第6話
「ただいま」
「お帰り、ヒナタ」
私の声に、お母さんの声が返ってきて、胸がすとんと落ち着いた。今日お母さんが家に居てよかった。
「今日、何かあった?」
「何にもないよー」
「そう。ならよかった」
お母さんが私の顔を見てふふっと笑った。そうして、私から目を逸らして、また家事に戻るお母さんの背中を見ながら、不意に鼻の奥がつんとした。とんとんとんって、包丁の音を聞きながら、今日あった出来事が、急に頭を過ぎる。私が、学校でひとりぼっちだって知ったら、お母さん、どんな顔するのかな。きっと、がっかりするだろうな。
「ヒナタの作り笑いを見抜けないなんて、この母親の目は節穴だな」
悪魔さんは腕組みをして、呆れ顔でそう言った。別に、見抜けなくていい。お母さんに気づいて欲しくないことだし。
「ご飯まだだから、もうちょっと待っててね」
「うん、分かった。じゃあ、部屋で勉強してる」
「げ」と悪魔さんが眉を顰めて声を漏らした。
「ヒナタは勉強大好きだな。学校で散々教師の話聞いた後、家に帰っても勉強か?」
私は部屋に入ってから鞄を置く。
「別に、好きじゃないけどね」
「じゃあ、どうして好きじゃないものをするんだ?」
「お母さんのためだよ。私、今狙ってる大学ね、成績が良かったら、学費がタダなんだ。お母さんの負担、ちょっとでも減らしたいの」
教科書とノートを机に広げながら言った。ふうん、と言いながらも、悪魔さんは腑に落ちないと言わんばかりに唇を尖がらせたままだ。カチカチとシャーペンの芯を出して、今日の授業でやったところを確認する。
「おいヒナタ。暇だ」
「本棚にある本でも読んでてよ」
ノートを見直すと、授業中に悪魔さんと筆談してたときに書いた文章が目に入って、すぐに消しゴムで消した。
「俺様に人間の書いた低俗なものを読めというのか、全く……。なんだこれは。“美しい街の写真集”? はっ、くだらん」
「あ、それ、私のお父さんが撮った写真集だよ」
悪魔さんが手にとっている写真集を見て思わず声を上げた。私のお父さんは写真家だった。本当に小さいころに死んじゃったから、覚えていることは殆どないけど、いつもカメラを持ってる優しい人だったってことは何となく覚えている。悪魔さんは、気になったのか、本棚に戻そうとした手を止めて、ぱらっと、その本をめくる。すると、驚いたように目を見開いて、顔を綻ばせた。
「わぁ、綺麗だなあ……」
「でしょ?」
なんだか悪魔っぽくなくて、私もつられて笑った。すると、悪魔さんは、はっと我に返って「いやいや綺麗じゃない! 俺様がそんなこと思うわけないだろう!」って慌てて言った。でも、その後、大事そうにまた一ページ捲って、「わぁ」と声を漏らす。あんまりにも悪魔さんの顔が輝いてたから、私も気になってちょっとだけ覗いてみた。山の木々の隙間から、昔ながらの町並みと、青い海が写ってる写真。そう言えば、お父さんの写真集なんて、本棚に置いてるだけで、最近ちっとも見てなかった。
「その写真集、全部、この街で撮ったんだって。海にも山にも近くて景観が良いから、お父さん、この街が大好きだったんだって、お母さん言ってた」
「そうかそうか」
ふふふ、と笑い声を漏らす悪魔さんは幸せそうだ。きっと、根は優しいんだろうな。私はまた、勉強に戻る。この悪魔さんになら、不幸にされてもいいかな、と思ってしまう自分が居た。