第11話
ヒナタは玄関前に正座して母親の帰宅を待っていた。ついでに、俺様もヒナタの隣で一緒に正座している。どうせ当たって砕けるのなら、傍に誰かが居たほうが心強いそうだ。俺様もヒナタとの約束を破ってしまったことは多少申し訳ないと思っているし、他にすることもないから引き受けた。今までは浮かんでいるだけで歩くことも座ることもしないで済むような生活をしているが、改めて正座というものをしてみるのも、なかなか面白い。背筋を伸ばして正座をしていると、気持ちもしゃきっとしてくる。ヒナタも目は多少腫れているが、しっかり涙は拭ったし、母親を迎え撃つ準備は万端だ。
ヒナタが、ふー、とゆっくりと息を吐いて十回目の深呼吸を終えた丁度そのとき、バンッ、と玄関のドアが乱暴に開かれた。俺様とヒナタの肩が同時にびくりと跳ねる。ヒナタの母親だった。
「ヒナタ!」
母親はそう叫ぶと、きょろきょろとあたりを見回した。何だかひどく焦っているようだ。目を少し下に落とせば、すぐ目の前に居るのに、気づいていないようだ。しかも、様子が少しおかしい。茶色で少し巻いている髪はぼさぼさで、額に滲んだ汗が前髪をへばりつかせていた。メイクも少しだけ崩れている。顔は今にも泣き出しそう。この表情はヒナタにそっくりだった。どうやら随分急いで家に帰ってきたらしい。
「お母さん」
ヒナタが声を上げると、母親は「ひっ」と短く悲鳴を上げて、ぱちぱち瞬きをした。
「ひ、ヒナタ……? び、びっくりしたじゃない。どうして電気も付けずに玄関で正座してるの! 心臓に悪いわ」
いつの間にか、日も暮れかけていて、オレンジ色の日差しも弱くなり、部屋全体が薄暗くなっていた。
「……って、そんなことはどうでもいいの。ヒナタ、その髪」
母親は膝をついてヒナタの髪に触れた。その拍子にハイヒールが脱げて、擦れて血が滲んでいる足が見えた。もしかしたら、この靴で走ったのかもしれない。こんな歩きにくそうな靴で走ったのなら、靴擦れを起こしたとしても不思議じゃないだろう。
「あ、この髪、友達に切ってもらったんだ」
「友達に? 学校で?」
ヒナタは、う、と言葉に詰まった。確かにその嘘には無理がある。さっき俺様の口でひとりぼっちだって言ったばかりだ。まあ、こいつにとって俺様は“友達”らしいから、あながち嘘とも言えんが。
「嘘、ほんとは美容院で切ってもらった」
それも嘘だ。まあ、悪魔の黒魔術で短くなったなんて口が裂けても言えないだろうな。母親は腑に落ちていないようだが「そうなの」と声を漏らした。
「ヒナタ、今まで泣いてたの? 目がちょっと腫れてる」
「え、う、うん、まあ……」
「ヒナタ、電話で言ってたこと、本当?」
いよいよ本題だ。俺様はヒナタをじっと見つめる。ヒナタの目はふらふらと宙を舞った。心の準備をしていたとしても、やはり緊張するんだろう。頑張れ、と心の中で呟いていた。ヒナタが息を吸う。
「私、ずっと、ずっと、学校でひとりぼっちなんだ。隠してて、本当にごめんなさい」
一息で言った。多分、心の中で何度も何度も言う練習をしていたんだろう。ヒナタはおそるおそる、母親を見る。母親は笑っていた。とても、とても、優しく笑っていた。母親はそのまま、腕をヒナタの背中に回して、ぎゅっと抱きしめる。
「何言ってるの。ヒナタが本当のこと言ってくれて、嬉しかった。辛かったよね。私こそ、気づいてあげられなくて、ごめんね」
ヒナタは、びっくりしたような嬉しいような恥ずかしいような、色んな気持ちが入り混じった複雑な表情をして、でも、目からは大粒の涙が流れていた。
「うん、辛かった」
涙声でヒナタは言葉を紡いだ。どうやら、俺様の期待は裏切られてしまったようだ。だが、裏切ってくれてよかった、と心の中で思った。ヒナタは間違いなく、母親に愛されている。悪魔である俺様も、さすがに胸がじーんと熱くなってしまった。
「……っ」
びりびりっと頭に痛みが走る。だが、これは想定内だ。声を上げずに痛みに耐えた。今回だけは見逃してやろう。母親と娘の絆が深まっているのに、それを邪魔するのは気が引ける。不幸度を戻すのは明日に回してもいいだろう。だが、ヒナタはよほど嬉しいらしい。びりびりと長く電流が流れるので、思わず足を崩すと、今度は足にもびりびりと電流が走る。
ちょっと待て、全身に電流がくるとは聞いてないぞ!
二人の親子が涙を流しながら絆を深めている間、俺様はすぐ横で痛みに悶えている。泣いていたヒナタと俺様の目が合ってしまった。まずい。何とかして誤魔化さなければ。俺様が考えを巡らせていると、ヒナタは、ぷっと吹き出して、大笑いし始めた。
「ど、どうしたの、ヒナタ?」
母親が思わず、抱きしめていた手を外して、びっくりしたように突然笑い出したヒナタを見つめる。俺様も意味が分からない。
「ううん。なんでもないの。ただ、正座してたら、足がすっごく痺れちゃって。なんか可笑しくて」
ヒナタは笑いながら人差し指で涙を拭う。母親は、意味が分からないとばかりに、きょとん、としている。そうか、正座をしていると、足は痺れるのか。初めて知った。……って、そんなことより、ヒナタの視線は俺様を向いたままだ。こいつ、無様な俺様の姿を見て笑ってやがる。すると何故か母親も笑い出した。
「よくわかんないけど、ヒナタがこんなに笑っているのを見るのは久しぶりだわ。つられて笑っちゃう」
さっきのしんみりとした空気は何処へやら。いつの間にか玄関は二人の明るい笑い声で満ちていた。
何だか、姿が見えてないはずの母親にまで笑われている気分だ。俺様は、ちっとも嬉しくない。だが、言い返したくても、足の痺れと頭痛のダブルパンチで苦しんでいる俺様は言い返す余裕もない。覚えてろ、と心の中で呟いた。後で絶対仕返ししてやる。だが、魂を喰っちまうと、こんな全く濁りのない親子の愛を壊してしまう。魂を喰う以外でヒナタを不幸にする方法を考えなければならないな。
*
足の痺れが治って、ヒナタの部屋で、ヒナタの父親の写真集を見ていると、扉が開いた。ヒナタだ。両手にはプリンを持っている。
「あ、悪魔さん」
「何だ」
「これ、お母さん特製のプリンなの。すっごくおいしいの。私、あったかいプリンが好きなんだ」
「だから何だ」
「二個、作ってもらったんだ。一個、悪魔さんにあげるから、仲直りしよう?」
おずおずとプリンを差し出す。さっきまで、母親の一緒に作っていたものだろう。まだ冷え切ってないのか、湯気が立ってる。
「あのときは、悪魔さんにひどいこと言ったり、ビンタしたりして……ごめんね。悪魔さん、私のために言ってくれたんだよね。私の辛い気持ちを、代わりに言ってくれたんだよね」
ヒナタは俯いて、丁寧に言葉を紡ぐ。そして、顔を上げて、照れくさそうに笑った。
「ありがとう」
俺様の頬に熱が篭るのを感じた。面と向かって礼を言われたのは初めてだ。照れ隠しに、俺様はヒナタからプリンをひったくると、一口で食べた。ごくん、と飲み込むと、温かくて、甘くて、幸せな気持ちになって頬が緩んだ。くすくす楽しそうにヒナタが笑うから、俺様は唇を尖がらせて顔を顰め、平然を装った。
「……俺様も、少し言いすぎた。ヒナタみたいな人間は嫌いじゃない。プリンくれるしな」
口の中に甘さが残っているうちに、一息で言った。うん、とヒナタは嬉しそうに頷く。
そして、俺様はヒナタの分のプリンも奪い、それも一口で食べた。
「うん、美味いな、このプリン。気に入ったぞ」
ヒナタの笑顔が固まる。固まった笑顔のまま、何も持っていない自分の手を見る。そして、だんだんその笑顔が歪んでいく。俺様はニヤリと笑った。
「油断したな、ヒナタ。俺様の本当の目的を忘れるな。俺様はヒナタを嫌な気持ちにさせるために来たのだ」
ヒナタは泣き出しそうな顔で「前言撤回っ!」と叫んだ。その表情は非常に愉快だったが、今までとは違う、温かいものを感じた。多分、プリンを食べたからだろう。




