第46話 助けて
ピンポーン
鳴らされるインターホンが、部屋に響く。
ああ、もう朝か…ギターの練習していたら眠っていたらしい。
ゆっくりと起き上がり、カーテンを開ける。よく晴れていて、秋らしく少し乾燥しているようだった。
しかし…まだ朝6時。こんな時間から来るなんていう非常識さはともかく、今回はインターホンがおとなしいな。
今日…10月12日は、俺たち歌唱研究部が練習を重ねてきた成果の場であり、そして、俺たち風間プロの元仲間、樋口美香がアメリカに行ってしまう日でもある。
もしかして、今、最後の別れに来たとか…?
それならば…
「早く開けなさいよ!」
がんっ!!と、しびれを切らした我らが姫の怒りの蹴りが扉に叩きつけられた。
やめろ…扉に罪はない。
「何よ…今日はおとなしくしていたのにちっとも開ける気配がないんだから」
「そういうところを気にする余裕があるならもう少し来る時間にも気を使って欲しいものだな」
「何か皮肉を言わないと会話すら始められないなんて…伸一。君、いささか狭量よ?」
お前にそれを言われるとは思っていなかったよ…
「それより、何しに来たんだよ」
「いや、その…」
実は内心こいつが何らかの要因で樋口の渡米を知ってしまったんじゃないかとビクビクしていたが、どうやらその心配はなかったらしい。
「緊張してる?」
「………全然?」
「はぁ…ま、入れよ」
「お邪魔します…」
俺たちの出番は午後4時から。
それなのに麗奈が俺の家に来たのは、緊張で目がさめてしまったとかそういう理由なのだろう。
ま、俺ももう寝れる気はしないし、話し相手がいるのもいいもんだ。
「コーヒー飲むだろ?」
「うん…」
コーヒーを淹れつつ、朝食の用意もする。
どうせ麗奈のことだ。まだ食べていないだろうしな。
「いらないよ…あたしの分は」
と思った俺の予想は違ったらしい。
「何だよ、食ってたのか」
「ううん…なんか、食欲ない」
「おいおいそんなんでどうすんだよ」
俺はやめかけた二個目の卵を割ることにした。
二つの目玉が俺を見つめてくる。半熟とろとろにして、ご飯の上に乗っけてから醤油をかけると、これが旨いのだ。
その香ばしい匂いを見れば、自然食欲もわいてくるだろうしな。
「え、なにこれ…まだ普通の卵掛けご飯の方がマシなんですけど…」
「お前…」
ことごとく俺の好意を無下にしていくな…わざとなのか?
でも、いらないって言ってるのに…とか見た目が悪い…とか言いつつちゃんと箸を持って食べようとしている中途半端さが、彼女の甘さで、美点でもある。
「美香…くるかな?」
「ぶっ!!」
でもこういう不意打ちは良くないと思います!
麗奈は汚いなぁ、と、文句を言いながら俺のこぼしたご飯粒を拭いてくれている。
「な、何でそんなこと…」
「だって…ちゃんと聞いて欲しいから。
あれからいろいろ考えたんだけど、いつまでも美香のこと引きずってちゃダメだと思う。
それはあたしや、あたしの周りの人に迷惑がかかるからとかもそうだけど、何より美香が責任感じちゃうじゃない。
ちゃんとあの子がいなくても頑張れるってとこ見せて、安心させてあげなきゃダメじゃない。
だから、どうしても今日来てほしい。そう思ったから、ここに来たの」
「そっか…」
麗奈は、こんなにもちゃんと考えていたのか。
自分だってものすごく忙しくて、大変なのに、美香のことを考えてあげられる。
本当に優しい子だ。優しすぎて、俺には眩し過ぎるくらいに。
…って待てよ。今なんて言った?
そう思ったから、ここに来たの…?
「と言うわけで、あたし、今から美香の家に行ってくる!」
「ちょ!ちょちょちょ待てよ!!」
「なにキ◯タクみたいな止め方して。動揺してるの?」
「し、してないけど!こんな早くに行ったら迷惑じゃないか!?」
「ん?でもいつも美香は6時には起きてたし、ご飯も食べてちょうどいい時間になったじゃない」
「そうだけど…そうじゃない!ダメ!とにかくダメなの!!」
必死だった。ここで二人が会話するなんて事態は、それこそ最悪と呼べる。
何のために俺が痛む胸を抑えて黙ってきたのか、わからなくなるじゃないか。
「…ねぇ、伸一」
「情に訴えかけようとしたってダメだぞ?」
「あ、美香が窓から覗いてる」
「何だって!?」
「隙ありっ!」
「しまった!!」
注意を窓に向けた瞬間、俺の手を振り切って玄関から出てしまった。
「あんの馬鹿が…っ!」
自分のマヌケっぷりに苛立ちを覚えつつ急いで麗奈のあとを追いかける。
が、もう遅かった。すでに麗奈はインターホンに手をかけて…
「留守みたい」
思いっきり階段から転げ落ちて、もう一度骨折するんじゃないかと焦ったが、大丈夫だった。
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「よっ!早いな」
「みんなが準備してるのに俺たちだけ寝てるってわけにもいかないだろ」
「はい雅也くん、差し入れ」
「うおおお麗奈ちゃんから差し入れが届いたぞおおお!!!!」
「「「「「うおおおおおおおおおおお!!!!」」」」」
歌唱研究部(特に男衆)が大いに沸き立つ。
あれから特にやることもなく、支度を済ませ大学に向かった。
麗奈は美香に会えず不安そうだったが、俺からメールを送ると言って何とか納得させた。
だって、ここで麗奈が樋口にライブに来い、何て言ってしまったらきっと樋口は辛い思いをしてしまう。
これが最善。そうだろ、なぁ?
「ちょっと石田!なにぼやっとしてんのよ!さっさと準備しなさい!」
「お、おう」
今井の檄が飛ぶ。
時刻は午前9時。音楽室で練習できるのは後2時間ほどしかない。
もう、余計なことは考えていられないんだ。
それから、順調に最終調整を済ませ、2時間が過ぎた。
「そろそろ声の調子もあるから最後にするわ。じゃ、みんなこれが本番だと思ってやるように!」
「「「「「おお!!」」」」」
しかし、この中でも最年少の今井が場を仕切るというのはどうなんだろう。
部長もすっかり調教されてしまったらしい。
「じゃ、始めるわよ!」
今井の掛け声でイントロが流れ出す。
この曲において、ギターの出番はそれなりに多い。それだけに、ミスが許されないパートでもある。
集中しつつイントロを終え、ついに二人の歌が始まる。
かっこよくダンスを踊る二人。
うん、いい感じだ。これなら大盛り上がりは間違いない。
そして曲は次々と展開していき、最後のサビへ。
今井は何だか息切れが激しいように見えた。今まで歌のプロとして、ずっとみんなのクオリティを上げるために指導を続けてきたんだ。疲れもたまっているはず。
グラリと、彼女の体が揺れたのは、その時だった。
「ののちゃん!」
雅也がベースを放り出して今井のもとに走る。
何とか頭から倒れるのは防げたらしい。
「大丈夫か!?」
みんなも演奏を中止して今井のもとに駆け寄る。
「………はぁ、疲れちゃったのかな?」
「今井…ちょっと休めよ」
「うん…ありがと石田…」
「なんか俺が助けたのに伸一の株が上がっているような気がするのは気のせいだろうか…」
貧血だろうか。なら、すこし休めば回復するはず。
「っ…!!」
と、安心した俺は、再び世界に裏切られることになる。
今井は足を抑えて、うずくまってしまった。
「ま、まさか…」
「ののちゃん、ちょっと足見せて」
雅也が今井の手をどけて、抑えられた足首を見る。
「捻挫してる…これじゃ、今日は無理だ…」
「なっ…!?」
それはつまり、今井が出れないってことか?
それじゃあ、今日のライブは…
全員の視線が麗奈に集まる。
目を閉じていた麗奈は、小さく口を動かし、笑って見せた。
「大丈夫。ののが出られなくても、あたしが何とかするから!」
「でもダンスのバランスとかは…」
「そこはアドリブで何とかする!大丈夫なの!」
あの麗奈が、不安げになる部員を励ましている。
本来なら、この成長を素直い喜ぶべきなんだと思う。でも、俺にはわかってしまったから。
小声で、「大丈夫、怖くない」って、言っているのを。
彼女が、どうしてここまで頑張るのか、俺はわかっているから、辛い。
「ここであたしが頑張らなきゃ、来てくれる美香に…申し訳ないじゃない!」
その通り。だから、ここは麗奈に託すしか…
「麗奈…もしかして、知らないの?」
「っ!?」
しまった。忘れていた。パニックになっていた。
今井は、樋口の親友なんだぞ?あいつの渡米くらい、知ってて当然じゃないか。
そして、今日がその日だってことも。だからあいつが学祭に来れるはずがないことくらい、知っていて当然なのに。
「石田…あんた、隠したの?」
「……………」
「え、ちょっと…二人ともなにを話しているの?」
どうする。どうすればいい?
麗奈は確実に怪しんでいる。正直に話すべきか?それをして、果たして麗奈はしっかりとステージに立てるのか?
損得で考えれば、俺のやるべきことは、一つしかない。ここで考えるべきはどうやって麗奈をごまかすか。それだけで…
「いっ…石田!」
「蓮見先輩?博多先輩も…どうしてここに?」
そこに、現れた先輩二人。美月さんはいないらしい。
だが、ちょうどいいタイミングだ。最大限利用して、みんなの気をそらさないと…
「美香ちゃん…飛行機の時間早まったって!」
「今から急いで行かないと間に合わないぞ!」
「っ!!」
くそ、どうしてこうなる…俺がなにしたっていうんだよ神様…
「飛行機って…どういうこと?」
そうして、最悪の事態はやってきた。
今、どうして先輩たちがこんなことを言いに来たのかとか、そういうことはもう気にしていられる場合じゃない。
「麗奈…ごめん」
「ごめんってなにが…あたしなんにもわからない…」
「まず樋口がなんで父親の元に帰ったか…なんだけどな。
あいつは父親に帰らないと俺たち風間プロダクションに攻撃するって脅しをかけたんだ。
その一端がこの前の“花火”だ。鉄骨が落ちてくるなんて普通じゃない。実行犯は本人じゃないから命の危険があるようなことまでする気だったのかはわからないが、これから芸能界で山橋レナが生きて行く大きな障害になることは間違いなかった。
だから、樋口は自分を犠牲にして、父親の元に帰ることにしたんだ」
「そ…そんな……そんなのって…」
「そうだよな。あんまりだよな。だから俺は行くなって…言ったんだ。
でも、あいつは覚悟を決めてしまっていた。もうどうしようもなかったんだ…」
だから俺は二度も、あいつを止め損ねた。
去って行く後ろ姿を、二度も見せられた。
「そして今日、あいつは父親と一緒に歌の勉強のためアメリカに行く」
「アメリカ…?」
「そう。でも場所までは教えてくれなかった。
行ったら、もうどこにいるのか調べることもできない」
「何で…」
麗奈は、震えながら俺に近寄ってきた。
拳は硬く握られている、きっと、殴られるだろう。
ああ、この一発は、ライブの後に食らう予定だったのに。
俺は目を閉じて…
「ひどい…ひどいよぉ…っ!!」
「っ…」
なにも、されなかった。
麗奈は崩れ落ち、さめざめと泣くだけ。
それが、何よりも鋭い刃となって俺に突き刺さっていると、わかっているのだろうか。
いいや、きっと分かっていない。この子は、そういう子なんだ。
「あたしの…ためなの?」
「それは…」
「あたしがこうなるって…わかってたから…?」
「違う…」
違わない。
「でも…こんなの…こんな別れって…ないよ…」
その通り。最悪だ。
ライブも、場の空気も、麗奈の心も、何もかもズタズタにして、俺はなにを得たっていうんだよ。
「この歌の歌詞、樋口が書いたんだ」
「石田…」
今井が小さく俺の名を呼ぶ。それは一体どんな思いを込めて言った言葉なのか、俺には読めない。
「この曲は、お前への別れだって言ってた。
自分なりのけじめだって。だから…だからさ、せめて…せめて、歌ってやって欲しいんだ」
そんなごみみたいな俺でも、最後にこれだけは叶えさせて欲しい。
そう願うのは、悪いことなのだろうか。
「美香…美香ぁ…っ!!」
麗奈の泣き声が音楽室にこだまする。こんな用途じゃないだろうに…申し訳ない。
「…じゃないの」
「え?」
「バッカじゃないの!!!?」
「ぐあっ!!」
急に立ち上がって俺の胸ぐらに掴みかかってくる今井。その怒号は泣き声をかき消すように音楽室中へ響き渡る。
お前、足はいいのかよとか、貧血はとか、とてもじゃないけど言えない。
「あの子が…美香がどんな思いでこの歌を書いたと思ってるの!?
お別れの歌!?ちゃんと歌詞読んでたの!?」
「読んださ…だからなんだよ」
「呆れた!石田がこの歌詞の意味を理解して、それでも美香のことほっとくなら仕方ないって思ってけどこんなにバカだとは思わなかった!」
「人のことをバカバカって…じゃあお前にはどう読めるっていうんだ!?」
「そんなの決まってるでしょ!?帰りたい、戻りたい…楽しかった時間に戻りたい!助けて!っていう、必死な叫び以外、なにに聞こえるっていうのよ!?」
「っ!!」
そんなの、痛々しい妄想だ。
受け取った側の理想でしかない。
でも…
「———遅刻じゃないですか」
それでも俺は…
「———一緒に仕事、してみませんか?」
その妄想を信じたくて、仕方なかったんじゃないのか?
「———ありがとうございました」
それが違うって言われるのが、怖かった。
「———夢じゃ…ない?」
あの時みたいに、勘違いだって言われるのが、怖かった。
「———さよなら………」
間違えるのが、怖くて…
「———先輩っ!」
「〜〜〜〜〜〜っ!!!!」
じゃあ、正解って、何なんだよ…
もう、どうしたらいいか…
「同じように間違えるなら、一緒に間違えよう…」
その時、麗奈はぽつりと呟いた、いつかの言葉。
どんなことになっても味方でいるって言った日の、言葉。
「伸一…お願い…っ」
ひどい仕打ちをした俺に。
全然味方になってあげられなかったこの俺に。
それでも、彼女は言うのだ。
「“私”を助けて…っ!!」
「石田…」
「石田…」
「伸一…」
「石田っ!」
みんなの声が聞こえる。
本当、分不相応だ、でも…そうだよな。約束…したもんな。
「麗奈!走れ!!今すぐ電車に乗ればまだ間に合うかも…」
「石田!12時48分の飛行機よ!」
「あと1時間くらいかっ!」
麗奈の手を引いて全力疾走する。
くそ…足がいてぇ…
校舎を出る。駅まで頑張っても10分くらい…急がないと。
「待たせたわね!!」
「…え?」
と、すごい勢いでドリフトしながら校門前に突っ込んできた一台のボックスカー。
そこから顔を出した人物は、あの馴染みのある人物で。
「美月さんっ!」
「さ!早く乗って!もう時間はないんだから!」
本当、すごい根回しだ、いったい誰がやったんだか。
俺たちは急ぎ車の元へ駆ける。
「待て」
しかし、神様はそう簡単には俺たちを進ませてはくれないらしい。
「社長さん…」
まるで仁王像の車との間にように立ちはだかる社長さんは、高らかに叫んだ。
「ここを通りたかったら、俺を倒してから行け!!」
「あんたそれが言いたかっただけだろ!!!!」
俺たちの本当の戦いが、始まる。