第七話 アリアの暴走と王子の焦り
手から滑り落ちた果物が、地面で鈍い音を立てて潰れた。
「……フェン?」
私の隣で笑っていたはずの彼が、突然胸を押さえて膝をついた。
その顔からは、一瞬にして血の気が引いている。
『ぐ……あぁぁぁっ!』
苦悶のうめき声。
ただの腹痛じゃない。
アニマル・エンパシーを持つ私には、痛いほど伝わってきた。
彼の体の奥底を、焼けた鉄の鎖でギリギリと締め上げられるような激痛。
「フェン! しっかりして!」
私は彼に駆け寄り、背中を支えた。
触れた肌は高熱を発しているのに、脂汗で冷たい。
『……あの、愚か者どもが……っ』
フェンが血を吐くように言葉を絞り出す。
『禁忌の……「隷属の首輪」を……起動させやがった……!』
「隷属の首輪?」
『我を……無理やり呼び戻すための……呪具だ……!』
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に悪寒が走った。
視線を上げる。
森の木々の隙間から見える南の空――王都の方角が、ドス黒い紫色の光に覆われていた。
◇
時間は少し遡る。
王城の地下、儀式の間。
「これで本当に呼び戻せるんだろうな!?」
カイル王子が叫んだ。
彼の目の前には、禍々しいオーラを放つ黒い水晶玉が置かれている。
王家に代々伝わる、神獣を強制的に従わせるための最終兵器だ。
ただし、神獣の精神を破壊するリスクがあるため、使用は固く禁じられていた。
「ええ、大丈夫ですわよぉ」
アリアが水晶玉に手をかざしながら、気だるげに答えた。
彼女の顔には、罪悪感の欠片もない。
「あの犬っころが戻ってきて結界さえ張れば、私の評判も元通り。魔物なんて怖くありませんわ」
「し、しかし、父上は使うなと……」
「国が滅びたら元も子もありませんでしょ? さあ、王子も魔力を込めてくださいな」
アリアに促され、カイル王子は震える手で水晶に触れた。
彼らの魔力が吸い取られ、増幅された呪いとなって空へ放たれる。
「来い……戻って来い、フェンリル! 僕の命令を聞け!」
ブォォォン……!
不気味な低周波が、王都の空気を震わせた。
◇
『ガハッ……!』
フェンが地面に手をつき、激しく嘔吐いた。
彼の首元に、目に見えない「何か」が巻き付いているのがわかる。
魔法の鎖だ。
それが彼を王都の方角へと引きずろうとしている。
「やめて……やめてよ!」
私はフェンの首に手を当て、必死に浄化の力を送った。
けれど、相手は国宝級の魔道具だ。
私の力では痛みを和らげるのが精一杯で、呪いそのものを解除できない。
『ミナ……離れろ……』
フェンが苦しげに私を突き放そうとする。
『意識が……持っていかれる……。このままだと、暴走して……お前を傷つけるかも……』
彼の黄金の瞳が、時折赤く濁る。
理性を破壊され、ただ命令に従う殺戮マシーンに変えられようとしているのだ。
「嫌よ! 離れない!」
私はフェンにしがみついた。
涙が溢れてくる。
許せない。
本当に、許せない。
散々こき使って、汚いと罵って捨てたくせに。
今さら自分たちが困ったからといって、こんな暴力的な方法で連れ戻そうとするなんて。
フェンは道具じゃない。
心を持った、誇り高い生き物なのに。
「……ふざけないで」
私の中で、何かが燃え上がった。
それは恐怖を焼き尽くすほどの、激しい怒りだった。
「私のフェンに、なにするのよ……!」
私の感情に呼応するように、森の動物たちが集まってきた。
彼らもまた、怒っていた。
森の王を傷つける人間たちに対して、牙を剥いている。
「フェン」
私は彼の手を強く握りしめた。
私の掌から、ありったけの「癒やし」と「正気」を流し込む。
「私を見て。あんな呪いなんかに負けないで」
『……ミナ……』
「あなたは誰の命令も聞かなくていい。あなたの主は、私だけでしょ?」
『……ああ、そうだ……』
フェンの瞳から、赤い色が消えていく。
代わりに、以前のような強い光が戻ってくる。
『俺様の心は……誰にも渡さん……!』
バヂヂッ!
フェンの首元で、何かが弾ける音がした。
完全な破壊ではないが、強制力に抗うことには成功したようだ。
彼は荒い息を吐きながら、ゆっくりと立ち上がった。
その表情は、もう苦痛に歪んでいない。
冷徹な、王の顔に戻っていた。
『……よくもやってくれたな、あの下等生物ども』
フェンがギリリと歯を鳴らす。
周囲の空気がビリビリと振動し、地面の草が恐怖で萎れるほどの殺気だ。
『ただじゃおかん。国ごと灰にしてやる』
「待って」
私は彼の手を引いた。
「灰にするのは簡単よ。でも、それじゃあ私たちが悪者になって終わるわ」
『では、どうする。このまま泣き寝入りか?』
「まさか」
私は王都の方角を睨み据えた。
今すぐにでもあそこへ飛んでいって、あの馬鹿王子と偽聖女の顔をひっぱたいてやりたい。
「乗り込みましょう、フェン」
『ほう?』
「正面から堂々と行って、皆の前で彼らの愚かさを暴いてやるの。本物の聖女と神獣が誰なのか、思い知らせてやりましょう」
逃げるのはもう終わりだ。
隠れ住むのもやめる。
私の大切なパートナーを傷つけた罪は、社会的な死をもって償わせる。
それが元社畜流の、徹底的な「報復」だ。
フェンは一瞬きょとんとして、それから獰猛な笑みを浮かべた。
『……ククッ、言うようになったな』
彼は光に包まれ、巨大な銀狼の姿へと戻った。
その背中が、私を誘うように低くなる。
『いいだろう。その喧嘩、俺様が買ってやる。お前の望む通り、派手に暴れてやろうじゃないか』
「ええ、お願いね」
私はフェンの背中に飛び乗った。
もう怖くない。
あるのは、燃えるような闘志だけだ。
「行くわよ、フェン!」
『掴まってろ、ミナ! 数分で着くぞ!』
ドォォォン!
爆音と共に、私たちは地面を蹴った。
衝撃で周りの木々が揺れる。
フェンは矢のような速さで空へと駆け上がった。
眼下には、紫色の淀んだ雲に覆われた王都が見える。
待っていなさい、カイル、アリア。
あなたたちが呼び出したのは、都合のいい救世主じゃない。
激怒した神獣と、それを操る飼い主だ。
「覚悟なさい!」
風の中で私は叫んだ。
いざ、決戦の地へ。




