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 やや不規則に聞こえる波の音に重ねるように、少年はひとつ息をついた。

 空の青と海の蒼。二種類の青が溶け合う水平線の向こうを、船上の少年は甲板の縁にもたれかかってぼんやりと眺めていた。少年を乗せた船は数週間の航海を終え、少年が父とその仲間で獲った海産物を乗せて故郷である港町への帰路についている途中だった。

 ぷつり、ぱらぱら。と、突然小さな音が聞こえ、少年は反射的に手元に目を落とす。手首につけていた飾りの紐が切れ、細かいパーツが甲板に散らばってしまっていた。

「あ……!」

 その様子を見て慌ててしゃがんだ少年は、甲板に散らばった欠片を掻き集める。少年のブレスレットになっていた欠片は、貝殻やサンゴの骨、サメの歯といった海洋生物の一部がほとんどだった。

「どうしよう、お守りが……」

 しばらくしてようやく全ての欠片を集め終えた少年は、掌に壊れたブレスレットを乗せて嘆息する。彼が身に着けていたブレスレットは、航海中に事故に合わないようにと故郷の港町で作られたお守りだった。壊れてしまったのは、もしかして良くないことが起きる前触れなのか、と少年は不安になった。

「キリク、どうした?」

 落ち込んだ様子の少年――キリクに気付いた、少し離れた場所で積み荷の整理をしていた男が近付きながら声をかける。よく日に焼けた浅黒い肌に精悍な顔つきをした男とキリクは、面影がよく似ていた。

「父さん……お守りが、壊れちゃったんだ」

 そう言ってキリクが壊れたブレスレットを見せると、父は無精髭の生えた顎を擦りながら覗き込む。動きに合わせて、父の胸元でホネガイのお守りが揺れた。浅く皺が刻まれた顔をほんの少ししかめたところを見ると、どうやら完全に壊れてしまっているのは父の目にも明らかなようだった。

「あぁ……紐がぷっつり切れてるし、一番でかいサメの歯も欠けちまってるな。こりゃ、新しいのをまじないばばに作ってもらうしかない」

「おばばさまに?」

 父の言葉にキリクは思わず顔を引き攣らせた。

「そんな顔をするな。何だお前、まだばばのことが怖いのか?」

「う……だって……」

 呆れを滲ませた父に、キリクは体を小さくさせる。まじないばば、というのは、港町に住む老婆のことだった。キリクが生まれるよりもずっと前、父でさえ幼い少年だったころからひっそりと住んでいる、港町の生き字引き。大人たちからは頼りにされているが、その風貌のせいか子どもたちからは魔女のようだと恐れられていた。

 キリクも、まじないばばを苦手とする子どもの一人だった。まじないばばと相対したときに、彼女の持つふたつの黒い目に自分自身の知らない部分まで見透かされているような気がして、どうしても居心地が悪くなってしまうのだ。

「船乗りの息子がそんな弱気でどうする。――もう数時間で港に着く。荷卸しの手伝いはいいから、ばばの所に行って来い」

 キリクの心の内を知ってか知らずか、父はため息を吐きながらも先ほどよりもほんの少し強い口調で言う。有無を言わせない父の言葉に、キリクは肩を落として小さな声ではい、と返事をするしかなかった。



 港に着いてすぐ、キリクは積み荷を一つだけ抱えて船から降りた。父に荷卸しの手伝いはいいと言われているから、このまますぐまじないばばの家へ向かわなければならない。ズボンのポケットにあるお守りの残骸を入れた小さな袋の事を思うと、キリクはいっそう憂鬱な気分になった。

 行きたくない、でも、行かなければならない。行って、まじないばばに新しいお守りを作ってもらわなければ。

「キリク!」

 持っていた荷を降ろして重い足を市場の方へ動かそうとしたその時、父が野太い声でキリクを呼び止めた。振り返ったキリクに父は袋をひとつ渡す。たくさん詰められているのか、ずっしりとした重みがキリクのまだ細い腕にのしかかった。

「ばばに持っていけ。いつもの礼と、お前の分だ」

「……うん。行ってきます」

 しっかりと荷物を抱え直して、キリクはまじないばばの家へと向かう。

 久々の陸地は、いつも変な感じがする。波で常に足元が揺れている船上とは違い、めったに揺れることが無い地上。海での生活が身体に染み付いてしまっているせいか、航海を終えて地面に足を付けてしばらくは、決まって言葉にできない不思議な感覚を味わいながらキリクは石畳の上を歩いていた。

 港町の、賑やかな市場の通りから一つ外れた道。問屋の裏口が並び、空の樽や木箱が雑に置かれた人気の無い裏通り。緩やかな坂道を登った先に、まじないばばの家はある。陽の光と雨風にさらされて色褪せ古い赤レンガの壁の上を生い茂った蔦が這い、カーテンのように垂れて樫の扉を隠していた。

 緑のカーテンを掻き分けたキリクは、緊張しながらも数回ノックをして扉をゆっくりと開く。家の中は真昼だというのに薄暗く、その様子にキリクは思わずごくりと唾を飲み込んで、足を踏み入れた。

「ご、ごめんください」

 辺りの様子をうかがいながら恐る恐る家の主に声をかけたキリクの声は少し上ずっていた。だが、いつもならすぐに返ってくるはずのまじないばばの声が聞こえない。

 もう一歩だけ中に進んで周りを見回すが、窓辺に置かれた椅子にも、書物や呪い用らしい雑貨が所狭しと並べられた棚の前にも、まじないばばの姿はなかった。家の戸には鍵がかかっていなかったということは、奥の部屋にでもいるのだろうか。

「ごめんください。おばばさま、いらっしゃいますか」

 もう一度、今度はさっきよりも大きな声で、加えていくらかしっかりした口調で暗闇に向かってキリクは呼びかける。……すると、奥の部屋からこつり、と小さく靴音が響いた。

 キリクは出てきた人物に思わず身構えて――あれ、と首を傾げた。部屋の奥から姿を現したのはまじないばばではなかったからだ。白く細い四肢に淡い色のワンピースを纏った、若い少女。歳は自分とそう変わらないくらいだろうか。少しくせのある亜麻色の長い髪の間から深い蒼の丸い双眸が覗いていた。

 可愛らしい外見の少女は、キリクの姿を認めると少し離れた場所で様子を伺うように立ち止まる。初めて見る人物に驚いて、キリクはそれまで抱いていた恐怖心や緊張を忘れて少女に問いかけた。

「……きみ、だれ?」

 キリクと少女の視線が絡む。薄暗い室内で、少女の蒼い瞳は少し浮き上がって見えた。喩えるなら晴天の空の色ではなく、深海の水の色。自分の持つ鳶色の瞳より、ずっと綺麗だとキリクは思った。

 少女はキリクの問いに応えようとするが、どうしてか何か言いかける前に一瞬顔を強張らせ、すぐに開きかけた口を閉じて悲しそうな表情で首を振った。不自然な彼女の様子にキリクは推測する。……もしかして彼女は、喋ることができないのだろうか?

「あっ、ごめん、無理に答えなくても大丈夫だから! えっと……おばばさまは家に居ないの? 僕、用があって来たんだけど……」

 察したキリクは慌てて謝りながら質問を変える。すると少女は悲しげな表情をぱっと笑顔に変えて何度か頷き、身を翻して奥の部屋に駆け込んだ。どうやら、まじないばばを呼びに行ってくれているらしかった。不思議な少女と意志の疎通ができたことに、キリクは内心ほっとしながらその場で待っていた。

「――誰だい?」

 少しして、室内に低い女の声が響く。暗い部屋の奥から投げかけられた声は決して大きくなかったが、不思議とキリクの耳に良く聞こえた。その声に反応して、キリクは思わず背筋を伸ばす。

「キリクです。船乗りのラダの息子の」

「ああ、ラダの倅か。帰って来たんだね」

 ラダ、というのはキリクの父の名前だ。キリクの答えに納得した様子の声の主は奥の部屋から顔を出す。杖を片手に現れたのは、白髪混じりの黒髪と、深く刻まれた皺の奥に強い光を宿す黒い瞳を持つ老婆だった。腰が曲がっているせいで、目線はキリクよりも少し低い。老婆の後ろには、先ほどの少女が立っていた。

「また少し背が伸びたようだね、キリク……それで、今日は何の用だい?」

 カツカツと杖を突きながらキリクに歩み寄った老婆――まじないばばは、少し目を細めてキリクに問う。射るような視線にキリクは思わず肩を跳ねさせたが、なんとか平静を装ってまず手に持っていた包みを差し出した。

「包みは、いつものお礼です」

「ああ、ありがとう。そこに置いといてくれ」

「はい。あと……僕のお守りが壊れちゃって……父さんに見せたら、これは直せないからおばばさまに新しいのを作ってもらえって」

「……どれ」

 促され、深く皺の刻まれた掌に布袋の中身を乗せる。出てきたのは壊れたキリクのブレスレットの一部で、それをしばらくじっと見つめていたまじないばばはやがてなるほどと呟いた。

「ああ、おまえの航海のお守りは二年も前にこさえたやつだったか。なら、寿命だね。仕方ない」

 そう言ったまじないばばはブレスレットの欠片を布袋に戻し、自分の懐にしまった。

「これは預かっておくよ。おまえは新しい材料を集めておいで。日没までに持って来てくれたら、明日の夕方までにはこさえてやろう」

「わかりました」

 彼女の言葉にキリクは頷いて、さっそく材料を集めに行こうと踵を返す。そんな彼の背中に、ああそうだとまじないばばは再度声をかけた。

「キリク、ナターシャを外に連れ出してくれないか」

「ナターシャ?」

 聞き慣れない名前に足を止めたキリクは首を傾げながら振り返る。まじないばばは自分の背後の立つ少女を示し、この子の名前だよ、と言った。

「わたしの遠い親戚の娘でね、少し前から預かっているんだが、さっきおまえも気づいたように口がきけないんだ。そのせいでほとんど外に出ようとしない」

 そう続けながら、まじないばばはナターシャを自分の前に押し出す。彼女は突然のことに困惑しているようで、不安そうな目でちらりとキリクを見た後、まじないばばに向かって勢いよく首を横に振った。

「嫌だって? いくらおまえでも、たまには陽に当たらないと体に良くないよ。一日くらい外の空気を吸っておいで。キリク、この子を拾い物ついでに連れて行ってくれないかい?」

「わかりました。行こう、ナターシャ!」

 まじないばばの頼みを引き受け、キリクはナターシャの手を取る。良く日に焼けた小麦色の自分の手と、透き通るように白い彼女の手の色が酷く対照的で、ほんの少しだけどきりとした。自分の手よりも温度の低い彼女の手は、ひやりとしていて心地良かった。

 キリクが軽く彼女の手を引くと、ナターシャはつられて一歩足を踏み出す。それでもまだ躊躇っている様子の彼女が恐る恐る振り返ると、まじないばばは穏やかな声で彼女の背を押した。

「行っておいで。キリクと一緒なら大丈夫だろうよ」

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