第五話 王都の崩壊、森の繁栄
「なんとかしたまえ! 君は聖女だろう!」
悲鳴のような怒声が、王城の会議室に響き渡った。
声を荒らげているのはカイル王子だ。
彼の整った顔は恐怖と焦りで青ざめ、額には脂汗が滲んでいる。
その視線の先にいるのは、ふかふかのソファに座るアリアだった。
彼女は不満げに爪を磨いている。
「そんなに怒鳴らないでくださいまし。肌に悪いですわ」
「悠長なことを言っている場合か! 結界が消えてから三日だぞ。すでに下町では低級魔物の目撃情報が出ている!」
「だから、祈ってるじゃありませんかぁ。キラキラって」
アリアは面倒くさそうに手を振った。
指先から小さな光の玉がポワッと浮かび、すぐに消える。
それは蛍の光よりも頼りない、ただの照明魔法だった。
「私の聖女の力は、人々の心を癒やすためのものですの。あんな泥臭い結界の維持なんて、私の管轄外ですわ」
「なっ……前と言っていることが違うぞ! 君は『私が祈れば国は安泰』だと言ったじゃないか!」
「それは、あの汚い犬っころがいる前提の話ですもの」
アリアは悪びれもせずに言った。
「王子が悪いんじゃありません? あんな魔獣、さっさと処分せずに逃がすから」
「ぐぬぅ……!」
カイル王子は言葉に詰まった。
確かに、フェンリルを逃したのは失態だ。
だが、まさかあの薄汚い獣が、本当に国の守り神だったなんて思いもしなかったのだ。
バンッ!
扉が乱暴に開かれた。
近衛騎士が転がり込んでくる。
「報告します! 城壁付近にオークの群れが出現! 衛兵だけでは支えきれません!」
「オ、オークだと!?」
「さらに、西の空からワイバーンの影も確認されています!」
会議室が凍りついた。
ワイバーン。空飛ぶ竜種だ。
結界があった頃には決して近づかなかった高ランクの魔物が、ついに王都を餌場と認識し始めたのだ。
「ひっ……!」
アリアが小さな悲鳴を上げた。
「り、竜? 冗談じゃありませんわ。私、体調が優れないので部屋に戻ります」
「待て! 逃げるなアリア!」
「嫌です! 食べられたくありませんもの!」
アリアはドレスの裾を翻して逃げ出した。
カイル王子はその場にへたり込んだ。
窓の外を見る。
かつて澄み渡っていた王都の空は、今や分厚い雨雲のような瘴気に覆われ、どんよりと灰色に濁っていた。
遠くで、市民の悲鳴と魔物の咆哮が聞こえる。
「……嘘だろ。僕の国が」
崩壊は、音を立てて始まっていた。
◇
ジュウジュウと、脂の弾けるいい音が森に響く。
「うん、いい焼き加減」
私は焚き火の前に座り、串に刺した肉をひっくり返した。
香ばしい匂いが漂い、胃袋を刺激する。
場所は変わって、こちらは平和な森の神殿跡。
王都のパニックとは無縁の、穏やかなランチタイムだ。
「フェン、もう焼けるわよ」
声をかけると、私の隣で体育座りをしていた絶世の美青年が、身を乗り出した。
銀髪の隙間から覗く金色の瞳が、肉に釘付けになっている。
『……遅い。待ちくたびれたぞ』
「美味しく食べるには我慢も必要でしょ」
今日のメニューは、フェンが狩ってきた巨大イノシシのステーキだ。
森で採れたハーブと、岩塩だけのシンプルな味付けだが、素材が良いので間違いない。
私は焼きたての肉をナイフで切り分け、木の皿に乗せて渡した。
「はい、どうぞ」
フェンはフォークを不器用に使って肉を口に運ぶ。
人型の手先はまだ慣れないらしい。
ハムッ、と一口。
『……む』
咀嚼する動きが止まる。
そして、彼の瞳がカッと見開かれた。
『……なんだこれは』
「え、まずかった?」
『逆だ! うまい! なんだこの溢れ出る汁は!』
フェンは猛烈な勢いで肉を食べ始めた。
高貴な顔立ちには似合わないわんぱくな食べっぷりだ。
『生で食うより百倍うまいぞ。ミナ、お前は天才か?』
「ただ焼いただけよ。でも、気に入ってくれてよかった」
私も一口食べる。
カリッと焼けた表面と、ジューシーな中身。
噛むほどに旨味が広がる。
前世で食べていたスーパーの特売肉とは次元が違う。
「美味しい……幸せ……」
思わず頬が緩む。
社畜時代はデスクで栄養調整食品をかじるだけの日々だった。
青空の下、イケメン(元ワンコ)と食べるご飯がこんなに美味しいなんて。
『王城の餌は酷かったからな。腐りかけの肉を投げ入れられるだけだ』
フェンが肉汁を拭いながら、忌々しそうに言った。
『それに比べて、お前の料理は極上だ。……これなら、毎日食ってやってもいい』
「あら、光栄ね。でも食材調達はお願いね」
『任せろ。この森の主は俺様だ。猪でも熊でもドラゴンでも、好きなだけ狩ってきてやる』
頼もしすぎる。
食費ゼロで最高級食材が手に入る生活。
ある意味、王族以上の贅沢かもしれない。
ふと、私は南の空を見上げた。
この森からは見えないけれど、あの方角には王都がある。
「……今頃、大騒ぎになってるかしら」
『だろうな。空の気が淀んでいるのがここからでもわかる』
フェンは興味なさそうに肉の最後の一切れを口に放り込んだ。
『結界が消えれば、魔物が湧くのは道理だ。自ら守護獣を追い出したのだから、自業自得というやつだ』
「……そうね」
私は少しだけ胸が痛んだ。
あそこには、パン屋の親切なおじさんや、厩舎のことを教えてくれた兵士さんもいる。
罪のない人々まで巻き込まれているのは心苦しい。
けれど、戻る気にはなれなかった。
私には彼らを救う力(物理的な戦闘力)はないし、何より、私を捨てたのは彼ら自身だ。
『迷っているのか?』
フェンが覗き込んでくる。
黄金の瞳は、私の本心を見透かすように澄んでいる。
『お前が望むなら、一っ飛びして助けてやってもいいぞ。……お前が望むなら、な』
彼は試しているのだ。
私が過去の情に流されるか、それとも彼との今を選ぶか。
私は首を横に振った。
「いいえ。今は、このお肉が冷めないうちに食べるほうが大事よ」
『……ふっ、そうこなくてはな』
フェンは満足げに笑い、私の頭をポンと撫でた。
その手つきは少し乱暴だけれど、温かい。
『安心しろ。お前のことは俺様が守る。国が滅びようが、世界がどうなろうが、お前だけは傷つけさせん』
「ありがとう。……でもフェン」
「ん?」
「口の周り、脂ですごいことになってるわよ」
『……ぬ』
絶世の美青年が、慌てて口元をゴシゴシと拭う。
その仕草がおかしくて、私は声を上げて笑ってしまった。
森の木々が風に揺れ、梢から木漏れ日が降り注ぐ。
周囲には、おこぼれを狙うリスや小鳥たちが集まってきていた。
王都では悲鳴が上がっているかもしれない。
けれど、ここには確かな平和と、美味しいご飯と、大切なパートナーがいる。
私はもう一度肉を頬張り、その味を噛み締めた。
これが、私の選んだ幸せだ。
誰になんと言われようと、この生活を手放すつもりはない。
「おかわり、ある?」
『あるぞ。さあ、もっと食え』
私たちは森の静寂の中で、穏やかな午後を過ごした。
王都からの追手が迫っていることなど、この時はまだ知る由もなかった。




