第12話
ふーっと息を吐く。朝、制服のボタンを留め終えると、手が震えた。お母さんが作ってくれた朝ごはんもしっかり食べたし、行く準備は万端。頑張れ私、と気合を入れるためにぺちぺちと自分の頬を叩く。昨日は、本当にいろんなことがあった。小テストは0点だし、無断で早退しちゃったし、何より、藤崎くんに告白しちゃった。学校に行くのが憂鬱だって思ったことはあっても、学校に行くのが、こんなに怖いって思ったのは初めてだ。一応、小テストのペナルティは全部したし、先生に怒られる覚悟は充分にできたけど、教室に入る覚悟はちっともできない。
「おい、そろそろ行かないと本当に遅刻するぞ」
悪魔さんの声。時計を見ると、八時十分になっていた。確かに、もう出ないと間に合わない。
「う、うん、そうなんだけど……」
「どうした? 学校に行きたくないとは言わせないぞ。俺様はヒナタを不幸にしなきゃいけないんだからな。今日は学校に行って、藤崎にこっぴどく振られて、さんざんに傷ついてしまえ!」
う、と言葉が詰まる。悪魔さんに言われなくても、きっとそうなるだろう。あんな公衆の面前で好きでもない人に告白された藤崎くんは、すごく迷惑だっただろうな。どんな顔をして会えばいいのか分からない。
「――悪魔さん。私にとり憑いて」
「何だお前。頭がおかしくなったのか?」
「そうじゃなくて。学校に行かなきゃなのに、足が震えて、学校に行けないから」
目を落とすと、がたがたと情けないぐらい膝が笑っていた。
「もう逃げないから」
声も震えた。
「変わることに、逃げないから、ちょっとだけ、力を貸して欲しいの」
昨日は悪魔さんのお陰で、ちょっとだけ変われた気がする。お母さんに隠してたことをちゃんと言えて、気持ちがすごく楽になった。悪魔さんの言うとおり、現実から逃げてちゃ駄目なんだ。向き合うことには、ちゃんと向き合わないと。
おずおずと、顔を上げて、悪魔さんの表情を見た。悪魔さんは、ぱちぱちと瞬きをした後、にっと笑った。そして、急に消えた。どうやらとり憑いたみたい。最初は変な感じだったけれど、今はもう慣れてきた。私の足が勝手に動く。もう震えてない。ちゃんと、地に足を着いて、歩いてる。でも、心臓の鼓動は速い。もしかしたら、悪魔さんも緊張しているのかもしれない。
靴を履いて、ドアを開けると、ふわりと心地よい風が髪を撫でた。首がすーすーする。そういえば、髪もばっさり切ったんだった。
*
「おっはよーう!」
悪魔さんの力を借りて大声を張り上げるのも、ちょっとだけ慣れてきた。ばっと集まるクラスメイトの視線には、まだまだ慣れないけど。
「え? 日下部さん?」
「すげー、髪ばっさり」
ざわざわとした喧騒に紛れて、そんな言葉が聞こえてくる。席につくと、今まで勝手に動いていた体が急に自由になった。悪魔さんが体から離れたからだ。いつもなら、挨拶をして席をついたら皆からの視線はなくなるのに、何だか今日は今も見られてる気がする。急に、ばくばくと心臓が煩くなり、顔が熱くなった。
「いつものことだが、ヒナタの人望の無さにはがっかりだな。俺様が素晴らしいセンスに仕上げたヒナタの髪型を、面と向かって誰も褒めてくれない」
悪魔さんは呆れたようにため息を吐く。
「藤崎ィ、日下部さんとオソロじゃん」
すぐ隣でそんなことを言われて、びくっと肩が跳ねた。声を出したのは藤崎くんと仲が良い北村くんだ。恐る恐る隣を見ると、藤崎くんが居た。当たり前だ。隣の席が藤崎くんなんだから。でも、雰囲気がいつもと違った。長めのふわふわした黒い髪がばっさりと切られ、ショートになっていた。
「昨日の服装点検で引っ掛かったんだよなー。タイミングすっげー。藤崎、その髪型似合ってんぞ!」
「藤崎君と北村君って髪型そっくりだよねー」
ある女子がそう言うと、北村くんは眉を顰めた。
「は? 俺と藤崎が? うわー、死にてえ!」
「おい、どーゆー意味だそれ!」
藤崎くんが初めて声を出した。藤崎くんが私を見る。目が合った瞬間、心臓をいきなり掴まれたみたいに、胸が苦しくなって、動けなくなった。
「日下部さん」
藤崎くんが、私の名前を呼んだ。そして、いきなり手首を掴まれた。おおっとクラス全体がどよめく。そっか、休憩時間中に堂々と告白しちゃったから、みんな知ってるんだ。
「ちょっと来て」
藤崎くんがそう言うと、ぐいっと引っ張られた。その力がすごく強くて、思わずつんのめりながら藤崎くんに付いていく。教室を出て、廊下を歩き、屋上へ続く階段を上る。
「おいおい、藤崎は何をする気なんだ?」
悪魔さんも後ろから付いてきている。私も分かんない。本当に、何が起こってるんだろう。屋上に着くと、藤崎くんはようやく私の手を離した。
「ごめん、強引なことして」
藤崎くんが私に背を向けたまま、そう言った。ふるふると首を振る。心臓がばくばく鳴りっぱなして、首を横に振るので精一杯だ。そんな私に気づいているのかいないのか、藤崎くんはそのまま口を動かす。
「あの、昨日のことなんだけど」
「お、来たか」
悪魔さんは私の気も知らないで、好奇心丸出しの声を出す。私も、口の中に溜まった唾液をごくんと呑み込んだ。藤崎くんが振り返る。じっと見つめられて、どうすればいいのかわかんなくなった。
「気持ちは、嬉しいんだけど、俺、日下部さんのこと、何も知らないし、こんな状態で付き合うのって、日下部さんに失礼だと思う。まずは、友達にならない?」
「へ」
思わず間抜けな声が口から漏れた。
「失恋おめでとう。まあ、当然だな。人気者の藤崎がひとりぼっちのお前に振り向くわけが――ッい゛!」
悪魔さんの声は、脳を通過する前に、耳に入った瞬間消えていった。他の声が聞こえなくなっちゃうぐらい、藤崎くんの言葉が、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
「おいヒナタ、お前、失恋のショックで頭がおかしくなったのか? どうして振られて幸せになってるんだ! わけが分からん!」
「初めて言われた!」
「は?」
「え?」
悪魔さんと藤崎くんの声が重なる。
「友達になろうって、初めて言われた!」
しん、と沈黙になった。その沈黙で、はっと我に返って、口を押さえた。
私、何叫んでるんだろう。藤崎くんは瞬きもしないで固まってる。悪魔さんも固まってる。どうしよう、どん引きされた。藤崎くんはまだしも、あの悪魔さんにまで引かれるようなこと言っちゃったんだ。血の気が引いていくのと同時に、「ぷっ」と噴出す音が聞こえた。藤崎くんだった。
「あははっ、日下部さんって面白いね。じゃあ俺、日下部さんの記念すべき友達第一号ってこと?」
こくこく、と何度も頷く。ひとしきり笑った後、続けて言った。
「じゃあ、よろしく、な」
びっくりして息が止まる。夢みたいなことがどんどん起こって、頭が上手く追いつかない。それは悪魔さんも同じようで、頭を抱えながら、藤崎くんのそばをぷかぷか浮かびながら叫ぶ。
「おいおい、変な展開になってきたな! 藤崎、お前はヒナタをこっぴどく振ればそれでいいんだぞ! 余計なことするんじゃない!」
勿論、悪魔さんの声は藤崎くんには全然届いていないようだ。なんだか、悪魔さんがすごく必死で可笑しくて、思わず笑みが零れた。
「ありがとう、藤崎くん」
気づいたら、笑みと一緒にそんな言葉が自然と零れた。「あ」と声が漏れる。
すごく普通に、ありがとうって言えた。お母さんや、悪魔さん以外の人に、悪魔さんの力を借りずに、ちゃんと、自分で言えた!
すると、藤崎くんはゆっくりと瞬きをして、今度は藤崎くんまでだんだん顔が赤くなってきた。手で口を押さえながら「やべえ」と掠れた声で呟いている。どうしたんだろう?
「と、とりあえず、教室戻るか。そろそろ時間やばそうだし」
「あ、そ、そうだね!」
そういう意味のやばい、か。確かに、あともう少しでホームルームのチャイムが鳴りそうだった。




