第14話
「お前、運動が嫌いだろ」
「うん、嫌い。体育とか、どんなに筆記のテストで頑張ったって、通信簿は三つけられちゃうの。実技がまるっきり駄目だから」
授業が終わってから、ようやく悪魔さんが帰ってきた。今は家に帰っている最中だ。前にも後ろにも人が居ないから、悪魔さんとも普通に会話ができる。
「それに、今日は誰かさんのせいで足がくたくただよ。もう早く帰りたいな」
「そうか、そうか。じゃあ、今日は走るぞ」
「へ?」
また、急に自分の意思が体が動かなくなる。そして、帰り道とは反対方向に走り出した。
《え、ちょっと、私のさっきのセリフ、聞こえなかった?》
「おお、聞こえたぞ。足が疲れて早く帰りたいんだろう?」
《えっと、じゃあ、なんで私は今走ってるの? しかも帰り道とは真逆の方向に》
「俺様は悪魔だぞ! 人間の望みとは反対のことをして嫌な気持ちにさせるのが、俺様の使命だ!」
《そんなあ》
悪魔さんに乗っ取られているとはいえ、筋肉の痛みや、呼吸の苦しさは感じる。持久走はやったことがあるけど、こんなにハイペースで走ったことが無い。しかも話しながら走ってるから、余計苦しい。でも体は止まらない。
どのくらい走っただろうか。足の痛みや、息の苦しさが限界になってきて、心の中で思いっきり叫んだ。
《悪魔さん! 私死んじゃう!》
「何!」
悪魔さんが私の体から離れる。走る体制になっていたのに、急に体が自由になって、バランスが上手くとれずにこけてしまった。痛い。膝がじんじんする。しかも呼吸が苦しくて、けほっけほっと乾いた咳が出た。汗が首筋をくすぐるように落ちてきてこそばゆい。
「おい、大丈夫か?」
悪魔さんが心配そうに私の顔を覗き込む。
「だい、じょうぶ、じゃない、よ、あくまさん、の、バカ」
息も絶え絶えになりながら、やっとのことで言葉を発する。
「ば、バカとは何だ、バカとは! だが、まあ確かに、走っていてちょっぴり苦しくはあったな」
「ちょっぴり、じゃないよ! すごく、だよ!」
「ほいほい、悪かった、悪かった。じゃあ、此処からは歩くか。どうせ、あとちょっとなんだ。早くしねえと日が暮れちまう」
「あとちょっと……?」
悪魔さんは無意味に走ってたわけじゃなくて、何処か行くところがあったみたい。ふわっと、涼しい風が吹く。潮の香りがした。
しばらく経てば、息も少しだけ楽になった。衝撃でじんじんしていた足も、まだ痛むけれど、歩けないほどではない。こけたときについた砂を払っていると、膝から血が出ていたことに気づいた。思いっきりこけてしまったんだから無理もない。膝をこけて怪我するのも、何年ぶりだろう。
そんなことを考えている間に、悪魔さんはどんどん進んでいく。
「おい、遅いぞヒナタ」
全くもう。ちょっとぐらい待ってくれてもいいのに。
痛みが少なくなったとはいえ、怪我をしたところは風に当たると、ひりひりした。足をひきづりながら、悪魔さんについていく。悪魔さんも、そんな私に、少しは配慮してくれているのか、進むスピードを少し緩めてくれた。
「この防波堤を上るぞ。この上からみた夕日は絶対綺麗だ」
着いたのは海だった。悪魔さんは、ふわりと飛んで、防波堤の上に行く。私は空を見上げる。昼休憩のときよりも、雲の質量が増えている気がする。晴れ、というよりも、曇りと言ったほうが近い天気だ。
「でも、曇ってるよ。夕日、今日見えないんじゃないかなあ」
「そんなの、上らないと分からないだろう。早く来い」
無茶なこと言うなあ。左右を見ると、少し離れたところに防波堤を上る用の階段があった。流石に、この状態で何もなしに防波堤を上るのは辛い。階段を使い、防波堤を上りきると、わ、と思わず声が漏れた。
確かに、上らないと分からない景色だ。
防波堤の上から見た夕日は、思わず息を呑むほど綺麗だった。夕日は雲に隠れることなく、赤々と輝いており、海もオレンジ色に染まって、夕日の光りを反射した波がきらきらしている。綺麗で、どこか、懐かしい。
「ここの景色、ヒナタの父親の写真集に載っていたんだ」
ああ、そっか。ここ、小さいとき、お父さんによく連れてきてもらったんだ。最近は、まっすぐ家に帰ってるから、こんな風にわざわざ夕日を見ることもなかった。
「せっかく地球に来たんだからな。魔界に戻る前に、美しいものは見ておきたくってな。今日、写真集に載っているところは全部見た。父親はなかなかセンスがあるぞ。どれもこれも美しかった」
悪魔さんはこの景色を私に見せるために、とり憑いたんだ。なんだか、こんなに綺麗な夕日を見ると、足の疲れが一気に癒えた気がする。
「そういえば、ヒナタの父親は、どんな父親だったんだ?」
「正直、お父さんのことは、あんまり覚えてないの。死んじゃったとき、すごく小さかったから。でも、お父さんが死んだときの、お母さんの顔は覚えてる。全然泣いてなくて、大丈夫だよって笑ってるんだけど、すごく辛そうだった」
「じゃあ、お前の作り笑いは親譲りなのか」
悪魔さんの言葉に、「そうかもね」と返した。そう言えば、お父さんが死んだとき、お母さんはどうして涙を流さないんだろうってすごく不思議に思ってた。笑っている顔が、泣いている様に見えて、すごく切ない気持ちになった。今まで、私はお母さんに対して、あの時のお母さんと同じ笑い方をしてたのかもしれない。
「だが、お前の作ってない笑顔は、俺様の心を動かすほどに美しい。それだけは、自信を持っていいぞ」
びっくりして、思わず息を止めてしまった。そんな褒め言葉が飛んでくるとは思わなかった。不意打ちで胸がどきどきする。
「なななな、何言ってるの! 悪魔さんのくせに! もう!」
でも、ちょっと嬉しい。両手を頬に当てると、熱かった。
「――い゛っ」
悪魔さんが急に呻いた。痛そうに頭を抑えている。
「どうしたの?」
私が尋ねると、悪魔さんは、いきなりあたふたし始めた。
「い、いや、俺様はもともと頭痛持ちでな。ハハハ」
「ふうん? 頭痛持ちって、悪魔さんでも頭が痛くなることってあるんだ」
「勿論だ。ハッハッハ――って、おい! その足はどうした!」
悪魔さんが急に私の足を見て、驚いたように目を見開いた。ふと、視線を落とすと、血で滲んだ膝が見えた。そう言えば、怪我したんだった。ひりひりにも慣れてしまったから、あまり気にならなくなっていた。
「ああ、これは、こけたときに――」
「こけたときにできた怪我がまだ治ってないのか! 俺様も怪我をしたことはあるが、五秒で治るぞ!」
「悪魔さんと人間を一緒にしないでよー。でも、今はあんまり痛くないし、大丈夫だよ、ほら」
あまりにも悪魔さんが心配そうにするから、膝を曲げ伸ばししてみせた。すると、血が垂れてくる。それを見た悪魔さんがもっと血相を変える。
「おいおい、血が流れてるじゃないか! ぐるぐるぐるどーん、治ってしまえ!」
悪魔さんが叫ぶと、傷口がどんどん塞がり、流れていた血も跡形もなくなってしまった。心なしか、筋肉痛も治った気がする。
「わあ、すごいね、悪魔さんの黒魔術って」
私が素直に感心していると、ぺしっと頭を叩かれた。
「バカヤロウ。どうして怪我をしていることを言わなかった!」
「だって、言ったって治してくれるなんて思わなかったし……」
「バカか! 確かに、俺様は人間の不幸が大好きだ。だがな、人間にとって悪魔をいい気持ちにさせることは悪いことだ。だから、ヒナタは俺様の前で辛いのを我慢したら駄目だ!」
悪魔さんは、そこまで言って「あれ、なに言ってるんだ、俺様は」と我に返ったように頭を掻いた。理屈がめちゃくちゃなところが、悪魔さんらしい。でも、悪魔さんなりに、私を心配してくれたんだ。
「悪魔さんって、本当は優しい悪魔さんなんだね。ありがとう」
悪魔さんと出会ってから、自然に笑って「ありがとう」って言えるようになった。これも、悪魔さんのお陰かな。すると、悪魔さんは顔を真っ赤にして「っう゛」と呻いて頭を抱えて項垂れた。
「て、照れてないからな! こ、これは頭痛が再発したんだ!」
「はいはい」
くすくす笑うと、耳まで真っ赤にしてもっと項垂れてしまった。ふと、夕日に目を向ける。少しずつ沈んでいく。全体を包んでいたオレンジ色は、少しずつ、紫色に変わっていた。
――上ってみないと分からない。
――変わることから逃げるな。
本当にその通りだね。悪魔さんと出会ってから、世界が違って見えるよ。幸せは、私が見ようとしてこなかっただけで、周りにいっぱい転がっている。時には自分から作り出すことが出来るんだってことも、悪魔さんと出会ってから知ることができたよ。




