第52話 誰?
偶然だった。
たまたま置き忘れたスマホを取りに戻っただけ。
そこには呆れ顔の香奈ちゃんと、姉妹水入らずを邪魔されて不機嫌な顔をしている麗奈がいるはずで。
だから………
「出て行けええええええっっっっ!!!!!!」
こんな絶叫が聞こえてくるなんて、少しも予想していなくて。
「どうした香奈ちゃ…うわっ!!」
ガシャン、と、大きな音を立て、俺の足元で花瓶が割れた。
香奈ちゃんが投げつけたのだ。一瞬俺が何かしてしまったのかと思ったが、香奈ちゃんの視線は一点…俺の目の前に立つ中年の女性に注がれていた。
その形相は今まで見たどんなものよりも強い怒りが…いや、もはや憎しみさえ篭っているように見えた。
「香奈、私は…」
「何しに来た…」
「っ…」
「何しに来たんだって聞いているんだ!!」
香奈ちゃんは立ち上がり、女性に掴みかかる。
だが、その足元はおぼつかず、足はガクガクと震えている。とにかく止めなくては。
「離せ!」
「ダメだよ香奈ちゃん…どうしたんだ、こんなこと!この人が一体何をしたって言うんだ!?
それにそんなに動いたら…」
悔しそうに俺を睨む香奈ちゃん。この短時間に一体何があったんだ。
でも、ベッドに戻そうと抱きかかえようとして、その手を止める。
「…っ!?」
彼女の目に、今までただの一度も見たことのなかった涙がいっぱいに溜まっていたからだ。
震える、脆い体で、怒りを体現している。
ここまで香奈ちゃんが感情をあらわにするような、中年の女性。
まさか、そんなわけないと思いながら、心のどこかで確信していた。
「いいんです。私はそういう態度を取られても、文句を言う資格なんてないですから」
「………黙れ…なに、反省してるみたいな顔しているんだ。
何か…悲劇のヒロインにでもなったと思っているのか!?時間が経ったから、許されるとでも思っているのか!?」
「……………」
そう、この人が。
「母親に戻れるとでも、思っているのか!!?」
———この二人の、母親なんだってことを。
「んあ…」
「!!?」
そして、今までベッドに寄りかかり眠っていた麗奈が、ゆっくりと起き上がる。
「うるさいなぁ…なんなのよもう…」
何も知らない。いますぐ彼女を…二人の母親をどこかに隠さないと。
そう、思ったけど、体は丸で鉛になってしまったかのように動かない。香奈ちゃんが何か訴えかけている。でも、何を言っているかがわからない。
でも、どうしてかはなんとなくわかる。これはきっと、運命。
この母子は、再会しなくてはならないという、運命なのだ。
「…伸一、香奈になに触ってるのよ」
「…麗奈?」
覚悟、したのに。
麗奈から返される言葉は、あまりに自然で。
「お、お姉ちゃん…?」
「何よ香奈。ってか、寝ちゃったのわかってるなら起こしてよね」
「いや、そうじゃなくて…この人」
「ああ、こんにちは…香奈の知り合いの方…?」
「ちょ、何言ってるんだよお姉ちゃんっ」
香奈ちゃんは俺に降ろせと命令し、姉のそばに駆け寄る。
嫌な予感が、ピリピリと病室を埋め尽くしていく。
「なぁ、ふざけていられる場合じゃないんだ!わかるだろ?この女は…」
麗奈は不思議そうな顔をして、もう一度じっくりと母親を眺めた。
「ごめん香奈、やっぱりあたし、この人知らないや」
実の母親を、知らない人間と言って捨てたのだ。
それも、なんの罪悪感もない顔で、優しげな、それでいて少し申し訳なさそうな笑顔を湛えて。
「そんな…馬鹿な………お母さんだよ!私たちを捨てて消えた、母親だ!忘れられるはずないだろ!!?」
香奈ちゃんは最初思い出して欲しくなかったということを忘れてしまったのか、姉を揺すって訴えかける。
けれど、返されるのは曖昧な笑みのみ。口から出る言葉は………
「何言ってるの香奈。お母さんは、もう、死んじゃったじゃない」
空気が凍てつくのを、肌で感じた。
麗奈は、母親のことを、完全に、忘却していたのだ。
「今日は、もう帰るわ」
「また、来るのか?」
「……………」
「まだ、私たちを、傷つけたりないっていうのかぁ…?」
「っ…手紙、置いておくから…よかったら、読んで」
そうして、部屋を出て行く。
その表情はとても深い悲しみに包まれていて、見つめていると、吐き気がしそうだった。
「香奈ちゃん…」
「伸一くんも…ごめん、今日は帰ってくれるかな?」
「………わかった」
スマホを受け取ると、おとなしく病室を出た。
きっと今は、整理する時間が必要なのだ。香奈ちゃんにとっても、そして…あの母親に取っても。
外の空気がやけに寒く感じたのは、きっと、季節のせいだけではないと思う。
蒸発した母親が今になって帰ってきた。
今は忘却によってなんとか平静を保っているが、それもいつ崩れるか分からないもの。
ただただ、麗奈のことが心配だった。
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「あれ、どうしたんだ石田」
「蓮見先輩?あれ、他の二人は?」
「今来客があったらしくてさ、二人はその応対。俺は一人寂しく作業中だ」
「そう…ですか」
いつも三人でいる先輩たちにしては珍しい。
「んで、どうしたんだ?終電だってあるんだから、あんまりここに入り浸ってるとやばいぞ?」
「ちょっと…いろいろありまして」
「…そうか。今日も麗奈ちゃんのとこ行ったんだよな?」
「はい」
蓮見先輩は、金髪で目つき悪くてチンピラみたいな人だけど基本的にはいい人だ。
コーヒーを淹れると、俺に差し出してくれた。
「ちょっと休憩だ。ま、お前と二人っきりっていうのもあんまりないしな」
「え…もしかして博多先輩枠ですか?」
「…お前、そのコーヒー返せ」
「すみません冗談ですよ」
こういう小突き合いができるのも、比較的歳が近いからだろう。
「…香奈ちゃんの病気、知らなかったよ」
「……………」
「何回も会っていたのに、気づかなかった。お前と美香ちゃんは知ってたんだって?」
「ええ、まぁ」
「そうか…いや、別に嫉妬とかしてねぇから」
「言ってませんよ」
「麗奈ちゃん、最近調子悪くて、でもやっといい感じに戻る…いや、さらに進化できると思ったんだけどなぁ。ままならねぇな、世の中」
「…そうですね」
「そんで、麗奈ちゃんの様子はどうだったんだ?」
「えっと…いつも通り、でした」
あのことについて話すべきか、俺は悩んだ。
香奈ちゃんの病気のことはもうみんな知っていると思うが、母親のこと、その出生についてはまだ知らないはず。
これを話していいものか、俺にはわからなかった。
「今日、何かあったんだろ?」
「っ…」
「なぁ、お前まだ俺たちに隠してることあるだろ?」
「〜っ」
社長さんにも止められてるし…
「聞かせてくれ!俺だって、麗奈ちゃんの力になりたいんだ」
「だあああああ〜〜〜〜!もう、内緒ですよ」
「よし、言質はとったぞ!出てきていいっすよ!」
「…え?」
蓮見先輩が呼びかけると、机の下からのそのそと先輩二人が出てきた。
「話は聞いていたぞ石田。お前、太郎と浮気していたんだな!?」
「壮絶に誤解だし別にあんたの恋人になった覚えはねぇよ!」
「私にも聞かせなさいよ!もうわけわからないまま会社がおかしくなっていくのは嫌なの!」
「…そう…ですよね」
この人たちは、俺よりはるかに先輩で、大人で、いい人なんだ。
「麗奈と香奈ちゃんは昔………」
根負けした俺は、麗奈の家庭事情と、彼女の母親が現れたことを話してしまった。
さすがに先輩たちがネットに情報を流したりするようなことはないと思ったから、っていうのを言い訳にしておく。それに、こんなに麗奈を心配してくれる人たちを無下にすることなんてできなかったのだ。
そして、話し終えてから皆黙ってしまった。
重すぎたか?それで、逆に麗奈から距離を置いてしまったりしないだろうか。
と、俺が内心焦りだした時だった。
「…ねぇ、伸ちゃん」
「…はい?」
「そのお母さんの連絡先、わかる?」
「いえ…また病室にくるようでしたが…」
美月さんは立ち上がり。
「あんたたち!今すぐその母親ブッチめに行くわよ!!」
「「おおおおおお!!!!」」
「え、ええええ…」
俺の焦りは、完全に逆方向に的外れになってしまった。
「住所特定なんて今の時代簡単にできるわ!ネットの海でT◯itter、Fac◯book、鬼◯板なんでも使って絶対にぶちのめしてやる!」
「ちょちょちょ待って美月さん!先輩方も!」
やばいこの人たち、目がマジだ。
このままじゃ何やらかすかわかったもんじゃない。
そこへ扉を開ける音。社長さんと樋口が事務所にやってきたのだ。
「社長さん!樋口!助けてください!」
「…な、なんですかこれ………」
「はぁ…なんで俺の会社は変なのばっかりなんだ…」
そうして、やがて面倒になった社長さんの檄が飛ぶまで、この混乱は続いたのだった。