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「ナターシャは、この町のことをよく知らないんだよね?」

 大通りへと繋がる細い道を歩きながら、キリクは自分の少し後ろを歩くナターシャに声をかける。彼女はまだ少しびくびくしている様子だったが、キリクの言葉に小さく頷いてみせた。

「じゃあ、まずは市場に行こう。ここは小さいけれど港町だから、海の向こうから色んなものが集まってるんだ。近くで獲れる魚や貝だけじゃなくて、異国の食べ物とか、綺麗な飾りとか、色々」

 見て回るだけでも楽しいんだよ、とキリクは笑いかけながらナターシャの手を引く。まじないばばの家を出ても手を繋いだままなのは、はぐれてしまわないようにと考えたからだった。女の子と手を繋ぐのは少し気恥ずかしいけれど、もしも町でナターシャが迷子になってしまったら、話すことのできない彼女はきっと途方に暮れてしまうだろうから。

 町の中で一番賑わっている通りへと出れば、様々な屋台が並んでいた。キリクにとっては馴染みの風景だったが、やはりナターシャにとっては初めてだったようで、目を瞬かせながら周囲の様子をきょろきょろと物珍しそうに見回している。もう、外の世界を怖がってはいないようだった。

「ね、見て回ろうよ」

 市場に興味が湧いたらしいナターシャに気付いて、キリクは頬を緩めながら手を引いた。ゆっくりと歩きながら屋台をひとつひとつ覗いては彼女に説明していく。この店は何を売っているのか、目玉商品は何か、ここの主人はどんな人か。

 ナターシャが口を開くことは決してなかったが、どうやら彼女は存外明るい性格だったらしい。青い瞳を輝かせながら商品を見ていたり、キリクの話に頷いて相槌を打っていたりと豊かな表情や仕草で反応していたので、キリクは会話が無くてもそれを見ているだけで十分楽しかった。


 陽が少し傾く頃までひとしきり楽しんだ二人は、キリクが市場で買った果物を食べながら海岸へと向かう。キリクがナターシャを案内した入り江は、彼の秘密の場所だった。心地の良い波の音が響く、人気の無い小さな海。所々に大きな岩があり、小さな島のように海の上に浮かんで見える。長い年月をかけて波によって作られた岩礁のせいで、この入り江には船を持ってくることはできないのだった。

 美しい風景に思わず見惚れるナターシャの横で裸足になったキリクは、それまで彼女と繋いでいた手を離して小さな袋を片手に渚に立つと足元の白い砂を掻き分け始めた。

「きれいな貝殻やサンゴの骨を集めて、おばばさまにお守りにしてもらうんだ」

 何をしているのかわからずに不思議そうにこちらを見ているナターシャに、キリクはお守りのパーツになる貝殻を探しながら説明する。

「おばばさまの航海のお守りはよく効くんだよ。港の船乗りはみんな持ってる。どんなに酷い嵐に襲われたって、絶対に、この港に戻って来れるんだって。僕もお守りを腕に着けてたんだけど、帰ってくる途中で壊れちゃったんだ。だから、新しいお守りをおばばさまに作ってもらうんだよ」

 ひとつ、またひとつ。気に入った色や形の貝やサンゴの骨を拾い上げながら、キリクはナターシャが退屈しないようにと話を続けていた。すると、ぱしゃり、と近くで水を蹴る音が聞こえる。音につられてキリクが視線を上げると、ナターシャが同じように裸足になって波打ち際に立ち、水面越しの足元を覗き込んでいた。

 何をしているのだろう、とナターシャの足元に目を向けて……キリクはあれ、と瞼をしばたかせた。一瞬、彼女の足元に鮮やかな蒼を見た気がしたのだ。自分が探している貝殻とは異なる、別の何か。キリクは揺れる波の下に何があるのかよく見ようと目を凝らしたが、そこにはもう何も見えなかった。どうやら、キリクの見間違いだったようだった。

 彼女は水面下にじっと目を凝らし、両手で砂を掬い上げる。そうして何かを見つけたらしい彼女は、ぱしゃぱしゃと小さな波を作りながらキリクに近づき、お椀のように重ねられた両手を差し出した。覗き込むと、白く美しい形をした小さな貝殻がいくつか彼女の掌に乗せられていた。

「わぁ、きれいな貝殻だね!」

 白い色がなんだか眩しくて、キリクは目を細める。彼女も自分の気に入ったものを探しているのだろう。そう思っての言葉だったが、キリクの予想に反してナターシャは貝殻を自分のポケットに収めようとはせず、すいとキリクの方に突き出した。そしてそのまま両手を広げてせっかく拾った貝殻を手放してしまう。

「え? わっ!」

 キリクはとっさに手を出して落ちる貝殻を受け止めた。落とさなくて良かった、とほっとして顔を上げると、ナターシャはどこか照れくさそうな笑顔を見せている。その表情でキリクはやっと彼女の意図に気が付いた。

「これ、僕に、くれるの? ……材料探し、手伝ってくれるんだね。ありがとう!」

 キリクの言葉にナターシャはこくこくと頷く。どちらともなくはにかみ合った二人は、そのまま材料探しを再開したのだった。


 いくらか時間が経ち、材料をある程度集め終わった所でキリクは拾う手を止める。

「あとは、前のサメの歯みたいな少し大きいもの……」

 探し物はあと一つだったが、自分の希望に叶うものは見当たらない。空もやがて茜色に染まる頃で、まじないばばと約束した時間が迫っていた。そろそろ材料探しを切り上げて、ナターシャをまじないばばのもとへ送らなければならない。

 腕を組み難しい顔をして悩み始めたキリクの肩を軽く叩き、それまで静観していたナターシャは彼の顔を覗き込む。どうしたの、と問われているのがわかって、キリクは苦笑しながら今まで集めたお守りの欠片を見せた。

「いつもブレスレットの真ん中に、他のよりも少し大きなものをつけるんだ。でも、大きな貝殻って、ここらではあんまり見かけないから……」

 キリクの言葉に彼女も顎に手を当てて一緒に考える。そしてふと何かを思いついたのか、ナターシャは表情を変えた。眉根を少しだけ寄せて迷うように視線を動かしていたが、すぐに何かを振り払うかのようにふるふると首を振る。しばらく考えるそぶりを見せていた彼女は、最後にひとつ頷いて、突然キリクの手を取り、引っ張った。

「ナターシャ? どうしたの?」

 ナターシャは彼の問いに応えないまま、手を引いて走り出す。そのまま海の中から顔を覗かせている岩礁のひとつに登ると、何を思ったのかその上から躊躇なく飛び降りた。

「う、わっ……!」

 突然のことに反応できず、バランスを崩したキリクは手を引かれるままに海に落ちた。どぼんと大きく水飛沫が上がる音が耳の戸で聞こえ、冷たい海水に身体が包まれる。

 キリクは海に潜ることには慣れていたから、驚きはすれどパニックにはならなかった。寧ろ肌に触れる水の心地良さを感じながら目を開けると、宝石箱のような美しいサンゴ礁の世界が広がっている。幼いころからずっと見てきた、キリクの大好きな蒼い世界。久々に見る景色に目を細めていると、彼女に掴まれたまれたままだった腕がくい、とさっきより弱い力で引かれた。

「……!」

 ナターシャの方を向いたキリクは、彼女の姿を見て瞠目する。水中でどこかぎこちなく笑いかけてくる彼女。身に纏うワンピースから覗くのは、先ほどまであったはずの二本の細い脚ではなかった。海面から差し込む日光を受けて不思議に輝く蒼いウロコとヒレを持った、魚の尻尾が、人間の持つ脚の代わりにそこに在った。

 こぽり、とキリクの口から大きな気泡がひとつ吐き出される。彼の目の前で漂う美しい蒼の人魚は、困ったように、それでも楽しそうに笑っていた。

 ナターシャは、人魚。その事実にキリクは唖然とする。

 キリクの反応に満足するまで笑ったらしいナターシャは周囲を見回すと、すいとある一点を指し示した。引かれる手をそのままに彼女について泳いでいくと、海底の砂に何かが埋もれているのが見えた。

 二人で一緒に掘り起こす。砂の中から出てきたそれは、白い貝殻だった。ちょうどキリクが探していた、少し大きめで、欠けた部分のない形がしっかりした貝殻。ナターシャに手渡された貝殻を、キリクはきゅっと胸に抱いた。

 キリク、と、自分の名前を呼ばれた気がした。初めて聴く、鈴を転がしたような澄んだ声。もう一度、ナターシャと視線を合わせる。ゆらゆらと揺らめく亜麻色の髪から覗く彼女の蒼い瞳は、水の中でいっそう美しく見えた。その瞳が、どこか頼りない色を見せているような気がして、キリクは繋がれたままの手に少しだけ力を込めて握り返した。

 彼女の唇が動き、キリク、と今度ははっきりと彼女の声が聞こえて、キリクは思わず破顔する。ありがとうの意味を込めて向けた笑顔は、彼女に伝わっているだろうか。



 あくる日、キリクは朝からずっと父の仕事を手伝っていた。停泊している船の上で漁に使っている網を修理しながら、彼はぼんやりと昨日のことを思い出す。どこか、ふわふわとした気分だった。

 海から陸に上がった二人はその足でまじないばばの家へと戻った。ナターシャの脚は、陸に上がると自然に人間のものになるらしく、キリクが瞬きをひとつする間に変化していて酷く驚いたのを覚えている。髪と服を濡らしたまま戻った二人を見て全てを察したまじないばばは、キリクにナターシャの正体を決して他人に口外しないよう約束させた。

 ……その後のことは、あまりよく覚えていない。色々なことがありすぎて、どこか夢うつつのような気持ちでキリクは自分の家に帰ってきたようだった。

 不思議な一日だった、と昨日のことを振り返ったキリクはひとりごちる。夢ではないのかとさえ思ってしまうような、本当に不思議な一日だった。腕から消えたブレスレットの感触だけが、昨日の出来事が夢ではないことを主張していた。

「キリク!」

「っはい!」

 考え込みながらキリクが作業をしていると、突然大きな声で父に呼ばれる。我に返って慌てて返事をしながら振り返ると、父が立っていた。

「どうしたの、父さん」

「お前に客だ。行って来い」

 父はキリクにそう告げると、お前も隅に置けないな、と意味ありげににやりと笑って立ち去った。キリクは意味が解らずに首を傾げたが、まあいいやと立ち上がって船の甲板から顔を出して相手を確認する。潮風に揺れる亜麻色の髪と淡い色のワンピースを見とめ、キリクは慌てて船から降りた。

「ナターシャ!」

 船の前に一人で立っていたのは、ナターシャだった。

「一人で来たの? 平気だった?」

 驚いたキリクが駆け寄ると、彼女はふわりと笑って手に持っていたものを見せる。それは、昨日キリクが集めた材料で作った新しい航海のお守りだった。

「そっか。お守り、持って来てくれたんだね。ありがとう」

 受け取って陽の光に翳して眺めると、きらり、とナターシャと一緒に見つけた貝殻の隣に他のパーツとは違う光り方をするものがあることに気がついた。

「あれ、これ……?」

 注意深く見つめると、それは一枚の透明なウロコだった。キリクが初めて目にする魚のウロコ。光に透かすと深海のような深い蒼い色をしている。こんなウロコを持つ魚は見たことがないはずなのに……覚えがあるような気がするのは、どうしてだろう。

「ねえナターシャ。こんなウロコ、僕見つけたっけ? 覚えがないんだけど……」

 キリクが確かめるように問うと、ナターシャは笑顔で頷いた。肯定、ということは、キリクが目にしたことがあるというのだろか。

 キリクが不思議に思っていると、ナターシャは彼の手にあるお守りの蒼いウロコにそっと触れ、次に自分の胸元を指して微笑む。

(ナターシャからの贈り物。キリクにあげる)

 鈴を転がしたような高く澄んだ少女の声が、聞こえた気がした。それに気を取られたその時、キリクの頬に一瞬、何か柔らかいものが当たる。

「え――?」

 何が起こったのかわからず呆然とするキリク。その様子を見て、人魚の少女は頬を薄紅色に染めて声を出さずに笑うと、ひらりと一度だけ手を振って身を翻し、市場の方へと軽やかに駆けて行ったのだった。


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