第四話 人型(イケメン)はずるいです
風の音が止み、ふわりと体が浮くような浮遊感が訪れた。
「着いたぞ」
フェンの声と共に、私たちは深い森の中にある開けた場所へと降り立った。
月明かりに照らされたそこには、白亜の遺跡が静かに佇んでいた。
かつて神殿だったのだろうか。
崩れかけた柱や、苔むした石畳が、長い時の流れを感じさせる。
「ここは……?」
『俺様の隠れ家だ。昔、人間たちが俺様を祀っていた場所らしい』
フェンが背中から私を降ろしてくれる。
地面に足がついた瞬間、少しだけ足がふらついた。
空の旅は快適だったけれど、やはり緊張していたようだ。
「ふぅ……静かでいいところね」
私は周囲を見回した。
空気は澄んでいて、森の木々が優しくざわめいている。
王城の淀んだ空気とは大違いだ。
ただ、一つだけ問題があった。
「埃っぽい……」
神殿の中は、長年放置されていたせいで枯れ葉や砂埃が積もっている。
元・厩舎の管理人の血が騒いだ。
それに、前世のトリマー魂も黙っていない。
「汚れた場所」と「汚れた動物」を見ると、綺麗にせずにはいられないのだ。
「フェン、ちょっと待ってて」
私は近くの手頃な枝を拾い、何枚かの大きな葉っぱを重ねて簡易的な箒を作った。
そして、袖をまくる。
『おい、何をしている』
「寝床の準備よ。こんな埃まみれじゃ、せっかく綺麗になったあなたの毛並みが汚れちゃうわ」
私は無心で掃き掃除を始めた。
不思議なことに、私の「洗浄」のコツは、動物だけでなく物に対しても有効みたいだ。
箒でサッと掃くだけで、こびりついた汚れが魔法のように浮き上がり、綺麗になっていく。
(ここをこうして……よし、ピカピカ!)
三十分後。
廃墟同然だった神殿の床は、大理石の輝きを取り戻していた。
ついでに集めた枯れ草で、フカフカのベッドも作成完了だ。
「お待たせ。これでゆっくり休めるわよ」
額の汗を拭いながら振り返る。
そこには、呆れたように、けれどどこか嬉しそうな目で私を見つめる銀狼がいた。
『……お前というやつは。逃避行の先で、まずは掃除か』
「衣食住は基本でしょ」
『ふん。まあいい。礼を言うぞ』
フェンは満足げに頷くと、神殿の中央に進み出た。
『結界も張った。ここなら誰にも邪魔されない。……ようやく、なれるな』
「なれる?」
『この姿だ』
フェンが全身から眩い光を放った。
銀色の粒子が彼を包み込み、その巨大なシルエットが急速に縮んでいく。
私は眩しさに目を細めた。
光が収まった時、そこに立っていたのは狼ではなかった。
一人の、青年だった。
「……え」
言葉を失う。
月光をそのまま織り込んだような銀色の長髪。
切れ長の瞳は、黄金色に輝いている。
彫刻のように整った顔立ちと、引き締まった長身。
薄い布を纏っただけのその姿は、同じ生物とは思えないほど神々しく、そして色気があった。
『どうした? 口が開いているぞ』
彼――フェンが、ニヤリと笑う。
その意地悪な笑みは狼の時と同じだ。
でも、破壊力が違いすぎる。
「あ、あなた……フェン、なの?」
『他に誰がいる。呪いが解けたからな、この姿にも戻れるようになった』
彼は自分の腕や肩を確かめるように動かした。
しなやかな筋肉が動くたびに、目が釘付けになってしまう。
美形という言葉すら生ぬるい。
直視したら目が潰れそうなレベルの「顔面国宝」だ。
「ず、ずるいわよ……」
私は思わず顔を背けた。
『何がだ』
「そんな……いきなり人型になるなんて聞いてない。心の準備が」
『ハッ、照れているのか? 可愛い奴め』
フェンは楽しそうに笑いながら、私に近づいてきた。
足音がしない。
気づけば、目の前に彼の広い胸板があった。
『おい、ミナ』
甘い声が頭上から降ってくる。
狼の時の野太い声も好きだったけれど、人の声帯から発せられる低音ボイスは、耳へのご褒美すぎて毒だ。
「な、なによ」
恐る恐る見上げると、黄金の瞳が至近距離で私を覗き込んでいた。
『……背中』
「え?」
『背中だ。まだ少し、ムズムズする』
フェンは私の手を取り、自分の背中へと導いた。
薄い布越しに、高い体温が伝わってくる。
『狼の時は届いたが、この腕では背中の真ん中が掻けん。お前がやれ』
「じ、自分でやってよ!」
『嫌だ。お前の手じゃないと意味がない』
彼は子供のように拗ねた表情を見せた。
この美貌で甘えられると、断れる人間などこの世にいないだろう。
とんだ魔性の獣だ。
「……わかったわよ。変な声出さないでよね」
私は諦めて、彼を寝床に座らせた。
背後に回り、銀色の髪をかき分ける。
白くなめらかな背中があらわになった。
(筋肉すごい……)
変な気を起こさないように必死に理性を保ちながら、私は彼の方甲骨のあたりを指で強めに擦った。
「ここ?」
『……ん、そう。そこだ』
フェンが吐息を漏らす。
その声が妙に艶っぽくて、私の心臓は早鐘を打った。
『もっと強く……ああ、いいぞ。お前の手は魔法の手だな』
「ただのマッサージよ」
『違う。お前が触れると、体の奥の熱が静まるんだ。……ずっと触れていてほしい』
不意に、フェンが振り返った。
私の手首を掴み、強く引き寄せる。
「わっ」
バランスを崩した私は、そのまま彼の胸の中に倒れ込んだ。
抱きすくめられる形になる。
「ちょ、ちょっとフェン!」
『逃がさんと言っただろう』
彼は私の耳元で囁いた。
吐息が首筋にかかり、ゾクリとする。
『俺様をここまで骨抜きにした責任は、一生かけて取ってもらうぞ』
独占欲たっぷりの言葉。
抗議しようとした口は、彼の腕の強さに封じられた。
嫌ではない。
むしろ、安心してしまう自分が悔しい。
その時だった。
ガサガサッ。
入り口の茂みが揺れた。
「ん?」
フェンが不機嫌そうに顔を上げる。
そこからひょっこりと顔を出したのは、一匹のリスだった。
続いて、ウサギ、鹿、さらには子供の熊までもが、恐る恐る神殿の中を覗き込んでいた。
『……なんだ、雑魚どもか』
フェンが威嚇しようとするが、動物たちは私を見て目を輝かせた。
『あの人だ!』
『いい匂いがする!』
『優しい人だ!』
『聖女様だー!』
動物たちの声が、一斉に私の頭の中に響く。
彼らはトテトテと駆け寄ってくると、私の足元やフェンの周りに群がった。
「わあ、可愛い!」
私はフェンの腕から抜け出し(彼は不満げだったが)、動物たちを撫で回した。
どの子も人懐っこく、私の手に頭を擦り付けてくる。
アニマル・エンパシー全開だ。
ここが天国か。
『おい、こら。気安く触るな』
フェンがリスを指で摘み上げる。
『ミナは俺様のものだ。順番待ちしろ』
「フェン、いじめないで」
『いじめてなどいない。躾だ』
フェンは文句を言いながらも、本気で追い払おうとはしなかった。
彼もまた、動物たちに慕われている王なのだ。
膝の上にはウサギ。
背中には温かいフェンの体温。
目の前には美しい月夜の森。
「……幸せ」
思わず言葉が漏れた。
王城での虐げられた日々が嘘のようだ。
フェンが私の肩に顎を乗せてくる。
『ふん。当然だ。俺様の側にいるのだからな』
彼の腕が、再び私のお腹に回される。
今度は動物たちごと包み込むように。
『だが、一番は俺様だ。そこだけは譲らんぞ』
耳元で囁かれる甘い嫉妬に、私は苦笑しながら頷いた。
「はいはい。私の聖女の力は、あなたのためのものですから」
『うむ。よろしい』
森の奥深く、忘れられた神殿で。
私たちは新しい生活の第一歩を踏み出した。
まだ王都の騒動が終わっていないことも知らず、この時の私は、ただただモフモフとイケメンに癒やされていたのだった。




