第44話 もう一度
「はぁ…はぁっ…」
「どうした…もう、限界か…?」
「そんな…先輩こそもう、イっちゃいそうなんじゃないですか…はぁっ…!」
「なに、まだまだ現役だ!ぜぇ…ぜぇ…そりゃあっ!!」
「しつこいっ…!はぁあんっ!!」
足が、という言葉を抜いただけなのになぜかいかがわしく聞こえる会話をしながら、俺と樋口は夜の住宅街を駆ける。
今井の家がある場所だけあって、高級住宅街という感じだ。そんな中で下ネ…健全な追いかけっこをするなんて何て非常識なんだ…あ、俺か。
「ぜぇ…ぜぇ…もう、無理…っ!」
「お、おい…っ!!」
ふらついて倒れそうになる樋口を駆け寄って支える。
半姫抱っこみたいになってしまった。は、恥ずかしい…
「お、重い…」
「なっ…何てこと言うんです!?」
顔を真っ赤にして怒る樋口さん。あ、おい暴れるなよ!
お前を追いかけてから、5分は全力で走らされたんだぞ…?さすがにいろいろときついのだ。
それに…この前も思ったけど意外と運動できるのな。
俺は樋口をゆっくりと立たせ、向き合う。
「…どうして?」
「何が?」
「どうして、私を追いかけたんです?もう風間プロダクションでもない。それにこんな風に会ってしまったら…」
何のために、私は先輩の前から立ち去ったのか、わからないじゃないですか。
言葉にはしなかったが、伝わった。
「あの歌詞、お前が書いたのか?」
「っ…!のの…」
「いや、今井は何も話してない。何となく思ったから聞いただけだ。
とは言っても、もう答えは自白したようなものだけど」
「…ずるいですね、先輩は」
こんなやりとりが、ひどく懐かしい。
互いを茶化しあって、でも何だか笑えてきてしまうような、安らかな時間。
そこに麗奈がいると、ギャーギャー俺と喧嘩を始めて、それを微笑みながら樋口が眺めて。
「なぁ、樋口」
さらに香奈ちゃん、美月さん、博多先輩、蓮見先輩、社長さんまでもが加わると、もう騒がしくて嫌になるほどで。
「もう一度、もう一度…さ」
でも、そんな時間が、どうしようもなく好きで。
きっと、樋口だって同じ気持ちのはずで。
だから俺は………
「戻り…」
「ののが言ったんです。お別れしろって」
「………え?」
戻りたかった。
あの日に。香奈ちゃんの誕生日パーティーをしたあの夜に、戻りたかったんだ。
「どういう、意味だよ…」
「私、結局何か麗奈さんに何も返せなかった。そして、最後に謝ることもできずに中途半端。
だから…自己満足でもいい。何か私の中でけじめがつけられるように、ののがチャンスをくれたんです。
それが、あの歌詞。烏滸がましいにもほどがあるっていうのは言われなくてもわかる。けど、こういう形じゃないと、きっとお別れを言えないと思うから」
「違う…それは、違う…っ!」
「何が、違うんです?」
でも、俺のそんな淡い期待は当然のごとく裏切られる。
歌詞を樋口が作ったってことは、まだ未練があるんだと思いたかった。本当はまだ一緒にやっていこうっていう気があるんだと、まだ、可能性はあるんだと、そう思っていた。
でも、彼女はあの歌をお別れでしかないと言う。
敬愛してきた大好きなマネジメント対象とのけじめだと、そう言うのだ。
ならば、もう、俺にできることはない。
ここでおとなしく引き下がり、麗奈が完全に立ち直れるように支えていく。それが正しい選択。
諦めることが、何よりも必要なのだ。
「もう…本当に。本当に戻れないのか?」
「っ…!!」
なのに、何で言っちゃうんだよ、俺の馬鹿野郎。
「何もかも捨てていい!また麗奈と一緒に…風間プロのみんなと一緒に、やっていくってことは、もう無理なのかよ!!」
「先輩…っ!!」
ダメなのに…こんなの、困らせるだけなのに、一度こぼれだした本音は止められない。
「楽しかった…仕事が忙しくて辛くて寝れなくても、あの毎日が好きなんだ!」
「先輩!!!!」
でも、そんなみっともない俺の叫びは、結局。
「私、来週引っ越すんです。
お父さんとお母さんと、そして兄と、また一緒に暮らすんです」
「それでも…っ!!」
「アメリカへ、行くんです」
「………は?」
絶対に破ることのできない壁に阻まれるのだ。
唖然とする俺に、樋口はうつむきながら早口で言う。
「父は…本当にどうしてか私の才能を買っているらしくて、海外で有名な歌の先生の元に行かせるらしいです。両親、そして兄も一緒に渡米します」
「そんなの…」
「ええ、おかしな話です。でも、どうしようもない現実なんです」
「お前は…嫌じゃないのかよ?」
「嫌とか、そういう問題じゃないんですよこれは…」
「だってアメリカだぞ!?海外なんだぞ!?」
平坦なトーンで話す彼女に、俺はつい声を荒らげてしまう。
今だって…たった一つの天井と床を挟んだだけの距離ですら、遠くて仕方ないというのに。
「何かあっても俺も今井も麗奈だって、誰も助けに行けない!
まだ送別会だってやってない!来年花火も…見れな………!?」
みっともない、悲痛な叫びをぶつけたはずだった。
でも…顔を上げた樋口は、笑顔だった。
「旅立ちは二週間後の月曜日」
「月曜日…二週間後…それって…っ!」
「そうです。先輩たちの、学祭の日」
偶然にしてはできすぎだろ。
じゃあ、樋口は自分の作った歌を歌う麗奈の姿も見れないということじゃないか。
そんなの…そんなのって、ないだろ。
「でも、この日は自分で決めたんです」
「なっ…!?」
でも、これも違った。
親から何か言われたわけではなく、自分の意思で学祭の日を選んだだと?意味がわからない。
すると、樋口は自嘲げに笑い、小さく呟く。
「この日じゃないと…そのライブを見たら私、麗奈さんを嫌いになってしまうかもしれないから」
「え…?」
「いいえ…今のはなんでもありません。忘れてください」
嫌いになるって…どういうことだよ。ホントわけわかんないよ、お前。
「それより先輩。学祭、頑張って下さい」
「学祭…?」
「歌唱研究部で出るんでしょう?なら、先輩も何かしなきゃじゃないですか!」
話を急に切り替え、現れたのは明るく、楽しそうに、俺を励ましてくれる。
その姿はいつもの…風間プロで半年間見てきた、樋口美香のようで。
どうしてだろう。その懐かしさが、ひどく辛い。
まるで永遠の別れを告げられているような、そんな気分になった。
「私はもうアメリカに行ってるけど…でも、ずっと麗奈さんと…そして先輩の活躍、ニュースで見てますから!だから…だから…」
「樋口ぃ…」
「また、いつか」
そう言い残し、樋口は去って行ってしまう。
もう、足は大丈夫なはずなのに。
”あの時”とは、違うのに。
俺は彼女を追うことが、できなかった。
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あれから二週間ほど経って、ついに時は来た。
すでに10月上旬、もう半袖が厳しい季節。でも、そんな寒さを気にするものなど、この瞬間この場所には、きっと一人もいない。
MCのお姉さんが元気いっぱいに叫ぶ。
「冬海祭、始まります!!!!」
俺たちは何も問題を解決できないまま、学祭は始まってしまったのだった。