわからなくて、毎日不安だった。
もう、会えないんだと思ったら、涙が止まらなかった!!」
「ぁ…ぅあ……っ!」
「お母さんのこと、ずっと…っ!!」
「ぁあっ………ああああああああああああああ!!!!」
「大好きだったよ…!」
俺はそっと、扉を閉じた。
ここから先は、俺のいる必要はない。
だって、もう、心配いらないから。
俺が見たかったものは、もう見れたから。
ポケットから携帯を取り出し、電話帳を開く。
「…………あ、もしもし、母さん?
いや、なんでもないけどさ。ちょっと話したくなったんだ。いやきもいとか言わなくていいから……」
幸せな時間。
それは、失うまで気づけないのかもしれない。
でも、完全に消える前に気づくことができれば、また、元に戻れるのかもしれない。
一時的なものでも、優しい嘘であっても、それは、美しいものであるはずだから。