第三話 覚醒、そして脱出
乾いた音がして、最後の一欠片が床に落ちた。
それは、フェンの尻尾の先にへばりついていた頑固な泥だった。
数日にわたる私のブラッシングと浄化作業が、今まさに完了した瞬間だ。
「……終わった」
私はブラシを握ったまま、その場にへたり込んだ。
肩の傷がズキズキと痛むけれど、達成感のほうが勝っている。
目の前には、息を呑むような光景があった。
薄汚れた土塊のようだった獣は、もうどこにもいない。
そこに佇んでいるのは、月光そのものを織り込んだような、眩い銀色の毛並みを持つ巨大な狼だ。
厩舎の暗闇を払拭するほど、彼自身が淡く発光している。
神々しい。
まさに「神獣」の名にふさわしい姿だった。
『……ふぅ』
フェンが長く、深い息を吐いた。
その吐息すらも、キラキラとした光の粒子を含んでいるように見える。
『軽い。体が羽のようだ。あの忌々しい痒みも、痛みもない』
彼はブルルと身を震わせた。
そのたびに、銀色の毛が波打ち、周囲の空気がビリビリと振動する。
「よかった。本当の姿、すごく綺麗よ」
私が心から称賛すると、フェンは照れ隠しのように鼻を鳴らした。
『ふん。当然だ。俺様は世界で一番美しい獣だからな』
自画自賛も、この姿なら嫌味に聞こえない。
むしろ事実だ。
その時。
ジャラリ、と鎖が不吉な音を立てた。
フェンの首と四肢を拘束している、魔法の鎖だ。
泥が落ちて魔力が回復したことに反応し、鎖が締め付けを強めようと赤く発光し始めたのだ。
『……鬱陶しいな』
フェンが低く唸る。
先ほどまでのように、電流に怯える様子はない。
彼の瞳が金色の光を放つ。
『こんな玩具で、この俺様を縛れると思ったか』
バキィッ!
何の前触れもなく、金属が砕ける音が響いた。
フェンが軽く首を振っただけで、極太の鎖が飴細工のように千切れ飛んだのだ。
手足の拘束具も、彼が筋肉を膨張させただけで粉々になった。
王家が数百年かけて維持してきた「最強の封印」が、あっさりとゴミ屑に変わる。
「うそ……すごい」
『力が戻ればこんなものだ』
フェンは自由になった体を大きく伸ばした。
その動作だけで突風が巻き起こり、厩舎の窓ガラスがガタガタと震える。
騒ぎを聞きつけたのか、外から慌ただしい足音が近づいてきた。
扉が荒々しく開かれる。
「何事だ! 爆発音が聞こえたぞ!」
カイル王子だった。
後ろには近衛騎士たちと、怯えた様子のアリアもいる。
彼らは踏み込んできた勢いのまま、凍りついた。
目の前に、小屋ほどもある巨大な銀色の狼が鎮座しているのだから。
「な……なんだ、この化け物は……!」
カイル王子が腰を抜かしそうになりながら叫ぶ。
アリアは「ひっ」と悲鳴を上げて騎士の後ろに隠れた。
彼らは気づいていない。
これが、自分たちがゴミのように扱っていた「泥の獣」だということに。
フェンが冷ややかな視線を彼らに向けた。
『……喚くな、人間。耳障りだ』
頭の中に直接響く声に、カイル王子たちは狼狽する。
「しゃ、喋った!? 貴様、何者だ!」
『何者、か。ふん、貴様らが散々足蹴にし、石を投げていた守護獣だとも分からんとはな』
「え……?」
カイル王子の顔から血の気が引いていく。
伝説のフェンリル。
その姿は王家の紋章にも描かれているが、実物は彼らの想像を遥かに超える威圧感を放っていた。
『我はずっと見ていたぞ。貴様らの傲慢さを。怠惰を。そして、我の契約者に対する無礼をな』
フェンが一歩踏み出すと、騎士たちは武器を構えることすらできずに後退った。
圧倒的な捕食者のオーラ。
戦う気すら起こさせない、生物としての格の違い。
カイル王子はパクパクと口を開閉させ、ようやく言葉を絞り出した。
「ま、待て! 守護獣だというなら、僕の命令を聞け! 僕は王子だぞ!」
『断る』
一言で一蹴。
『我は王家との契約を破棄する。こんな腐った国を守る義理はない』
「なっ……!?」
『行くぞ、ミナ』
フェンが私の方を振り返り、優しく身を低くした。
『乗れ』
「えっ、いいの?」
『お前を置いていくわけがないだろう。さっさと掴まれ』
私は躊躇わなかった。
カイル王子たちを一瞥もしない。
彼らにはもう、何の未練も興味もないからだ。
私はフェンの豊かな毛並みに手をかけ、その背中によじ登った。
想像以上にフカフカで、温かい。
最高級のソファなんて目じゃない座り心地だ。
「準備完了よ」
『舌を噛むなよ』
フェンが足に力を込める。
「ま、待て! その女を連れて行くな! そいつは……!」
カイル王子が手を伸ばそうとしたが、もう遅い。
ドンッ!
爆発的な跳躍。
厩舎の天井が紙屑のように突き破られた。
私たちは一瞬で夜空へと舞い上がった。
眼下に見える王城が、どんどん小さくなっていく。
騎士たちの怒号も、カイル王子の間抜けな顔も、すべて置き去りだ。
「わあぁっ……!」
風が頬を叩く。
空を飛んでいる。
フェンは空気を蹴るようにして、夜の空を駆け抜けていた。
『どうだ、ミナ。これが俺様の世界だ』
「すごい……! 王都があんなに小さい」
煌めく街の明かりが、宝石箱をひっくり返したように綺麗だ。
でも、その光景に異変が起きていた。
王城を中心に展開されていた薄い光の膜――「守護結界」が、ガラスが割れるようにヒビ割れ、消滅していくのが見えたのだ。
結界の源であるフェンが離れたからだ。
『あの国はもう終わりだ。結界がなければ、魔物たちが寄ってくる』
フェンの声は冷淡だった。
『自業自得だ。後悔して泣き叫ぶといい』
残酷かもしれない。
でも、私は「戻ろう」とは言わなかった。
私たちが受けた仕打ちを考えれば、これは当然の報いだ。
それよりも、今は。
私はフェンの首元の毛に顔を埋めた。
風除けの魔法をかけてくれているのか、背中の上は驚くほど静かで快適だった。
「ねえ、フェン」
『なんだ』
「ありがとう。連れ出してくれて」
『……礼を言うのは俺様のほうだ』
フェンは少し照れたように、視線を前方へ向けたまま言った。
『お前がいなければ、俺様は泥の中で腐り果てていただろう。俺様の背中に乗る資格があるのは、世界でお前だけだ』
心臓がトクンと跳ねた。
吊り橋効果だろうか。
それとも、このイケメンボイスのせいだろうか。
『責任、取ってもらうぞ』
「え?」
『俺様をあんなにピカピカにしたんだ。最後まで面倒を見てもらう。逃がさんからな』
それは、脅し文句の形をしたプロポーズのように聞こえた。
「ふふ、望むところよ。あなたのブラッシング係は、誰にも渡さないから」
私たちは月に向かって飛んでいく。
行き先はまだ決めていない。
けれど、この温かい背中があるなら、どこへだって行ける気がした。
自由だ。
私の新しい人生が、今ここから始まる。




