第56話 開き直るな
香奈ちゃんを送った後、俺は病院の先生、看護師、会社の社長さんほか先輩からこっぴどくお叱りを受けた。
実際、許されていいことじゃない。香奈ちゃんはいつ容態が変化してもおかしくない身なのだ。勝手にどこかに連れ出してしまうなんて、もしもの時どうするつもりだったのか。
でも、後悔はしていない。俺の、きっと涙で赤く腫らしてしまっている顔を見て、怒鳴り散らしていた会社の人たちは黙ってしまった。
そして肝心な麗奈は…
「香奈が…怒るなって言うから、あんまり言わない。
でも、こんなこと、もうしないで」
樋口は俺の行動を知っていたから、ある程度フォローをしていてくれたのだろう。麗奈は拍子抜けと言ってもいいほど素直だった。
でも、その表情が心労で疲れ切っていることは、誰の目からも明らかだった。
香奈ちゃんと過ごした時間は、これだけの迷惑に釣り合うだけの時間ではあった。が、罪悪感も確かに感じ、胸が、ひどく傷んだ。
こんなの、俺の知っている麗奈じゃない。
もっとわがままで、聞き分けがなくて、暴れん坊で…そんなめちゃくちゃなやつであってほしい。その幻想を信じたい。
甘い考えだとは、自分でもわかる。
麗奈は変わらない。最初からずっと、天真爛漫なふりをしたボロボロの少女だったのだ。
それが今は、少しわかりやすいだけ。
この姉妹の憔悴が目に見えるようになったからようやく気づく、本当の姿なのだ。
そうして、俺は一人家に帰った。
終電はやっぱり人が少なく、まるで自分が世界から置いていかれてしまったような、そんな気がする。おかしいよな、いつも終電で帰っていたのに。
電車を降りると、もう葉をほとんど失った桜並木。
川は街灯に照らされ、ぼんやりと白く光る。
寒い。………寂しい。
今、香奈ちゃんは病室で何を思っているのだろう。
あの、常に窓が開いている部屋で、同じように寒いと思いながら、傍らで眠る麗奈の髪を撫で、優しく微笑んでいるだろうか。
それとも…寂しさで泣いているだろうか。
後者の想像があまりにリアルで、まぶたの裏に鮮明に見えてしまい、俺は耐えられなくなって走る。
体が痛い。疲れているんだ、休ませろと叫ぶ体に鞭を打って走る。
痛みが、どうにか俺を、保ってくれるから。
あれからのことは、あまり覚えていない。
学校はサボると決めたので、俺は雅也が来た時に置いていった酒をガブガブ飲んだ。その後何かしたか、何もしないで寝たのかは知らんが、とにかく朝、ひどい頭痛で目をさます。
こんなに頭が痛いのは麗奈と樋口と初めて会ったあの日以来だ。
コップに水を汲んで、一気に飲み干す。冷たい水道水が食道を伝っていくのを感じながら、再びベッドに身を沈める。
仕事は午後から。だから、今はいい。
少しだけ…もう少しだけ、寝かせてほしいんだ。
と、考えていた俺は二日酔いの恐ろしさを侮っていた。
「………はっ!」
空が赤みを帯びていることに不信感を覚え、一気に目がさめる。
時計の針は3時10分を示しており、それは完全な遅刻を表してもいた。
昨日の今日だ。最悪。いい加減クビにされるんじゃないか、俺。
急いで着替え、家を飛び出す。ああ、朝からなんも食ってないから腹減った…でもそんなこと言ってらんない。
事務所に急ぎ、最寄駅から全力疾走。
…遅刻メールに返信がこないのが怖すぎる。
そして、ようやく風間プロのビルが見えて………
「わっ!」
派手にすっ転んでしまった。は、恥ずかしい…年だからあんまり走るもんじゃなかった…
「大丈夫ですか…?」
「あ、大丈夫です」
後悔しつつ顔を上げる。人に心配されるなんて…
「え…?」
「あなたは…っ!?」
忘れるはずもない。
目の前にいたのは、あの日病院で出会った、麗奈と香奈ちゃんの、母親だったのだから。
「どうして、ここへ…」
「さすがにあれだけ有名人になれば事務所の場所もわかりますから…」
「そうじゃ、ないです」
語調が強くなってしまうのを感じた。
これは俺がいちいち首を突っ込んでいたら、きっとややこしくなってしまう、デリケートな問題だ。だから、冷静に、慎重にならなくてはならない。
そしてここは風間プロダクション本社前。下手したら他の先輩、最悪麗奈との遭遇もあり得る。
だからこそわからない。なぜ、この場所にこの人がいるのか。
いいや、言ってしまえば、どのツラ下げてここに来たのか、と、俺は尋ねたいのだ。
すると、彼女は自虐的に笑った。
「その様子だと、私のこと、私が麗奈と香奈にしたことは、知っているんですね?」
「ええ」
「そうですか…」
「なんの御用ですか?」
だから、事務的に、迅速に、冷静に、ここは俺だけで処理しなければ。
「…麗奈と…話がしたくて…」
しなければ…
「香奈のいる場所では、厳しいかと思って」
「っ!!」
つい、胸ぐらを掴んでしまいそうになった。
この女は、あれだけの仕打ちをしておきながら、あんな風に香奈ちゃんを泣かせておきながら、こんなことを平然と口にするのか?
いい加減にしろ。逆に、殴りかからなかったのは俺の自制心の勝利と言えるまである。
「今日のところは、お引き取りください」
「え…?」
「麗奈は…いいえ、風間プロダクション全体として、あなたと話すことはありません。早急にお引き取りください」
できれば永遠に、目の前に現れないでくれ。
これ以上、麗奈を追い詰めないでやってくれ。これ以上…香奈ちゃんを泣かさないでくれ。
とは、さすがに言えない。
「あなた…名前はなんでしたっけ?」
「…石田伸一です」
「そうですか。私の名前は、沢良木結海。よろしければ、この後お時間いただけませんか?」
やっぱり、香奈ちゃんによく似た曖昧な笑顔を浮かべながら、優子さんはそう言った。
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「私、再婚したんです」
その一言は、しょっぱなから俺の神経を刺激してきた。
ちなみに会社には、帰ってこないメールに重ねて、欠勤のメールを入れておいた。もう、仕事に行きたくない…怖い…
ちなみに帰ってきた美月さんからの返信は立ったの二文字。なんだと思う?
「死ね」
これだよ。さっきは帰ってこなかっただけに、怖さ倍増。
クビじゃなかっただけマシと思うべきか不幸と思うべきか。
ふぅ、少し落ち着いた。会話に戻ろう。
目の前には、我らが山橋姉妹のお母さん、沢良木結海。
場所はお馴染み都内のカフェ。コーヒーを少しすすり、見つめあう俺たち。
「再婚…だから沢良木ですか」
「ええ」
伏し目がちなところはいかにも団地妻感があり、再婚したという事実に実感を持たせる。
「お仕事は何を…?」
「私、今は専業主婦なんです。仕事は家事くらいで」
「じゃあ、香奈ちゃんの手術費は………」
「夫が出してくれると、そう、言ってくれたんです」
「っ…そんなの…」
「わかってます。最低だということくらい。でも、なにもしないで、見て見ぬ振りは…もう、できなかったんです」
「それは、あなたの自己満足でしかない…」
「わかっています」
「なら…どうして今なんですか…?」
でも、その自己満足も、後少し早ければ、香奈ちゃんを救うことができたかもしれないのに。
そうじゃない。香奈ちゃんの幸せは、三人で過ごしたアパートの日々、それで十分だった。
「あなたが…娘二人を、借金漬けにして捨てたっていうのに…っ!!」
「…その通り、です」
「開き…直るな…」
カフェは俺たちのテーブルを中心に重い空気に包まれていく。
でも、やっぱり許せないんだ。
「今の主人と出会ったのは、逃げてから一年が経った後でした。
一人田舎道を歩いていた私を、彼が拾ってくれたんです。
それから色々お世話をしていただいて、初めは便利な男くらいにしか思っていなかった彼ですが、次第に温かみが愛しくなって…でも、自分勝手にもほどがあるって、思ったんです。
だから、全部話して彼と別れることにしました。ですが、彼はそんな私を受け入れてくれた。
最低だと思いつつも、私はまた、楽な方へ逃げてしまったんです。
そんなある日、麗奈がテレビに出ていたのを見つけました。
驚いた。そして、曲を香奈が作っているということも分かった。
麗奈は目立つことが嫌いな子だったから、どうしてそんな仕事をしているのか考えて…すぐ借金返済と、香奈の病気のことが頭に浮かびました。
そんな私のことを見かねた夫は、私に言ったんです。
お金は貸してあげるから、会いに行ってこいって。きっちりケジメをつけてこいって。
そして、香奈の病院をようやく突き止めたのがついこの間、というわけなんです」
「…本当、最低ですね」
「ええ、最低です…」
二人の母親だけあって、確かに綺麗な人だ。下世話なことを言えば、色気もある。きっと、男を使えばどうとでもなる人生なのだろう。
そう思うと、湧き上がるのは憎しみにも似た感情だった。
「お子さんは…いるんですか?」
「…一人、今はまだ幼稚園ですが」
「っ…」
それじゃあ、どうやったって、救われないじゃないか。
お母さん、なんだろう?
香奈ちゃん、あんたのことお母さんって呼んでたんだぞ?そんな…そんな裏切りあるかよ…
「それで…香奈ちゃんを見て、そしてあなたのことを思い出せないくらい傷ついていた麗奈を見て…一体どう思ったんですか?」
「………今でも愛しいと、そう、思いましたよ」
「そんなわけ…っ!!」
俺はとうとう立ち上がり、結海さんを見下ろして…
「……………ひどい…ことをしました…っ!」
「……………………」
「あの日のことを、今でも後悔しているんです…」
「………………」
「許されるなんて思っていない。ましてやまた一緒に暮らしたいなんておこがましいことも言わない。だから…香奈の病気が治ることに、賭けさせて欲しいんです!!」
そこにあった母親の顔に、絶句する。
そんな彼女を見て、俺は………
「あの二人に、もう、会わないでください」
冷たく、そう告げた。