第26話 答え
「暑く…ないのか?」
「エアコンは苦手だし、それに病院の匂いも嫌いなんだ。
いいだろう?季節を感じれるし。特に、私のような人間にとってはね」
蒸し暑いその一室で、少し汗が滲む茶髪の少女と、俺は向かい合っていた。
山橋香奈。彼女は、我らが事務所お抱えのアイドル、山橋レナの妹であり音楽プロデューサーでもあり、ただの女子中学生でもある。
「お見舞いに来てくれて嬉しいのだけどね、お兄ちゃん。一体なんの用なのかな?
そろそろお姉ちゃんが来る時間なんだけれど…」
「あいつは来ないよ。少なくとも、あと数時間は」
「…?」
怪訝そうな顔。その瞳は、俺を見透かす様な不気味さを孕んでおり、少し気圧される。
「これから、俺は山橋に会う」
「…へぇ。それはどういう風の吹き回しかな?一週間前の様子だと、とてもその様に行動してくれるとは思えなかったんだけどなぁ。
もしかして…お姉ちゃんに私のくだらない誕生日会を優先させる、なんてことは言わないよね?」
「ああ、言わない」
「…およ?」
自分で言ったのに、随分と意外そうな顔だ。
「君は、私に反抗してくるものと思っていたよ」
「ああ。まぁ、いろいろ考えたんだけどさ。でも、これが最善かなって。
君にとっても、山橋レナにとっても、さ」
それから香奈ちゃんは、少し考える様に手を額に当てた。
「………ああ、よくわかったね、と言いたいところだけど…いいのかい?」
「何が?」
彼女は傍にある、ぬるそうなペットボトル水を飲んで一息。
さっきまでのどこかおちゃらけた雰囲気をなくして、真剣に俺の顔を見た。
「決めたんだね」
「ああ、決めた」
「それが、たとえ正解じゃなくても、それを貫き通す覚悟はあるかい?
お姉ちゃんを…山橋レナを、制御して見せられるかい?」
「まぁやれるだけ、な」
俺は、少し笑って、香奈ちゃんに近づいた。
「ありがとう。…安心したよ」
香奈ちゃんは、俺の手を取って俯いた。
その表情はうかがえないが、きっと、泣いてはいないのだろうな。
「……………さい」
「いいよ。香奈ちゃんは、俺に任せてれば、それでいい」
そう、仕方ないんだ、これは。こうするしか、山橋が頑張れる方法がないんだから。
あいつは、自立しなきゃいけない。
香奈ちゃんがいなくても、生きていける様にならなくてはいけない。
たとえ、辛い過去があったとしても、山橋のことを好きでいてくれるファンのために、そして何より自分のために、彼女は歌わなければならないのだ。
だから、今は香奈ちゃんに囚われているべきじゃない。あいつは、ただ自分のことを考えるべきなのだ。
「じゃあ、俺は行くよ」
「うん、お願い。お兄ちゃん」
香奈ちゃんは俺の手を離し、送り出した。
さぁ、ここからが本番だ。山橋を、どう説得すればいいのか。そう考えながら、扉をカラカラと開ける。
俺は、その時考え事に夢中で、曇りガラスの向こうに人影がいることに、全く気づかなかったんだ。
………油断、してたんだ。
「……………どういうことよ、今の」
「山…橋………?」
意味が、わからなかった。
何が起こってる?だってここは病院で、山橋は樋口と一緒にカフェで待っているはずで。
だから、こんなことはおかしいはずで…
「どういうことって聞いてるでしょ!?」
「っ…!!」
だが、そんなことは今どうでもいい。大事なのは今、まさにこの状況なのだから。
「なんで?なんであんたがこんなとこにいるの!?
香奈も、さっきまでの話は何!?あたしの知らないところで、あんたたち一体何やってたのよ!?」
「お、落ち着け山橋。ここ病院だぞ?」
「んなこと知らないわよ!」
俺の必死な言葉も、山橋には全く届かない。いや、実際俺自身が動揺しきっていたのだ。
「ねぇ香奈!あたしはそんなに、香奈と一緒にいちゃいけないわけ?なんで毎年やってるお祭りと、香奈の誕生日を一緒に考えなきゃいけないの!?おかしいじゃない!」
「おい、だから落ち着けって…」
「あんたは部外者だろうがっ!!」
肩に置いた俺の手を払い、思いっきり平手を打たれた。
「あ…こ、これは私の問題なんだから!!あんたは引っ込んでればいいのよ!!!!」
「…ってぇな…そんなに興奮するなって…」
痛みに逆上してる暇はない。どうにか彼女を落ち着かせないと、そろそろ看護師さんが来てしまう。
「離せっっ!!」
「く…どこにこんな力あんだよ…っ!!」
さらに殴ってこようとする山橋の両手を押さえつける。
その時…
「もういいよ、お兄ちゃん」
「…え?」
俺のそばに、いつの間にか小さな少女が…
バシン!!!!
鈍い、音だった。
俺がもらった、弾ける様な音ではなく、痛そうで、ひどく沈痛な音。
「香…奈…?」
信じられないものを見る様に、山橋は香奈ちゃんを見る。
その両脚は震え、地面にへたり込んでしまった。
「なんで…?」
「なんで…だと?」
その反応から、香奈ちゃんは初めて、姉に暴力を振るったのだと、わかった。
「お姉ちゃんが…お姉ちゃんがいつまでもそんなんだから…っっ!!
そんなんだから!!私は進めないんじゃないか!!!?」
そのまま勢いよく姉の胸倉を掴み、揺する。
その、初めて聞く香奈ちゃんの叫びが、何よりも鋭く、山橋の心に刺さっていくのがわかった。
「あたしは…香奈と…」
「私は一度も、そうしてくれだなんて頼まなかったじゃないか!?
私はなぁ、お姉ちゃんの歌を聴くのが好きだったんだ!!もどかしかったよ、お姉ちゃんは本当はもっとすごいのに、どうしてみんなそこで満足してしまうのかって、ずっと悔しかった!!
でも、ようやく…ようやく、変われると思ったんだ!!
あの曲で…「NEXT」で変われたんだと思ったんだ!!でもなんだ?蓋を開けたら私に縋って、私を言い訳にして…」
「そんなこと…」
「ないって言うのか!?現に、お姉ちゃんはこうして、今もグズグズしているだけじゃないか!!」
「香奈ちゃん…それくらいに…」
香奈ちゃんの手を押さえると、彼女はふと力を抜き、山橋を離した。
悲痛な叫びを、誰よりも俺が、もう、聞きたくはなかったのだ。
すると彼女はうずくまり、姉にすがる様に寄りかかる。
「お姉ちゃん…お願い。お願いだから…」
「香…奈…」
「お願いだから、私を安心させてよぉ…」
香奈ちゃんがそう言うと、山橋は両目からぼろぼろと涙をこぼし始める。
「ごめん…ごめん…ごめんなさ…いっ…」
「もう、帰ってくれ。私は少し…一人になりたい」
「え…?」
香奈ちゃんが山橋を離すと、彼女は惚けた様に妹を見つめた。
「行けよ!!」
「っ!」
山橋はそのまま、走って外に出て行ってしまった。
ああ、どうしてこう、俺の周りの奴は病院でのルールを守れないんだろう。
「って、何してんだい?」
「姫抱っこ」
「おお、これが噂に聞く…」
香奈ちゃんは、いつもの様子で話してくれるが、無理をしているのが見え見えだった。
そっとベットに戻して、布団をかけてやった。
「俺、ちょっと山橋を追わなきゃ…」
「すまないね。私としたことが感情的になってしまって。それで、君は何をお姉ちゃんに言うつもりなんだい?
言い訳?説得?それとも…」
「わかんない。せっかく答えを出したんだけど、やっぱりわかんなくなっちまったよ」
「はは…全く、つくづく情けないお兄ちゃんだ」
「それは言わない約束だろ?」
俺は、そっと扉を開く。
山橋は、どこに行っただろうか。はぁ…いつまで探す羽目になるやら。
「あと、香奈ちゃん」
「ん?」
「泣いても、いいんじゃないか?」
「ああ…」
扉に手をかけながら、ついいらないことを言ってしまった。
でも、香奈ちゃんは変わらない笑顔で
「私は泣かない。強い子だからな」
「おお、さすが」
それを見てから、そっと扉を閉めた。
「すみません」
「やっぱそんなこったろうと思ったけどさ…」
扉の先には、やっぱり黒髪のあいつがいた。
「でも、あのまま先輩に麗奈さんを会わせたら、きっと、後悔すると思って」
「…それは、誰が?」
「私がです、先輩」
「はぁ…」
裏切り者のくせに、ふてぶてしい奴だ。
「お前はもう、決めたのか?」
「はい。あとで先輩にも教えてあげますね?」
「今はダメなのか?」
「ダメです」
「厳しいな」
「厳しいんです」
でも、そんな笑顔されちゃ、責める気にならないじゃないか。
「言っとくけど、お前のおかげで戦局は最悪と言えるぞ?」
「いいじゃないですか。逆転ブザービートで大勝利です!」
「どうやってだよ」
「簡単です」
樋口は懐かしむ様に天井を見上げる。
「先輩は、あのライブの日…「NEXT」を聞いて、何を感じたんですか?」
「あの時…?」
「そのあと、私が先輩を事務所に誘った時、どうして悩みもせず入ってくれたんですか?」
「それは…」
「きつい仕事も、イベントでハプニングも、いろいろあったのに、どうしてまだ、先輩は風間プロに残ったんですか?」
そうだ、俺はあの時…
———あのライブの日に、樋口に誘われて、思ったんだ!!
「ありがとう、俺、行くよ!!」
「麗奈さんなら、きっと柴原駅に向かってるはずです!!走れば追いつくかも!!」
「わかった!!ありがとう!!」
俺は、走り出す。
山橋の元へ、全力で。
「病院では走らないでください!」
「すみませんっ!!」
「か、かっこ悪い…」