第2話
「……ただいま」
地味女はこの上もなく低い声で家のドアを開けた。
「あら、ヒナタ。お帰りなさい」
「お母さん、今日早いんだね」
「ヒナタこそ遅かったじゃない」
「うん、友達の家行ってた」
「嘘つけ。貴様には友達はひとりもいないだろう」
俺様が毒つくが、地味女は聞こえないフリをしやがった。地味女の母親だから、きっとこの上もなく地味なのかと思ったが、茶色に染めた髪を一つに束ねた、思ったよりも快活そうな母親だった。
「今日はねー、お母さん特製、ミートスパゲティーを作ってるの。ヒナタ好きでしょ?」
「今すぐ貴様に憑依して、貴様の母親に、学校ではひとりっぼっちだって、バラしちまおうか?」
「それだけはやめて!」
地味女は血相を変えて鋭い声を出した。
「え? 嫌だった? もう、ミートスパゲティー、嫌いになっちゃった?」
「え、あ、いや、違うの! お母さんのことじゃなくって……その」
もごもごと口の中で語尾を濁した後、最終的に「独り言!」と叫んだ。
「キシシ、さっきのを独り言にすんのは無理があんだろー」
俺様がそう言うと、地味女はきっと俺様を睨みつけ、机の上にあったボールペンを手に取る。
「お母さん、この日めくりカレンダー、昨日のだから剥がしとくね」
「え? ああ、うん、お願い」
べりっと日めくりカレンダーの紙を破り、殴り書きでこう書いた。
“ついてきて”
そう書くと、階段を駆け上っていった。俺様は仕方が無いので、言われた通りついて行く。階段を上ってすぐ横が、この地味女の部屋らしい。なかなか綺麗に片付いている。
「悪魔さんが不幸にするのは、私だけですよね? お母さんは、関係ないですよね?」
「まあ、そうだが?」
「じゃあ、お母さんが悲しむようなことは、私に言わせないで下さい。お父さん、私が小さい頃に死んじゃってて、お母さんは一生懸命私を育ててくれたんです。今だって、夜遅くまで働いてくれてて……。これ以上私、迷惑かけたくない」
地味女の顔があまりにも真剣だったから、俺様も少し怖気づいてしまった。
「貴様の願いを聞き入れるのはこれっぽっちも気が進まないが、まあ、貴様の主張も間違ってはいない。いいだろう。その代わり、俺様が貴様を不幸にするのは変わらないぞ」
「はい、好きにしてください」
全く不思議な人間だ。魔界では、人間は全て自らの私利私欲のために生きていると習った。でも、こいつは自分ではなく、母親を優先している。そういえば、例外に親子関係というものがあったか。俺様にはちっとも理解出来ない。
「ところで、悪魔さんって字読めるんですね。漢字とかは?」
「貴様、この悪魔様を侮るんじゃないぞ! 魔界ではな、人間の生態から人間の生み出したもの、そしてどうやって人間を貶め不幸にするか、十万年かけて学ぶのだ!」
「十万年! 悪魔さん、一体今何歳なんですか?」
「十万三十三歳だ」
「うわー、なんか長すぎて想像つかない」
「そうだろう、そうだろう。たった百年そこらしか生きることの出来ない人間とは訳が違うのだ!」
「それと、その、オデコについてる“666”って何なんですか?」
「これか? これはだな、ばっ……っと危ない」
「ば?」
俺様は瞬時に口を押さえた。罰則印だと素直に答えてどうする。
この印は、もし地味女が幸福感を感じたときに電流が流れる仕組みになってる。俺様達は人間を不幸にするのが役目であり、もし、悪魔が人間を幸福にしてしまうなんてことがあれば、その魂は死神に喰われてしまう。人間界でいう死刑だ。まだ未熟とされている見習い悪魔が、間違ってでも人間を幸福にしないように、俺様達は皆、この印を額につけて人間界に降り立つのだ。この見習い卒業試験は、決して人間を幸福にしない訓練も兼ねている。
まあ、俺様にはあってもなくても同じようなものだが、この地味女に知られてしまったら話は別だ。もしこの女が幸福になろうと努力なんぞし始めたら困るからな。
「ば、ば、ばっかじゃねえのか! 666の意味を知らないなんてな! これは悪魔を象徴する数字だ!」
俺様も、地味女のごまかし方にとやかく言えた口じゃないな、と思いつつも、上手くごまかせただろうかと、地味女の表情を伺うと、正直に「へえそうなんですかー」と頷いている。安堵するのと同時に、ふん、バカめ、と心の中で嘲笑った。