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悪役令嬢人形譚

悪役令嬢人形譚〜公女はパープルアイの夢を見る〜

作者: ひらえす
掲載日:2026/08/06

リハビリがてらに一度書いてみたかった転生悪役令嬢ものを書いてみました。よろしくお願いします。



「では皆様。本日は、ご自身で紅茶を淹れる際の作法を復習いたします」


 穏やかな声が、フローラ王立学院の茶会実習室に響いた。


 夏の日差しを受けて、磨き上げられた銀のティーポットが静かに輝いている。白いクロスの上には、薄手の磁器、茶葉を量る銀匙、砂時計が寸分の狂いもなく並べられていた。


 紅茶は、ただ湯を注げばよいものではない。


 茶葉の量。湯の温度。蒸らす時間。


 ティーポットを持つ角度から、カップをソーサーへ戻す音に至るまで、淑女の所作には意味がある。


 客人をもてなすため。


 家の格式を示すため。


 そして時には、言葉にできない意思を伝えるため。


「ローゼンベルク公女様。お願いいたします」


「はい」


 名を呼ばれ、フランチェスカ・ラ・マーレ・フォン・ローゼンベルクは静かに立ち上がった。


 陽光を紡いだような金の髪。白磁を思わせる肌。そして、紫水晶に似た深い紫の瞳。


 すらりと伸びた長身と隙のない立ち姿は、彼女が王国唯一の大公家、ローゼンベルク家の嫡子であることを、言葉より雄弁に物語っていた。


 フランチェスカは教師の前まで進み、軽く一礼した。


 茶葉を量り、温めておいたポットへ入れる。


 湯を注ぎ、砂時計を返す。


 急ぐことなく、遅れることもなく。


 やがて茶葉が開く頃合いを見計らい、茶漉しを通してカップへ紅茶を注いだ。


 立ち上る香りは華やかで、水色も申し分ない。


 最後にポットを置いた時も、銀器はほとんど音を立てなかった。


「お見事です」


 教師が満足そうに頷く。


「香りも水色も理想的です。さすがは王妃教育を修めていらっしゃるだけありますね」


 教室のあちこちから、小さな感嘆の声が漏れた。


「さすがローゼンベルク公女様ですわ」


「同じ三年生とは思えません」


「王妃陛下の御前でも、お茶を淹れていらっしゃるのでしょう?」


 フランチェスカは控えめに微笑み、席へ戻った。


 実際、彼女が自ら茶を淹れる機会など、日常にはほとんどない。


 大公家には専任の使用人がいる。客をもてなす時でさえ、公女本人が給仕をすることはまずなかった。


 自らポットを手にするのは、学院の実習と、王妃教育の一環として行われる茶会の授業くらいである。


 王妃陛下の御前で。


 時には、第一王子レオンハルト殿下も同席する中で。


 一滴もこぼさず。


 カップを置く音さえ立てず。


 失敗しないことを求められる。


 以前の自分なら、その場に立つだけで胸が締め付けられていたはずだ。


 けれど今は、そこまで怖くない。


 紅茶は、おいしく淹れられればそれでよい。


 飲む相手が、ほっと息をついてくれれば十分だ。


 そんな当たり前のことを思えるようになったのは、三年前の入学式以来だった。


 カップから立ち上る香りを見つめながら、フランチェスカはあの日のことを思い出した。


     ◇


 三年前。


 十五歳の春。


 フローラ王立学院の大講堂には、王国各地から集まった新入生が並んでいた。


 王侯貴族から、試験を勝ち抜いた優秀な平民までが学ぶ、王国最高峰の教育機関。


 講堂の前方には王族席が設けられ、その左右へ大公家、公爵家、侯爵家と、家格に応じた席が並んでいる。


 ローゼンベルク大公家の公女であり、第一王子の婚約者候補筆頭でもあるフランチェスカの席は、当然のように最前列にあった。


 式典は粛々と進んだ。


 学院長の挨拶。


 来賓の祝辞。


 そして、新入生代表の登壇。


「これより、レオンハルト第一王子殿下より、ご挨拶を賜ります」


 立ち上がった青年を見た瞬間だった。


 淡い金の髪。


 澄んだ青の瞳。


 端正な顔立ち。


 何度も画面越しに見た攻略対象者の立ち絵、そのものだった。


 フランチェスカの胸の奥で、何かが弾けた。


 視界が揺れる。


 頭の中へ、堰を切ったように記憶が流れ込んでくる。


 日本で生まれたこと。


 三十二歳まで会社員として暮らしたこと。


 仕事帰りに本を読み、休日には恋愛ゲームを遊んだこと。


 そして、かつて何度も起動したアプリ。


『フローラ王国学院 真実の薔薇園乙女』


 平民同然に育った少女が、両親の死をきっかけに貴族家へ引き取られ、王立学院へ入学する物語。


 少女は学院生活の中で攻略対象者たちと出会い、友情を育み、やがて誰か一人と結ばれる。


 王道の乙女ゲームだった。


 そして、その恋路に立ちはだかるのが、第一王子の婚約者候補筆頭。


 高慢で冷酷。


 家柄を鼻にかけ、身分の低いヒロインを執拗に虐げる悪役令嬢。


 フランチェスカ・ラ・マーレ・フォン・ローゼンベルク。


 ゲームの終盤。


 呪われた人形に魅入られたフランチェスカは魔法を暴走させ、大公邸へ火を放つ。


 炎に包まれた館の中で、彼女は誰にも救われることなく命を落とす。


 どの攻略対象を選んでも、細部に違いはあれど、彼女の結末はほとんど変わらなかった。


 フランチェスカは、白い手袋に包まれた自分の手を見下ろした。


 細く長い指。


 袖口に刺繍された、ローゼンベルク大公家の紋章。


 夢ではない。


 作り物の画面でもない。


 ここは、あのゲームによく似た世界。


 そして自分は、悪役令嬢フランチェスカ、その人だった。


 最初に浮かんだ感想は、ひどく簡潔だった。


(終わった……)


 しかし、三十二歳の日本人として積み重ねた人生経験は、絶望に沈むより先に現状を整理し始めた。


(待って。ゲームが始まるのは今日)


(まだヒロインへ嫌がらせはしていない)


(だったら、何もしなければいいのでは?)


 ヒロインへ近づかない。


 攻略対象者へも近づかない。


 王子へ執着しない。


 断罪につながりそうな事件には、一切関わらない。


 何もしない。


 目立たない。


 静かに卒業する。


 それだけで破滅は避けられるはずだ。


 そう結論づけ、フランチェスカは小さく息を吐いた。


「フランチェスカ嬢」


 突然、隣から声をかけられた。


 顔を上げると、挨拶を終えたレオンハルト第一王子が、わずかに身を寄せていた。


「お顔の色が優れないようですが。具合でも悪いのですか」


「……いいえ。少し緊張しただけです」


「そうですか。無理はしないように」


 ゲームにはなかった会話だった。


 画面の中のレオンハルトは、フランチェスカを疎んじていた。少なくとも、主人公の視点からはそう見えた。


 けれど、目の前の王子に敵意はない。


 特別な好意もないが、礼儀と気遣いはある。


(ゲームと現実は、完全に同じではない)


 当然といえば当然だった。


 ゲームで描かれたのは、主人公が見聞きした場面だけ。


 それ以外の時間にも、人々は暮らし、考え、言葉を交わしている。


 そしてフランチェスカにも、悪役として登場する場面以外の日常があった。


     ◇


 入学して間もなく、その事実を改めて思い知らされた。


「ローゼンベルク公女様。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」


 昼休み、図書室へ向かおうとしたフランチェスカを、一人の令嬢が呼び止めた。


 胸元の徽章を見る限り、同じ新入生である。


「魔法理論の課題で分からない箇所がありまして。先生から、公女様ならご存じだろうと……」


「拝見します」


 令嬢から教本を受け取り、該当箇所を確認する。


 風の精霊と術者の間に生じる魔力循環についての問題だった。


「こちらは、術者だけの魔力量を計算するのではありません。周囲の精霊が補助した分を加える必要があります」


「あ……。そういうことでしたのね」


 数分ほど説明すると、令嬢は表情を明るくした。


「ありがとうございます、ローゼンベルク公女様!」


「どういたしまして」


 少女は何度も頭を下げ、友人たちのもとへ戻っていった。


 ゲームの中では、誰もフランチェスカへ学業の相談などしなかった。


 彼女はただ、主人公を苦しめるために現れる存在だった。


 けれど実際のフランチェスカは、幼い頃から厳しい教育を受けてきた。


 礼法も。


 歴史も。


 魔法も。


 王太子妃に必要とされる教養も。


 求められた以上の成果を出そうと、努力し続けてきた。


 その積み重ねは、転生者の人格が表へ出たからといって消えるものではない。


 日本で生きた自分の価値観と、フランチェスカが積み重ねてきた知識や記憶。


 どちらも今の自分を形作っている。


(この子も、ずっと頑張ってきたのよね)


 ゲームでは語られなかった少女の人生。


 誰かに認められたくて、完璧であろうとした日々。


 それを無かったことにはしたくなかった。


(破滅を避けるためだけじゃない)


(フランチェスカが積み上げてきたものを、無駄にしないために生きよう)


 その日から、彼女は「何もしない」という方針を、ほんの少しだけ修正した。


 悪事には手を出さない。


 筋書きを無理に変えようともしない。


 けれど、求められた時には、自分にできることをする。


 それくらいなら、きっと破滅にはつながらない。


 そう信じていた。


     ◇


 ゲームの主人公であるリリアと出会ったのは、それから間もなくのことだった。


 昼休みの回廊で、数冊の本が派手な音を立てて床へ落ちた。


「あっ……申し訳ありません!」


 淡い金色の髪をした少女が、慌ててしゃがみ込む。


 着慣れていない制服。


 少し古びた鞄。


 そして、精霊に愛される者だけが持つ、柔らかな雰囲気。


(リリア)


 ゲームの主人公だった。


 平民同然に育ち、両親を亡くした後、貴族家へ引き取られた少女。


 いずれ聖女の資質を認められ、王子をはじめとする攻略対象者たちの心を惹きつけていく。


(関わらない方がいい)


 フランチェスカは、その場を通り過ぎようとした。


 だが、床を滑った一冊が、ちょうど靴先で止まった。


 無視して跨ぐのも不自然である。


 仕方なく拾い上げ、少女へ差し出した。


「どうぞ」


「ありがとうございます!」


 リリアは満面の笑みで本を受け取った。


 ゲームで見た立ち絵よりも、ずっと幼く、飾り気のない笑顔だった。


「ローゼンベルク公女様、ですよね?」


「ええ」


「ご挨拶できて嬉しいです」


 ゲームのフランチェスカなら、ここで冷たい言葉を浴びせていたかもしれない。


 だが、目の前の少女に嫌がらせをする理由など、どこを探しても見つからなかった。


「次からは、もう少し少ない冊数に分けて運んだ方がよろしいですわ」


「はい。気をつけます」


 それだけ告げて立ち去る。


 背後から、もう一度明るい声がした。


「本当に、ありがとうございました!」


 その日を境に、リリアとは図書室や授業で顔を合わせれば、挨拶を交わすようになった。


 親しい友人というほどではない。


 けれど、敵対する理由もなかった。


 フランチェスカが何もしなければ、二人の間には何も起こらない。


 少なくとも、その頃はそう思っていた。


     ◇


 アレクシスと出会ったのも、入学して間もない春だった。


 隣国からの交換留学生として紹介された青年は、栗色の髪と青灰色の瞳を持つ、穏やかな人物だった。


 アレクシス・フォン・ヴァレンティーノ。


 隣国の伯爵家に生まれた三男で、歴史と魔法具の研究を目的にフローラ王国へ来たという。


 ゲームの記憶にはない人物だった。


 だから最初、フランチェスカは彼を筋書きの外にいる人物だと考えた。


「ローゼンベルク公女様、こちらをお探しですか」


 図書室の高い棚へ手を伸ばしていた時、横から伸びた手が目当ての本を取り出した。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 アレクシスは本の表紙を見て、興味深そうに目を細めた。


「ローゼンベルク大公家の成立史ですか」


「卒業論文にはまだ早いのですが、自家の歴史を学び直そうと思いまして」


「なるほど」


 彼は本を渡しながら、一歩だけ距離を取った。


 近づきすぎず、かといってよそよそしくもない。


 育ちの良さを感じさせる距離だった。


「ローゼンベルク公女様の正式なお名前を伺っても?」


「フランチェスカ・ラ・マーレ・フォン・ローゼンベルクです」


「ラ・マーレ」


 アレクシスが、懐かしそうにその名を繰り返す。


「ご存じなのですか」


「ええ。私の国に残る、古い貴族女性の命名習慣です」


 フランチェスカは思わず顔を上げた。


「母君は、私の祖国のご出身なのでしょう」


「はい。アンナマリアという名の、侯爵令嬢だったと聞いています」


「きっと、ご自身の文化と愛情を、お名前に残されたのでしょうね」


 その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。


 母は、フランチェスカを産んですぐに亡くなっている。


 肖像画の中の姿と、使用人から聞いたわずかな話しか知らない。


 父も、亡き妻について多くを語る人ではなかった。


「……そうだと、嬉しいです」


 答えると、アレクシスは少し驚いたように目を瞬かせた。


「失礼ながら」


「何でしょう」


「皆様がおっしゃるほど、近寄り難い方ではないのですね」


 今度はフランチェスカが瞬きをした。


「皆様は、そのように?」


「正直に申し上げれば」


 アレクシスは困ったように笑った。


「ローゼンベルク公女様は、冷たく恐ろしい方だと伺っておりました」


「まあ」


 否定しきれないところが、少し可笑しい。


 以前のフランチェスカは、気軽に笑うことも、弱さを見せることも禁じられていた。


 無表情で、姿勢を崩さず、言葉を選び続ける少女を、周囲が近寄り難いと感じるのも無理はない。


「噂というものは、便利ですわね」


「一度広がれば、本人を知らなくても、その人を知った気になれますから」


「事実よりも、物語の方が好まれることがあります」


 アレクシスの返答に、フランチェスカは少しだけ考え込んだ。


 事実よりも、物語。


 それは、ローゼンベルク家に伝わる「呪いの人形」の噂とよく似ていた。


 敵対した貴族が失脚する。


 不正を働いた商人が捕らえられる。


 王国へ害をなした者が、ある日突然姿を消す。


 その裏でローゼンベルク家が何をしているか、世間の人々は知らない。


 だから彼らは、分かりやすい物語を作った。


 ローゼンベルク家には、紫の瞳を持つ呪いの人形がある。


 あの家へ仇なす者は、人形に呪われるのだ、と。


「今度、この国の歴史について教えていただけませんか」


 アレクシスが尋ねた。


「私もまだ、知らないことばかりですので」


 一瞬だけ迷った。


 ゲームにいない人物。


 関わらない方が安全かもしれない。


 けれど、母の祖国を知る青年との会話は、不思議と心地よかった。


「私でお役に立てることでしたら」


「ありがとうございます」


 そうして二人は、図書室で会えば本や歴史について話すようになった。


 アレクシスは無理に距離を縮めようとはしなかった。


 話したくないことを尋ねず、沈黙を気まずいものとして扱わない。


 人形以外の前でも、何も話さずにいられることが、フランチェスカには新鮮だった。


     ◇


 学院から戻った後も、フランチェスカの一日は終わらない。


 王妃教育とは別に、大公家の公女としての教育が待っている。


「ティーポットを置く際、右肩がわずかに下がりました」


 ガヴァネスであるヘレーネ・アルヴィングは、淡々と告げた。


「学院の教師はお褒めになったそうですが、王妃陛下の御前では、その一瞬が評価を左右いたします」


「以後、気をつけます」


「気をつける、ではありません」


 ヘレーネ先生は静かに首を振る。


「二度と同じ失敗をなさらないことです」


 怒鳴りはしない。


 声を荒らげることもない。


 けれど、その言葉は幼い頃から何度も聞かされてきた。


 完璧でありなさい。


 弱さを見せてはいけません。


 あなたの価値は、王太子妃となることで示されます。


 以前の自分なら、その言葉を聞くだけで呼吸が浅くなっていただろう。


 今は、少し違う。


 ヘレーネ先生は、フランチェスカを傷つけたいわけではない。


 本気で、これが正しい教育だと信じている。


 だからこそ、逃げ場がなかったのだ。


「本日の教育は以上です」


「ありがとうございました、ヘレーネ先生」


 一礼して教育室を出る。


 夕暮れの廊下を歩くうち、足は自然と東棟へ向かっていた。


 古い応接室。


 窓辺に置かれた立派な椅子には、大きな着せ替え人形が座っている。


 八十センチほどの背丈。


 淡い金色の髪。


 白磁のような肌。


 そして、フランチェスカとよく似た紫の瞳。


 ローゼンベルク家の家宝、パープルアイ。


 世間では魔女が宿る呪いの人形と噂されているが、フランチェスカには、ただ美しい古い人形にしか見えなかった。


「ただいま」


 返事はない。


 もちろんだ。


 人形なのだから。


 フランチェスカは向かいの椅子へ腰を下ろした。


「今日は、母の国から来た方とお話ししたの」


 ぽつり、ぽつりと、一日の出来事を話す。


「ラ・マーレという名前は、お母様が残してくださったものなのですって」


 言葉にすると、胸の内にあったものが少しずつ整っていく。


 幼い頃から、こうしてきた。


 嬉しかったこと。


 悲しかったこと。


 褒められたかったこと。


 泣きたかったこと。


 誰にも言えない言葉を、この部屋へ置いて帰った。


 人形が返事をしたことは、一度もない。


 けれど、その紫の瞳を見ていると、不思議と心が落ち着いた。


「聞いてくれて、ありがとう」


 立ち上がり、椅子に座る人形へ微笑みかける。


 それから、ふと気づいた。


 今日は人形に話す前に、すでに誰かと母のことを話している。


 父とはまだ難しい。


 けれど、学院にはリリアがいる。


 アレクシスもいる。


 少しずつではあるが、自分の言葉を人へ向けられるようになっていた。


「また明日」


 応接室を出る。


 パープルアイは何も語らず、静かに夕陽を映していた。


     ◇


 それから三年。


 学院生活は、最後の夏を迎えていた。


 結局、フランチェスカは「何もしない」まま過ごすことはできなかった。


 リリアとは、図書室で会えば自然に本の話をするようになった。


 アレクシスとは、王国史や魔法具について意見を交わす仲になった。


 レオンハルト王子とも、王妃教育や公務について穏やかに会話をしている。


 ゲームで見たような激しい対立は、一度も起きていない。


 昼休みの中庭では、リリアを囲んで攻略対象者たちが笑い合っていた。


 レオンハルト王子が彼女の抱えていた教本を受け取り、騎士団長の嫡男が何か冗談を言う。


 財務大臣の息子は呆れたように眉を上げ、大商会の跡取りは皆へ菓子を配っていた。


 誰もが自然にリリアを気遣い、彼女も楽しそうに笑っている。


(ゲームは、それなりに進んでいるのね)


 嫉妬はなかった。


 焦りもない。


 むしろ、これで自分は筋書きから外れられるのではないかと、ほっとする。


「ローゼンベルク公女様」


 隣に立ったアレクシスが、中庭へ視線を向けた。


「皆様、楽しそうですね」


「ええ」


「青春、というのでしょうか」


「その言い方では、ずいぶんお年を召しているようですわ」


「それは失礼しました」


 二人で小さく笑う。


 フランチェスカはまだ気づいていなかった。


 中庭からリリアがこちらを見て、嬉しそうに微笑んでいたことにも。


 レオンハルト王子が、以前より柔らかくなったフランチェスカの表情を、少し複雑そうに見つめていたことにも。


 そして。


 何事もなく終わると思っていた学院生活が、最後の夏になって大きく動き始めようとしていることにも。


その頃からだった。


 学院でリリアやアレクシスと言葉を交わす姿を、ヘレーネ先生が気に留めるようになったのは。


     ◇


「お嬢様」


 その日の礼法の授業が終わると、ヘレーネ先生は静かに紅茶を置いた。


「少々、お話がございます」


「はい」


 フランチェスカもカップを置き、姿勢を正す。


「学院では、リリア様や留学生のアレクシス様と親しくしていらっしゃるそうですね」


 使用人や護衛から報告が届いているのだろう。


 隠すようなことでもない。


「ええ。図書室で本のお話をしたり、お茶をご一緒したりしております」


 ヘレーネ先生は小さく息をついた。


「お嬢様は、未来の王太子妃となられるお方です」


「そのお立場を、お忘れになってはなりません」


「もちろんです」


「でしたら、ご友人は慎重にお選びください」


 先生の声音は穏やかだった。


 けれど、有無を言わせない響きがある。


「リリア様は平民として育ったお方です。アレクシス様は留学生であり、いずれ帰国なさいます」


「学院では親しく見えても、卒業後まで続くご縁とは限りません」


「お嬢様が心を許すべき方は、王族や高位貴族の方々だけです」


 フランチェスカは少しだけ考えた。


「……お二人とも、良い方ですよ」


 思わず口をついて出た本音だった。


 リリアは誰かを悪く言わない。


 アレクシスは必要以上に踏み込まず、人の話を丁寧に聞いてくれる。


 それだけでも、フランチェスカにとっては十分に信頼できる人たちだった。


 しかし、ヘレーネ先生は静かに首を横へ振る。


「良い方かどうかを決めるのは、お嬢様ではございません」


「え……」


「お立場には、お立場に相応しい交友がございます」


「王妃となられる方が、誰と親しくするか。それも教育の一つなのです」


 フランチェスカは返す言葉を失った。


 先生は幼い頃から自分を育ててくれた人だ。


 悪意があって言っているわけではない。


 本気で、自分の将来を思っての言葉なのだ。


「……承知いたしました」


 そう答えるしかなかった。


     ◇


 その日の夕食後。


 珍しく父ヴィルヘルムから、「少し話そう」と書斎へ呼ばれた。


「学院には慣れたか」


「はい、お父様」


「困ったことはないか」


「特には」


 少し迷ってから、フランチェスカは付け加えた。


「お話しする方も、少しずつ増えてまいりました」


「ほう」


 ヴィルヘルムは穏やかに微笑む。


「どのような者たちだ」


「リリア様という方と、隣国からいらした留学生のアレクシス様です」


「そうか」


 父はそれ以上何も言わず、紅茶を一口飲んだ。


 そして静かに続ける。


「良き友人は得難いものだ」


 フランチェスカは顔を上げた。


「友人とは、家柄で選ぶものではない」


「お前自身が、この人は信頼できると思えた相手を、大切にしなさい」


 思わず目を瞬く。


 昼間、ヘレーネ先生から聞いた言葉とは、まるで逆だった。


「ですが……」


「王太子妃候補として相応しい交友を、と申されました」


 ヴィルヘルムは苦笑する。


「それは礼儀や節度の話だ」


「友人を持つな、などと私は一度も命じた覚えはない」


 父は真っ直ぐ娘を見た。


「お前が人を見る目を養うことも、大公家を継ぐ者には必要な資質だ」


「誰を信じるかは、お前自身が決めなさい」


「……はい」


 その返事は自然に口からこぼれた。


 胸の奥に、小さく灯がともるような感覚だった。


 初めてだった。


 誰と親しくするかを、自分で決めてよいと言われたのは。

  

   ◆◇◆


 始まりは、ひどくありふれた噂だった。


「リリア様の制服が、何者かに切り裂かれたそうですわ」


「まあ。いったい誰が、そのようなことを?」


「決まっているでしょう」


 声を潜めながらも、誰もが聞こえるような囁きが、学院の廊下を流れていく。


「王太子殿下と親しくなったリリア様を、一番疎ましく思う方ですわ」


 フランチェスカが通りかかると、令嬢たちは一斉に口を閉ざした。


 誰も彼女の名を口にはしなかった。


 しかし、向けられた視線だけで十分だった。


 ゲームの悪役令嬢なら、そうするだろう。


 ローゼンベルク家の公女なら、裏から人を動かせるだろう。


 呪いの人形を持つ家なら、何をしても不思議ではない。


 事実よりも物語を信じる人々の中で、フランチェスカは静かに立ち止まった。


(やはり、何もしないだけでは終わらないのね)


 三年前とは違い、絶望はしなかった。


 まず、事実を確かめる。


 そして、自分の言葉で人と向き合う。


 もう、人形へ心を預け、黙って耐えるだけの少女ではない。


 フランチェスカは背筋を伸ばし、噂の中心となっている教室へ向かって歩き出した。


   ◆◇◆


 教室の入口には、すでに人だかりができていた。


 フランチェスカが近づくと、集まっていた生徒たちは道を開けるように左右へ退いた。


 その動きは礼儀正しく、同時に露骨だった。


 誰も彼女を責めてはいない。


 少なくとも、口には出していない。


 しかし、視線の一つひとつが問いかけていた。


 あなたがやったのではないか、と。


 教室の中では、リリアが担任教師と話していた。


 机の上には、切り裂かれた学院の制服が広げられている。背中から腰にかけて鋭利な刃物を入れられ、到底着られる状態ではなかった。


「リリア様」


 フランチェスカが呼びかけると、リリアは振り返った。


 驚いたように目を見開いた後、ひどく困った顔をする。


「ローゼンベルク公女様……」


「お怪我はございませんでしたか」


「はい。着る前に気づきましたので」


「それは何よりです」


 安堵したフランチェスカへ、教師が慎重な口調で尋ねた。


「ローゼンベルク公女。こちらの件について、何かご存じですか」


「いいえ」


 フランチェスカは即答した。


「リリア様の私物に触れたことも、女子寮のお部屋へ伺ったこともございません」


「そうですか」


 教師はそれ以上追及しなかった。


 だが、教室の外から聞こえてくる囁きは止まらない。


「本当に?」


「でも、動機があるとすれば……」


「王太子殿下とリリア様は、近頃ずいぶん親しくしていらっしゃるもの」


 フランチェスカは反論しなかった。


 ここで声を荒らげても、噂を消すことはできない。


 むしろ、動揺した姿だけを切り取られ、新たな物語を作られるだろう。


「先生」


 リリアが小さく手を挙げた。


「私は、ローゼンベルク公女様ではないと思います」


 教室が静まり返った。


 教師も、生徒たちも、フランチェスカさえも、意外そうにリリアを見た。


「そう考える理由はありますか」


「証拠はありません。でも、公女様はこのようなことをなさらないと思います」


「リリア様」


 フランチェスカが制するように名を呼ぶ。


 好意だけで庇わせれば、今度はリリアまで噂の標的になるかもしれない。


「お気持ちはありがたく存じます。ですが、今は学院の調査を待ちましょう」


「でも……」


「証拠のない疑いを否定するために、証拠のない信頼だけを示しても、問題は解決いたしません」


 冷たい言葉に聞こえたかもしれない。


 しかしリリアは少し考え、ゆっくりと頷いた。


「分かりました」


 フランチェスカは教師へ一礼し、教室を後にした。


 廊下へ出たところで、アレクシスが壁際に立っていることに気づく。


「ローゼンベルク公女様」


「聞いていらしたのですか」


「ええ。人が多く、中へは入れませんでしたが」


 彼は周囲へ視線を走らせ、声を落とした。


「すでに学院中で、公女様のお名前が挙がっています」


「そうでしょうね」


「弁明なさらないのですか」


「『私はしておりません』と申し上げても、信じたい方にしか届きませんもの」


 フランチェスカは窓の外へ目を向けた。


 夏の陽射しが中庭を白く照らしている。


「今、必要なのは言葉ではなく事実です」


「何か気になることが?」


「噂が広まるのが早すぎます」


 アレクシスの表情が変わった。


「制服が見つかったのは今朝。それなのに、私が犯人だという話は、一限目が始まる前から別棟まで届いていたそうです」


「つまり、事件が起こる前から噂を流す準備があった」


「可能性はあります」


「実行した者と、噂を広めた者が別かもしれない」


「ええ」


 断定はしない。


 思い込みほど人を誤らせるものはない。


 それは諜報を生業とするローゼンベルク家で、幼い頃から教えられてきたことだった。


「ご一緒しましょうか」


「何をです?」


「調査を」


 アレクシスは当然のように言った。


 フランチェスカは思わず彼を見る。


「私が潔白であると、なぜ信じられるのですか」


「信じている、というより」


 彼は少し笑った。


「制服を切り裂くような真似をなさる方なら、もっと痕跡を残さないでしょう」


「褒められている気がいたしませんわ」


「申し訳ありません」


 悪びれない口調に、フランチェスカの口元もわずかに緩んだ。


「ですが、学院へお任せします。私が独自に動けば、それこそ疑いを深めるでしょう」


「では、何もなさらない?」


「いいえ」


 フランチェスカは静かに首を振った。


「誰かを問い詰めることはいたしません。ただ、話の流れは見ておきます」


 誰が最初に噂を口にしたのか。


 誰が話へ尾ひれをつけたのか。


 そして、誰が利益を得るのか。


 人ではなく、情報の流れを見る。


 それがローゼンベルク家のやり方だった。


     ◇


 嫌がらせは、それだけでは終わらなかった。


 数日後には、リリアの教本へインクがかけられた。


 さらに、机の引き出しへ盗品が入れられていた。


 幸い、リリアが自分から教師へ届け出たため、窃盗の疑いを掛けられることはなかった。


 だが事件が重なるほど、フランチェスカへの疑いは強くなっていった。


「ローゼンベルク公女様は、ご自分では何もなさらないそうですわ」


「寄子の令嬢へ命じているのでしょう」


「大公家なら、それくらい簡単でしょうね」


 根拠のない話は、根拠がないからこそ自由に形を変える。


 やがて噂の中には、ローゼンベルク家の家宝である人形まで登場した。


「公女様は、呪いの人形へリリア様の名を告げたそうです」


「だから、次々に不幸が起きるのですって」


「ローゼンベルク家へ逆らった者は、皆破滅するもの」


 フランチェスカは、その話を聞くたびにため息をついた。


 制服を切り裂く呪い。


 教本へインクをかける呪い。


 机へ盗品を忍ばせる呪い。


 魔女も随分と地道な嫌がらせをするものだ。


 笑い事ではないが、あまりにも人間臭い。


 ある日の昼休み。


 リリアが人目を避けるように、フランチェスカを温室へ呼び出した。


「ローゼンベルク公女様。お話ししたいことがあります」


「何でしょう」


「私のお部屋へ出入りしたことのある方についてです」


 リリアは膝の上で手を組み、迷いながら話し始めた。


「最近、急に親しくしてくださる令嬢が増えたんです。お茶会へ誘ってくださったり、授業をご一緒したり」


「それ自体は、おかしなことではありませんね」


「はい。私も、最初は嬉しかったんです」


 リリアは寂しそうに笑った。


「でも、皆さん、必ず最後は公女様のお話をなさるんです」


「私の?」


「『ローゼンベルク公女様は怖い方でしょう』とか、『殿下と親しくすれば、きっと目をつけられる』とか」


 やはり、噂は偶然に広まったのではない。


 少しずつ同じ方向へ誘導されている。


「お名前を伺っても?」


 リリアは少し迷い、首を横へ振った。


「まだ申し上げたくありません。私の考え違いでしたら、その方々を傷つけてしまいます」


「それでよろしいと思います」


 フランチェスカは小さく微笑んだ。


「疑われた人がどれほど傷つくか、今の私はよく知っておりますから」


「公女様……」


「今は誰にも、この話をなさらないでください。まず事実を確かめましょう」


 リリアは真剣な表情で頷いた。


 その時、温室の外、二階の回廊から二人を見下ろす令嬢がいた。


 エーデルハイト・フォン・アルテンブルク侯爵令嬢。


 第一王子の婚約者候補の一人であり、王妃候補としてフランチェスカに次ぐ評価を受けていた少女である。


 彼女の背後には、アルテンブルク侯爵家の寄子にあたる子爵家や男爵家の令嬢たちが控えていた。


「ずいぶん親しくなりましたのね」


 エーデルハイトは扇の向こうで微笑んだ。


「どうなさいますか、お姉様」


 寄子の令嬢が不安そうに尋ねる。


「何を、です?」


「リリア様のことです。教師方も調べ始めていますし……」


「私たちは、何もしておりませんわ」


 エーデルハイトは穏やかに答えた。


「制服を切れとも、物を盗めとも、申し上げておりません」


 令嬢たちは顔を見合わせた。


 確かに、直接命じられたことは一度もない。


 ただ。


『あの方には、少し貴族社会の厳しさを学んでいただく必要がありますわね』


『王太子殿下のお側へ近づくということが、どういう意味を持つのか』


『どなたか、教えて差し上げる方はいらっしゃらないのかしら』


 そう微笑まれただけだった。


 寄子の令嬢たちは、それを命令だと受け取った。


 侯爵家へ仕える家の娘として、エーデルハイトの望みを叶えることが忠義だと思っていた。


「では、もうやめてもよろしいでしょうか」


 一人が勇気を出して尋ねる。


 エーデルハイトは温室の中へ視線を戻した。


「私へ確認する必要がございますの?」


 柔らかな口調だった。


 だが、それ以上問いかけることを許さない響きがあった。


「皆様が正しいと思うことをなさればよろしいのです」


 令嬢たちは黙り込んだ。


 自分たちがしていることが正しいのか。


 本当は、もう分からなくなっていた。


     ◇


 事件は、さらに危険な形へ変わった。


 合同魔法実技の授業中。


 リリアが使用する予定だった魔力結晶が突然破裂したのである。


「きゃあっ!」


 鋭い音とともに結晶が砕け、リリアがその場へ尻もちをついた。


 教師たちが駆け寄り、演習場は騒然となる。


「怪我は?」


「大丈夫です。少し驚いただけで……」


 教師が破片を調べ、険しい顔をした。


「術式へ細工がされている」


 ざわめきが広がった。


 制服や教本とは違う。


 一歩間違えば、リリアが重傷を負っていたかもしれない。


「先生」


 エーデルハイトが一歩前へ進み出た。


 不安そうに目を伏せ、言いにくそうに口を開く。


「申し上げるべきか迷ったのですが……昨日、この結晶をご覧になっている方をお見かけしました」


「誰です」


「私の見間違いかもしれません」


 エーデルハイトは首を横へ振った。


「ですから、お名前は申し上げられません」


 名前を口にしないことが、かえって皆の想像を同じ人物へ向けた。


 王太子妃候補筆頭。


 リリアへ嫉妬する理由がある令嬢。


 呪いの人形を持つ大公家の娘。


 視線が一斉にフランチェスカへ集まる。


 だが、彼女はエーデルハイトだけを見ていた。


 この令嬢は、嘘をついていない。


 少なくとも、明確な嘘と指摘される言葉は一つも口にしていない。


 ただ事実のように見える断片を並べ、聞いた者に結論を出させている。


 諜報の世界でも警戒すべき話術だった。


「ローゼンベルク公女様」


 アレクシスが近づいてくる。


「反論なさらないのですか」


「今ここで申し上げても、感情的な弁明にしか聞こえないでしょう」


「悔しくは?」


「悔しいですわ」


 フランチェスカは率直に答えた。


「ですが、ローゼンベルク家では、悔しさだけで動く者は務まりません」


 まず事実を集める。


 判断するのは、その後。


 父ヴィルヘルムが幼い娘へ教えた言葉だった。


「学院が調べてくださいます」


「それまで待たれるのですか」


「ええ。ただし、何も見ないという意味ではありません」


 エーデルハイトへ視線を戻す。


 彼女は心配そうな顔でリリアへ寄り添っている。


 あまりに整った姿だった。


 だからこそ、一つだけ不自然なものがある。


 教師はまだ、結晶へ細工がされたと告げただけだ。


 誰が、いつ、どこで細工をしたかは分かっていない。


 それなのにエーデルハイトは、昨日この結晶を見ていた人物がいると知っていた。


 どの結晶が使われる予定だったか、事前に知らなければ成り立たない話だった。


 それは証拠ではない。


 けれど、小さな点にはなる。


     ◇


 翌日。


 女子寮の廊下で、銀製のブローチが見つかった。


 白百合を象った繊細な品で、裏にはアルテンブルク侯爵家の家紋が刻まれている。


 発見された場所は、リリアの部屋の近くだった。


 学院長室へ呼ばれたフランチェスカとリリアは、教師たちが見守る中、そのブローチを確認した。


「アルテンブルク侯爵家の品だ」


 一人の教師が言った。


「これで犯人が明らかになったのではありませんか」


「いいえ」


 フランチェスカは静かに否定した。


「この品がアルテンブルク侯爵家のものであることと、事件に関係していることは同じではございません」


「しかし」


「落とし物かもしれません。盗まれた品かもしれません。誰かが意図的に置いた可能性もございます」


 学院長が興味深そうに問いかけた。


「では、証拠にならないと?」


「証拠になり得る品ではあります。ですが、持ち主が犯人である証明にはなりません」


 リリアも頷いた。


「私も、ブローチだけでエーデルハイト様を疑いたくありません」


 学院長はしばらく二人を見つめ、やがて教師へ命じた。


「鑑定へ回せ。魔力痕、保管状態、修復の履歴まで確認しろ」


「承知しました」


 ブローチが運び出された後、学院長はフランチェスカへ向き直った。


「ローゼンベルク公女」


「はい」


「この件について、独自に動くことは控えてほしい」


「承知いたしました」


「随分と素直だな」


「学院を信頼しておりますので」


 そう答えながらも、フランチェスカの胸には違和感が残っていた。


 あまりにも都合よく現れた証拠。


 それは、エーデルハイトを告発するためではない。


 後に彼女が「盗まれた」と訴えることで、さらにフランチェスカへ疑いを向けるために置かれたのではないか。


 誰かが一度、エーデルハイトへ疑いを向ける。


 その疑いが晴れれば、次に疑われるのは誰か。


 答えは明らかだった。


     ◇


 その翌朝。


 学院の正門前に、一つの木箱が置かれていた。


 教師が慎重に蓋を開けると、中には古い着せ替え人形が収められていた。


 栗色の髪。


 象牙色のドレス。


 小柄な少女を模した顔立ち。


 パープルアイとは、姿も衣装も似ていない。


 ただ一つ。


 両目に紫色の魔石が嵌め込まれていた。


 人形の上には、一枚の紙が置かれている。


『呪われし人形が、次の主を待っている』


 門前へ集まった生徒たちの間に、恐怖が走った。


「ローゼンベルク家の人形……」


「やはり、本当に呪いが」


「次の主というのは、リリア様のことでは?」


 フランチェスカは、人々の間を抜けて木箱へ近づいた。


「学院長先生。近くで拝見してもよろしいでしょうか」


「触れないことを条件に許可しよう」


 人形の前へ膝をつき、細部を観察する。


 瞳の魔石から感じるのは、ごく弱い鎮静の魔力。


 呪詛も、攻撃術式もない。


 むしろパープルアイと同じく、心を静め、眠りを助けるために使われる種類の石だった。


「危険な術式は感じられません」


「ならば、ただの人形だと?」


「断言はできません。ですが、少なくとも、この子が誰かを傷つけることはないでしょう」


 リリアがおそるおそる尋ねた。


「怖くないのですか」


 フランチェスカは人形の紫の目を見つめた。


「いいえ」


 人形が人を呪う。


 その物語を作り上げたのも。


 人形を学院の門へ置き、恐怖を煽ったのも。


 すべて人間だ。


「人形は、人を呪いません」


 静かな声が、ざわめきの中へ落ちた。


「人を傷つけるのは、いつだって人です」


 誰も言葉を返さなかった。


 恐怖を向けられていた人形は、何も知らずに紫の瞳で空を映している。


 学院長はしばらく考えた後、フランチェスカへ尋ねた。


「この人形について、ローゼンベルク家で調べることは可能か」


「はい。工房や魔石の由来も含めて確認いたします」


「では、一時的に預けよう。ただし、学院の調査品であることを忘れぬように」


「承知いたしました」


 木箱を受け取りながら、フランチェスカは確信していた。


 これは単なる嫌がらせではない。


 誰かは、リリアを傷つけるだけでなく、ローゼンベルク家の噂そのものを利用しようとしている。


 そして、ここまで露骨に人形を持ち出した以上。


 仕掛けた者は、焦り始めている。


 事件は解決へ近づいている。


 だがフランチェスカは、まだ知らなかった。


 この人形を屋敷へ持ち帰ることが、学院の噂とは別の、長年閉ざされていた真実を暴くことになるとは。



   ◆◇◆



 学院から戻る馬車の中には、朝、正門前で見つかった人形が置かれていた。


 栗色の髪に、象牙色のドレス。


 紫の魔石を嵌め込んだ瞳だけが、ローゼンベルク家のパープルアイを連想させる。


 学院長から預かった調査品であり、由来や工房を確かめるまでは不用意に扱えない。人形は布を敷いた木箱に収められ、フランチェスカの向かいへ静かに置かれていた。


「あなたまで、呪いの人形にされてしまったのね」


 フランチェスカは小さく苦笑した。


 当然ながら、人形から返事はない。


 瞳に使われているのはどうやら精巧に作られた魔石ガラスのドールアイだろう。安眠と軽い鎮静以外の、人を傷つける術式も、誰かの魂が宿っている気配もない。


 ただの人形。


 そう分かっていても、紫の瞳を見ていると、東棟の応接室に座るパープルアイを思い出す。


 幼い頃から、何度も言葉を預けてきた友人。


 あの人形もまた、外から見れば不気味な品に映るのだろう。


 人は、知らないものへ簡単に物語を与える。


 そして一度出来上がった物語は、事実よりもしぶとく残る。


 馬車が大公邸の正門をくぐる。


 玄関前で待っていたアルベルトは、フランチェスカの姿を見ると深く一礼した。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


「ただいま戻りました」


「旦那様がお待ちでございます」


「書斎ですか」


「いいえ。応接室にて」


 老執事は、木箱へちらりと目を向けた。


「学院よりお持ち帰りになった品についても、すでにご報告が届いております」


 やはり、父の情報網は早い。


「承知しました。このまま伺います」


「それから、ヘレーネ様もお待ちでございます」


 その名前を聞いた瞬間、胸の奥へ小さな重さが落ちた。


 先日、友人を選ぶのは自分自身だと父から言われて以来、ヘレーネ先生との間には以前よりはっきりとした溝が生まれていた。


 先生は今日も、自分が未来の王太子妃になることを疑っていない。


 それ以外の道を選ぶ可能性など、初めから存在しないかのように。


「分かりました」


 フランチェスカは木箱を抱え直し、応接室へ向かった。


     ◇


「失礼いたします」


 応接室へ入ると、父ヴィルヘルムは窓際に立っていた。


 対面するように、ヘレーネ先生が椅子へ腰掛けている。


 いつもなら背筋を伸ばし、髪一本乱れていない女性である。


 しかし今日は、指先を落ち着きなく組み替え、顔色も優れない。


「来たか」


「はい、お父様」


 フランチェスカが一礼すると、ヘレーネ先生は椅子を蹴るように立ち上がった。


「お嬢様!」


 鋭い声が部屋へ響く。


「学院で、いったい何をなさっているのです!」


 フランチェスカは思わず足を止めた。


「ヘレーネ先生?」


「嫌がらせの事件へ関わり、ご自分で調べようとなさったそうですね」


「学院長先生の調査へ協力しただけです」


「そのようなことを申し上げているのではありません!」


 ヘレーネ先生の声は、普段の冷静さを失っていた。


「お嬢様は未来の王妃となられるお方です。噂や犯罪へ近づき、ご自身を危険へさらすなど、あってはなりません!」


「ですが、私自身にも疑いが向けられております」


「だからこそ、黙っていればよいのです!」


「……黙って?」


「大公家が動けば、いずれ事実は明らかになります。お嬢様がご自分で動く必要などございません!」


 その言葉を聞き、フランチェスカの胸の中で何かが静かに冷えた。


 黙って耐える。


 誰かが解決してくれるのを待つ。


 自分の意思も、苦しさも口にしない。


 それは幼い頃から繰り返し教え込まれてきた生き方だった。


「ヘレーネ先生」


 フランチェスカは、努めて穏やかに呼びかけた。


「私はもう、自分に関わることを何も知らずに待っているだけではいたくありません」


「何を……」


「誰が傷つけられたのか。なぜ私が疑われたのか。何が事実なのか」


 木箱を抱えたまま、真っ直ぐ先生を見る。


「それを知ろうとすることが、公女として間違っているとは思いません」


「間違っています!」


 ヘレーネ先生は激しく首を横へ振った。


「お嬢様は王太子殿下だけをご覧になればよいのです」


「余計なことへ心を向けてはなりません」


「ご友人も、進路も、家業も、すべて王太子妃となるために選ばなければ!」


「もうよい」


 低く静かな声が、二人の間へ落ちた。


 ヴィルヘルムだった。


 父はゆっくりとヘレーネ先生へ向き直る。


「ヘレーネ」


「ヴィル様、どうかお聞きください。お嬢様は以前とは違います。学院へ入ってから、ご自分の役目を忘れ始めて――」


「娘の役目を決めるのは、お前ではない」


 ヘレーネ先生の顔から血の気が引いた。


 ヴィルヘルムは声を荒らげていない。


 だが、大公として命令を下す時の声だった。


「お前は、フランチェスカを教育する立場を越えた」


「友人を選ぶことを妨げ、私が命じてもいない将来を絶対のものとして押しつけた」


「今日限りで、お前をガヴァネスの任から解く」


 しん、と室内が静まり返る。


「……ヴィル様?」


 ヘレーネ先生は、聞き間違いを疑うように瞬きをした。


「私は、お嬢様のために」


「分かっている」


「この家のために、十年以上も」


「その働きには感謝している」


「ならば、どうして!」


 先生の声が裏返る。


「私は誰よりもお嬢様を立派に育てました」


「礼法も、学問も、魔法も、すべて完璧です」


「王妃陛下にも認められ、殿下の婚約者候補筆頭にまで――」


「それが、あの子の望みだったのか」


 ヘレーネ先生は言葉を失った。


「お前は一度でも、フランチェスカ自身へ尋ねたのか」


「何になりたいのか」


「誰と話したいのか」


「何がつらいのか」


 ヴィルヘルムの問いに、先生の唇が震えた。


「そのようなものは……」


「王妃となれば、必要なくなります」


「個人の望みなど、家の責務の前では」


「だから、任を解く」


 父の言葉は揺るがなかった。


 ヘレーネ先生は、信じていた世界が音を立てて崩れていくのを見るような顔をしていた。


「違う……」


 掠れた声が漏れる。


「私は間違ってなど……」


 その視線が、フランチェスカの抱える木箱へ落ちた。


 紫色の瞳が、蓋の隙間から覗いている。


 途端に、先生の表情が凍りついた。


「それは……」


「学院の門前に置かれていた人形です」


「どうして、お嬢様が」


「学院長先生から調査を任されました」


「調査……」


 先生の呼吸が浅くなる。


「また、あの人形が」


「ヘレーネ先生?」


「全部、あの人形のせいです!」


 突然の叫びに、フランチェスカは木箱を抱き寄せた。


「お嬢様は、昔からあの人形へ話しかけていた」


「私がどれほど教えても、あの子の前でだけ弱い言葉を吐いて」


「学院へ入ってから変わってしまったのも、きっとあれが――」


「ヘレーネ」


「フランチェスカは、あの人形に私を呪わせたのです!」


 先生の瞳は、もう目の前の人間を見ていなかった。


「私をこの家から追い出すために」


「ヴィル様のお心を変えるために」


「違います」


 フランチェスカは首を横へ振った。


「この子は、パープルアイではありません」


「嘘です!」


「では、ご覧ください」


 フランチェスカは木箱を卓上へ置き、蓋を開いた。


 中に収められていた人形の全身が露わになる。


 栗色の髪。


 少し日焼けしたような肌。


 旅装を思わせる象牙色の衣装。


 小柄で素朴な顔立ち。


 パープルアイとは、紫色の瞳以外、何一つ似ていない。


 ヘレーネ先生は、伸ばしかけた手を止めた。


「……違う」


 その声から力が抜けていく。


「この子ではない」


「はい」


「では、あの人形は……」


 先生の視線が、応接室の奥へ向いた。


 窓辺には、立派な古い椅子が置かれている。


 そこへパープルアイが、いつもと変わらぬ姿で座っていた。


 淡い金髪。


 白磁の肌。


 フランチェスカとよく似た紫の瞳。


 先生の顔が、みるみる青ざめていく。


「ずっと、そこに……」


 フランチェスカが学院から持ち帰った人形と、パープルアイ。


 二体は紫の瞳を持つという以外、まったく異なる。


 それでも先生は、木箱を見ただけで「あの人形」と決めつけた。


 人形そのものを見ていたのではない。


 自分の恐怖を見ていたのだ。


「私は……」


 ヘレーネ先生が一歩後ずさる。


「私は、お嬢様を守ろうと」


 もう一歩。


「正しく、育てようと」


 足元が揺らぐ。


「ヘレーネ先生!」


 フランチェスカが駆け寄るより早く、先生の身体から力が抜けた。


 倒れかけた身体を、近くに控えていたアルベルトが支える。


「気を失っておられます」


「医師を呼べ」


「承知いたしました、旦那様」


 アルベルトは使用人へ指示を出し、ヘレーネ先生を別室へ運ばせた。


 扉が閉じる。


 応接室に残されたのは、父と娘。


 そして二体の人形だった。


 長い沈黙の後、ヴィルヘルムが口を開く。


「フランチェスカ」


「はい」


「今夜、お前へ話しておかなければならないことがある」


     ◇


 学院から持ち帰った人形は、調査のため別の卓上へ移された。


 ヴィルヘルムは窓辺へ歩き、パープルアイの前で足を止める。


「まず、この人形について話そう」


「はい」


「世間で言われているような、呪いの人形ではない」


 あまりにも明快な言葉に、フランチェスカは瞬きをした。


「少なくとも、ローゼンベルク家はそのようなものとして所有していない」


「では、あの噂は」


「我が家の仕事の結果だ」


 父は苦笑した。


「ローゼンベルク家へ敵対した者が失脚する」


「不正が暴かれ、商会が潰れ、時には謀反人が捕らえられる」


「しかし、世間は我々の諜報活動を知らない」


「だから、分かりやすい理由を作った」


「人形に呪われた、と」


 フランチェスカは、力が抜けるような気持ちになった。


「では、家はその噂を訂正しなかったのですね」


「ああ。恐れられている方が、仕事には都合がよかった」


 人形へ不用意に触れる者もいない。


 屋敷の東棟へ入り込もうとする者も減る。


 敵対者への心理的な牽制にもなる。


 呪いの人形とは、ローゼンベルク家の影を隠すための便利な物語に過ぎなかった。


「パープルアイそのものは、三百年以上前に作られた着せ替え人形だ」


「服や髪を変え、子どもへ諸外国の文化や礼法を教えるためにも使われたらしい」


「美術的にも歴史的にも価値が高い」


 父は人形の紫の瞳へ視線を向ける。


「瞳は魔石だ。術式はごく弱い」


「精神を落ち着かせ、眠りを助ける程度しかない」


「人を操る力も、魂を閉じ込める力もない」


「……そうでしたのね」


 思えば、幼い頃からパープルアイの前へ座ると、心が少し落ち着いた。


 人形が自分を理解していると思っていたのは、魔石の作用と、自分自身の想像によるものだったのだろう。


 ヴィルヘルムは椅子に座る人形を見たまま、静かに続けた。


「お前が六歳の頃から、毎晩この子へ話しかけるようになった」


「私は、アンナマリアを亡くした寂しさからだと思っていた」


「母親のいない娘が、その面影を人形へ求めているのだと」


 父の声に苦いものが混じる。


「魔石がお前の心を落ち着かせることも知っていた」


「支えになっているなら、それでよいと思った」


「ヘレーネの教育が厳しいことも知っていたが、お前は常に優秀だった」


「弱音を吐かず、礼法も学問も魔法も、求められた以上にこなしていた」


 ヴィルヘルムは、ゆっくりと首を横へ振る。


「私は、それを順調に育っている証だと勘違いした」


「助けを求めることを諦めていたのかもしれないとは、考えもしなかった」


 フランチェスカは、パープルアイを見つめた。


 幼い自分。


 小さな椅子を運び、人形の前へ座る少女。


 その日の出来事を、誰にも聞かれないように話す。


 褒められたかったこと。


 失敗したこと。


 先生に叱られたこと。


 怖かったこと。


 ところどころ、記憶は霧に覆われている。


 けれど、人形の前にいる時だけ呼吸が楽だった感覚は、確かに残っていた。


「ヘレーネが今日、あのように取り乱して、ようやく考えた」


「彼女が恐れていたのは、この人形ではない」


「お前が人形へ何を話していたか、その事実だったのではないかと」


 フランチェスカは目を伏せる。


「私も、すべては思い出せません」


「だが、私は父親として、お前が何も言わないことへ甘えていた」


 ヴィルヘルムは娘へ向き直った。


「見ているつもりで、見ていなかった」


「すまなかった、フランチェスカ」


 大公としての謝罪ではなかった。


 一人の父として、娘へ頭を下げる言葉だった。


 フランチェスカは、すぐには答えられなかった。


 父を責めようと思えば、責めることはできる。


 けれど父もまた、亡き妻を失い、家と王国の重責を背負いながら、正しい父親であろうとしていた。


 ただ、正しさを間違えた。


 それはヘレーネ先生も同じなのかもしれない。


 正しく育てようとして。


 立派な王妃にしようとして。


 自分の理想だけを見つめ、目の前の少女を見失った。


「お父様」


 フランチェスカは、ゆっくりと父を見る。


「私は、お父様だけを責めることはできません」


「私自身も、何がつらいのかを言葉にできませんでした」


「それは、子どもだったお前の責任ではない」


「はい」


 フランチェスカは、ほんの少し笑った。


「ですから、これから覚えます」


「何をだ」


「困った時に、困ったと申し上げることを」


 ヴィルヘルムの紫の瞳が、わずかに揺れた。


「そして、お父様にも話します」


「この子だけではなく」


 二人の視線が、パープルアイへ向く。


 人形は何も語らない。


 ただ立派な椅子へ座り、ランプの明かりを紫の瞳へ映している。


 フランチェスカはその前へ歩み寄った。


「長い間、聞いてくれてありがとう」


 幼い頃から何度も繰り返した言葉。


 けれど、その意味は以前とは違っていた。


「これからも、あなたは私の大切な友人よ」


「でも、もうあなた一人に、すべてを預けたりはしないわ」


 人形へ一礼して、父の方を振り返る。


「お父様」


「ああ」


「まず、学院の事件について相談してもよろしいでしょうか」


 ヴィルヘルムは一瞬だけ驚き、それから穏やかに笑った。


「もちろんだ」


 その夜。


 フランチェスカは初めて、人形の部屋ではなく父の隣で、自分が見聞きしたすべてを話した。



 ◆◇◆



 学院で起きた事件の真相が明らかになったのは、それから数日後のことだった。


 きっかけは、アルテンブルク侯爵家の寄子である一人の子爵令嬢だった。


 彼女は青ざめた顔で学院長室を訪れ、もう隠しておくことはできないと訴えた。


 制服を切り裂いたこと。


 教本へインクをかけたこと。


 盗んだ品をリリアの机へ忍ばせたこと。


 それらを、同じ寄子の令嬢たちと手分けして行ったこと。


 学院の門前へ置かれた人形も、彼女たちが古物商から入手したものだった。


 紫の魔石を瞳に使った古い人形なら、ローゼンベルク家の家宝と結び付けられる。


 そう考えたのだという。


 彼女たちは、エーデルハイト・フォン・アルテンブルク侯爵令嬢から、はっきりと命じられたわけではなかった。


『リリア様には、少し貴族社会の厳しさを学んでいただいた方がよろしいでしょうね』


『どなたか、身の程というものを教えて差し上げる方はいらっしゃらないのかしら』


『ローゼンベルク公女様なら、きっとお分かりになるでしょうけれど』


 そう言われただけだった。


 だが、侯爵家の寄子として育てられた令嬢たちは、その言葉を命令と受け取った。


 エーデルハイトの望みを先回りして叶えることが、忠誠だと信じていたのである。


 嫌がらせを重ねれば、リリアは学院を去る。


 同時に、王太子妃候補筆頭であるフランチェスカへ疑いを向けることもできる。


 そうすれば、エーデルハイトが王太子妃に選ばれる可能性が高くなる。


 少なくとも、寄子の令嬢たちはそう考えていた。


 しかし、魔力結晶への細工が失敗し、リリアが負傷しかけたことで、彼女たちは恐ろしくなった。


 制服や教本とは違う。


 一歩間違えれば、人の命を奪っていたかもしれない。


 それでもエーデルハイトは、止めろとは言わなかった。


 ただ微笑み、


『皆様が正しいと思うことをなさればよろしいのです』


 と繰り返した。


 その言葉を聞いた時、子爵令嬢はようやく気付いたのだという。


 自分たちは守られていない。


 成功すれば忠実な寄子。


 失敗すれば、命令されてもいないことを勝手に行った愚かな令嬢として切り捨てられる。


 その恐怖が、彼女を学院長室へ向かわせた。


     ◇


 学院長室には、事件の関係者だけが集められた。


 学院長と数名の教師。


 レオンハルト第一王子。


 被害を受けたリリア。


 濡れ衣を着せられたフランチェスカ。


 そして、エーデルハイトと寄子の令嬢たち。


 令嬢たちは泣きながら、自分たちがしたことを認めた。


「制服を切ったのは、私です」


「リリア様の教本へインクをかけました」


「ブローチを置いたのは私です」


 白百合のブローチは、エーデルハイトの私室から盗み出されたものだった。


 後から彼女が盗難を訴えれば、リリアの部屋の近くへ侯爵家の品を置いた人物へ疑いが向く。


 そして最も疑われやすいのは、すでに犯人と噂されていたフランチェスカである。


「学院の門へ、人形を置いたのも私たちです」


 子爵令嬢の声は震えていた。


「呪いの噂が広まれば、皆様はローゼンベルク公女様を恐れると思いました」


「申し訳ございませんでした」


 彼女たちは床へ額がつくほど深く頭を下げた。


 学院長はしばらく沈黙し、やがてエーデルハイトへ視線を向けた。


「アルテンブルク侯爵令嬢」


「はい」


 エーデルハイトは、いつもと変わらぬ姿勢で立っていた。


 顔色こそ白かったが、背筋はまっすぐに伸びている。


「彼女たちへ、嫌がらせを命じたか」


「いいえ」


 迷いのない返答だった。


「制服を切れとも、物を盗めとも、人形を置けとも申し上げておりません」


「その点につきましては、皆様も認めていらっしゃいます」


 学院長は重々しく頷いた。


「確かに、直接の命令は確認されていない」


「しかし、お前は自らの言葉が、寄子の者たちにどのような意味を持つか理解していたのではないか」


 エーデルハイトは答えなかった。


「彼女たちが何をしているか、まったく知らなかったのか」


「……途中からは、察しておりました」


「なぜ止めなかった」


 長い沈黙の後、エーデルハイトは静かに目を伏せた。


「リリア様が、王太子殿下のお側にいることを快く思っておりませんでした」


 リリアの肩が小さく揺れる。


「平民同然に育った方が、突然貴族として学院へ入り、王太子殿下や高位貴族の方々から特別に扱われる」


「それが、許せなかったのです」


「では、ローゼンベルク公女へ疑いを向けたことは」


「公女様は、多少の噂では揺らがないと思っておりました」


 フランチェスカは、静かにエーデルハイトを見つめた。


「私が疑われても構わないと?」


「……はい」


 エーデルハイトは、初めて真っ直ぐにフランチェスカを見た。


「あなたは、すべてをお持ちですもの」


 王家に最も近い血筋。


 大公家という地位。


 王太子妃候補筆頭の立場。


 美貌。


 教養。


 魔法の才。


 エーデルハイトの瞳には、長く押し隠されていた感情が滲んでいた。


「少しくらい失っても、何も変わらない方だと思っておりました」


 その言葉を聞いても、フランチェスカは腹を立てなかった。


 ただ、少しだけ悲しくなった。


 エーデルハイトは、フランチェスカが持っているものだけを見ていた。


 その陰で、何を求められ、何を諦め、どれほど息苦しく生きてきたのかは知らない。


 けれど、それはフランチェスカも同じだった。


 侯爵令嬢として王太子妃を目指すエーデルハイトが、どのような教育を受け、何を背負ってきたのかを知ろうとはしていなかった。


 互いに一人の人間ではなく、家と立場だけを見ていたのだ。


「学院長先生」


 フランチェスカは静かに口を開いた。


「発言をお許しいただけますでしょうか」


「許可する」


 フランチェスカは寄子の令嬢たちへ目を向けた。


「私は、皆様を許すとは申し上げません」


 令嬢たちの肩が震える。


「許す資格があるのは、実際に私物を傷つけられ、危険へさらされたリリア様です」


「私が受けたのは、疑いと噂です」


「それも決して軽いものではございませんが、被害を一つにまとめて扱うべきではありません」


 続いて、エーデルハイトを見る。


「私を陥れようとしたことについては、謝罪を求めます」


 エーデルハイトは唇を引き結び、やがて深く頭を下げた。


「申し訳ございませんでした」


「謝罪はお受けします」


 フランチェスカは一礼を返した。


「ですが、私が謝罪を受け入れたことと、学院や各家が責任を問うことは別です」


「はい」


「寄子の皆様も」


 令嬢たちが顔を上げる。


「命じられたと思ったから、とおっしゃいましたね」


「はい……」


「では、次に同じことがあった時は、一度だけ考えてください」


「それを行うのは、自分の手です」


「命じた方が罰を受けるとしても、傷つけられた人にとっては、誰の考えであったかなど関係ありません」


 震える令嬢たちの手には、インクをかけた感触も、布を切り裂いた感触も残っているのだろう。


「誰かの立場を守るために、自分の良心を預けないでください」


 それは、かつて人形へ心を預けていた自分にも向けた言葉だった。


 寄子の令嬢たちは泣きながら頷き、リリアの前へ進み出た。


「申し訳ございませんでした」


「本当に、ごめんなさい」


 リリアは、すぐには答えなかった。


 許してしまうのは簡単だ。


 だが、それで傷が消えるわけではない。


「私は、皆さんがしたことを忘れられないと思います」


 やがて、はっきりと言った。


「今すぐ許すこともできません」


 令嬢たちは俯いた。


「でも、本当に反省しているなら、これからどうなさるのかを見たいと思います」


 リリアらしい答えだった。


 優しいが、自分を傷つけたことまで無かったことにはしない。


 フランチェスカは、以前よりずっと頼もしくなった友人を見て、わずかに微笑んだ。


     ◇


 事件に関与した令嬢たちには、それぞれの行為に応じた処分が下された。


 寄子の令嬢たちは停学となり、学院の奉仕活動へ参加することを命じられた。


 魔力結晶へ直接細工を施した令嬢については、さらに重い処分が科された。


 エーデルハイトは、心身の療養を理由に休学した。


 その後、学院へ戻ることはなかった。


 一年も経たないうちに、隣国の由緒ある伯爵家へ嫁いだという知らせだけが届いた。


 それが罰だったのか。


 家同士で決められていた縁談を早めただけなのか。


 真実を知る者は少ない。


 社交界では、また新しい物語が生まれた。


「ローゼンベルク家を陥れようとした報いですって」


「やはり、あの人形に呪われたのでしょう」


「大公家へ仇なす者は、皆ああなるのね」


 噂は、事実を知らないまま勝手に育っていった。


     ◇


「……まったく」


 その噂を耳にしたフランチェスカは、小さくため息をついた。


 卒業を目前に控えた学院の温室。


 窓から差し込む春の日差しの下で、フランチェスカはティーポットを傾けていた。


 カップへ琥珀色の紅茶が注がれる。


「どうぞ」


「ありがとうございます、ローゼンベルク公女様」


 リリアが嬉しそうにカップを受け取る。


 向かいに座るアレクシスも一礼した。


「今日も見事なお茶ですね」


「王妃教育の成果ですわ」


「それだけでしょうか」


「どういう意味です?」


「以前よりも、随分楽しそうに淹れていらっしゃいます」


 言われて、フランチェスカは自分の手元を見た。


 確かに、茶葉の量やポットを置く音ばかりを気にしてはいなかった。


 二人がどの茶葉を好むか。


 菓子にはどの香りが合うか。


 そんなことを考えながら淹れていた。


「飲んでくださる方がおりますもの」


 フランチェスカは素直に答えた。


「おいしく召し上がっていただきたいでしょう?」


 リリアとアレクシスが顔を見合わせ、柔らかく笑った。


 学院へ入学したばかりの頃なら、その笑顔を見て、自分が何か間違えたのではないかと不安になっていたかもしれない。


 今は、二人が喜んでくれているのだと、そのまま受け取ることができた。


「そういえば」


 リリアが菓子を一つ摘みながら言った。


「お二人は、卒業後の進路をもうお決めになりましたか?」


「リリア様は、院へ進まれるのでしたね」


「はい」


 学院には、卒業試験で特に優秀な成績を収めた者だけが進める研究課程がある。


 貴族と平民の区別なく選抜され、専門的な学問や王国行政について学ぶ場所だった。


「将来は、王宮官吏を目指そうと思っています」


「聖女として教会へ入られるのではなく?」


「教会からもお話はいただきましたけれど」


 リリアは困ったように笑った。


「私、祈り続けるより、書類を片づけたり、人のお話を聞いたりする方が向いている気がするんです」


「実にリリア様らしい選択ですわ」


「褒めてくださっています?」


「もちろんです」


 聖女の資質があるからといって、教会へ入る義務はない。


 誰かが用意した役割ではなく、自分にできる仕事を選んだリリアの姿は、フランチェスカには眩しく映った。


「レオンハルト殿下も、同じ院へ進まれるそうですよ」


「殿下も?」


「はい。王太子としての公務と並行して、行政と外交を学ばれるとか」


 リリアは指折り数え始めた。


「騎士団長のご子息は近衛騎士団へ。財務大臣のご子息は、そのまま財務省へ入られるそうです」


「大商会のご子息は、ご実家の仕事へ戻られると聞きました」


「皆様、それぞれの道へ進まれるのですね」


「はい」


 ゲームでは、攻略対象者の卒業後は、主人公が誰を選ぶかによって決まった。


 王子を選べば王妃となり。


 騎士を選べば騎士団へ。


 商人を選べば商会へ。


 画面の中では、彼らの人生は主人公との恋愛を中心に作られていた。


 けれど現実には、誰もが自分の責任と希望を持って進路を選んでいる。


 それをリリアの口から、友人たちの近況として聞いている。


(……本当に、蚊帳の外だわ)


 フランチェスカは紅茶を一口飲み、思わず微笑んだ。


 かつては、攻略対象者たちの恋愛に割り込み、破滅する役だった。


 今は、彼らが誰を好きなのかさえ詳しく知らない。


 実に平和である。


「ローゼンベルク公女様?」


 アレクシスが首を傾げた。


「何か、面白いことでも?」


「いいえ」


 フランチェスカは自然に笑った。


「少し、嬉しくなっただけです」


「嬉しい?」


「ええ。ようやく、自分の人生を歩けている気がいたしまして」


 二人には意味が分からなかっただろう。


 それでも、その言葉を否定せずに受け止めてくれた。


「ローゼンベルク公女様は、卒業後どうなさるのですか」


 リリアに問われ、フランチェスカはカップを置いた。


「私は、王太子妃候補を辞退いたしました」


「えっ?」


 リリアが大きな目をさらに丸くする。


 アレクシスは驚きながらも、どこか納得したような顔をした。


「春の社交シーズンを終えたら、大公領へ移ります」


「お父様のもとで、領地経営と家の仕事を本格的に学ぶ予定です」


「では、女大公を目指されるのですね」


「はい」


 フランチェスカは迷わず頷いた。


「まだまだ学ぶことばかりですけれど」


 いつか、父の跡を継ぐ。


 王国の表ではなく、影から国を支える。


 その道は、王妃になるよりも楽ではないだろう。


 けれど、自分で選んだ未来だった。


「アレクシス様は?」


 リリアが尋ねる。


「私は一度帰国し、留学中の研究成果を報告いたします」


 アレクシスは穏やかに答えた。


「その後は、我が家が持つ子爵位を継ぐ準備へ入ります」


「伯爵家のご三男でしたわね」


「ええ。兄が伯爵家を継ぎ、次兄は軍へ入りましたので、私は分家の子爵家を任される予定です」


「皆様、忙しくなりますね」


 リリアは少し寂しそうに笑った。


「ですが、会えなくなるわけではありませんわ」


 フランチェスカが言う。


「手紙もあります。王都へ来る機会もあるでしょう」


「そうですね」


 友人と離れる寂しさを、以前のフランチェスカなら人形へだけ話していただろう。


 今は、寂しいと感じた時に、寂しいと口にできる。


 その違いは小さく見えて、彼女にとっては何より大きな変化だった。


     ◇


 卒業式の日。


 春の陽光が、大講堂の高い窓から差し込んでいた。


 壇上では、レオンハルト第一王子が卒業生代表として答辞を述べている。


 澄んだ声。


 堂々とした立ち姿。


 王太子として人前に立つことへ慣れているとはいえ、学院生活を締めくくる言葉には、年相応の感慨が滲んでいた。


 卒業試験の首席はリリアだった。


 二位はフランチェスカ。


 三位はアレクシス。


 レオンハルトは四位である。


 もっとも、王太子として公務を行いながらの四位だった。


 決して軽い成果ではない。


(殿下も、よく努力なさったのね)


 ゲームの中では、攻略対象者としてしか見ていなかった。


 けれど現実の彼は、王太子としての責任を背負いながら、学院の課題にも真面目に取り組んだ一人の青年だった。


 先日、王太子妃候補を辞退した時のことを思い出す。


 国王は、しばらく難しい顔でフランチェスカを見つめていた。


 王妃は、隠そうともせず残念そうな表情を浮かべた。


『あなたなら、よい王妃になれたでしょうに』


 そう言いながらも、最後にはフランチェスカの選択を認めてくれた。


 意外だったのはレオンハルトである。


『本当に、それでよいのか』


 彼はどこか悔しそうに尋ねた。


 フランチェスカは、てっきりリリアとの仲を応援してもらえることを喜ぶと思っていた。


 だが当のリリアは、王太子を友人として尊敬してはいるものの、今のところ恋愛にはあまり関心がないらしい。


(恋愛ゲームの主人公なのに)


 現実とは、つくづく筋書きどおりには進まない。


 レオンハルトの答辞が終わる。


 講堂へ大きな拍手が響いた。


 フランチェスカもまた、心から拍手を送った。


 悪役令嬢としてではなく。


 ともに三年間を学んだ、同級生の一人として。


     ◇


 夜には卒業舞踏会が開かれた。


 学院の大広間には、無数の魔法灯が星のように浮かび、卒業生たちの晴れ着を照らしている。


 楽団が最初のワルツを奏で始める。


「フランチェスカ嬢」


 差し出された手を見て、フランチェスカはわずかに目を見開いた。


 レオンハルトだった。


「最初の一曲を、お相手願えますか」


「喜んで」


 礼を取り、王太子の手を取る。


 周囲から小さなどよめきが上がった。


 王太子妃候補を辞退したとはいえ、二人が不仲になったわけではない。


 最後に一曲踊る程度なら不自然ではないだろう。


 レオンハルトの導きは安定していた。


 公務の合間にも、王族として舞踏を学んできたのだ。


「フランチェスカ嬢」


「はい」


「一つ、尋ねてもよいか」


「何でしょう」


「恋人がいるのか」


「いいえ」


 即答すると、王太子の眉がわずかに動いた。


「では、なぜ候補を辞退した」


「父の仕事を継ぎたいと思ったからです」


「それだけか」


「それだけ、とは?」


 レオンハルトは、しばらく言葉を選んでいた。


「王妃になりたくなかったわけではない、と?」


「えっ?」


 予想していなかった問いに、フランチェスカの足がわずかに乱れた。


 レオンハルトが素早く支え、何事もなかったように次のステップへ移る。


「殿下。それはどういう――」


 音楽が終わった。


 拍手が広がり、二人は礼を交わす。


「どうやら時間切れのようだ」


 レオンハルトは、ほんの少し不満そうに言った。


「殿下」


「続きはいずれ」


「続きがあるのですか?」


 問い返すより早く、別の声が二人の間へ入った。


「殿下。次の曲は、私へお譲りいただけますでしょうか」


 アレクシスだった。


 穏やかな笑顔を浮かべているが、引くつもりはまったくないらしい。


 レオンハルトは彼を見つめ、やがて小さく苦笑した。


「随分と堂々としているな」


「帰国まで時間がございませんので」


「なるほど」


 王太子はフランチェスカの手を離した。


「では、譲ろう」


「ありがとうございます」


 次の曲が始まる。


 アレクシスの手を取り、再び踊り始めた。


「随分と強引でしたわね」


「申し訳ありません」


 謝ってはいるものの、反省はしていない顔だった。


「ですが、私にもお伝えしたいことがございます」


「何でしょう」


 アレクシスは、真っ直ぐにフランチェスカを見つめた。


「帰国し、父と兄へ報告を済ませましたら、ローゼンベルク大公へ正式に申し込みをさせていただくつもりです」


「……何の、でしょう」


「婚約の申し込みです」


「え?」


 思わず聞き返す。


「私は三男です」


「それは存じています」


「婿入りを希望しております」


「え?」


「もちろん、今すぐご決断いただくつもりはありません」


 アレクシスは、少しだけ照れたように笑った。


「ですが、せめてお互いを今より深く知る機会をいただけませんか」


 フランチェスカは、しばらく言葉を失った。


 王太子妃候補を辞退した後は、大公家を継ぐための勉強をする。


 やがて相応しい相手を見つける。


 結婚し、子どもを二人ほど授かり、家が安定した頃に父から爵位を継ぐ。


 そうなれば理想的だと、漠然と考えていた。


 その「相応しい相手」が、自ら婿入りを申し出て目の前で踊っている。


 しかも、三年間を通して、もっとも自然に言葉を交わせた相手だった。


「フランチェスカ様?」


 初めて、肩書ではなく名前で呼ばれた。


 胸の奥が、わずかに熱くなる。


「……すぐにお返事はできません」


「承知しております」


「大公家へ婿入りするということは、簡単なことではございません」


「それも理解しております」


「私の家は、表から見えるほど穏やかな家ではありませんわ」


「三年間、あなたを見ていて、多少は想像しております」


「多少では困ります」


「では、これから教えてください」


 あまりにも自然に返され、フランチェスカはとうとう笑ってしまった。


「分かりました」


「では」


「まずは、お友達からお願いいたします」


 アレクシスも笑った。


「喜んで」


 音楽は続いている。


 周囲では、卒業生たちがそれぞれの相手と踊り、笑い合っていた。


 フランチェスカは、ふと思う。


 幼い頃。


 誰にも言えなかったことは、すべてパープルアイへ話した。


 嬉しかったこと。


 悲しかったこと。


 寂しかったこと。


 怖かったこと。


 人形は一度も答えなかった。


 ただ静かに、彼女の言葉を受け止め続けた。


 それは決して無駄な時間ではない。


 あの子がいたから、フランチェスカは心を失わずに済んだ。


 けれど今は。


 父へ相談できる。


 リリアと笑い合える。


 自分の考えをレオンハルトへ伝えられる。


 そして、目の前の青年と、これから互いを知っていこうとしている。


 物語は、卒業しても続いていく。


 領地へ移った日のこと。


 初めて諜報の仕事へ関わった日のこと。


 父と意見を違えた日のこと。


 アレクシスから正式な申し込みが届いた日のこと。


 嬉しいことも。


 困ったことも。


 きっと、これからいくつも起こるだろう。


 それを語る相手は、もう人形だけではない。


 それでも。


 屋敷へ帰れば、パープルアイは今日も立派な椅子へ座り、紫の瞳で静かに迎えてくれる。


 あの子は、これからもフランチェスカの大切な友人だ。


 ただ、彼女の心はもう、人形だけに預けられてはいなかった。

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