第一話 厩舎の聖女と泥の獣
「君はハズレだ。今すぐこの王城から出ていってくれないか」
その言葉は、まるで不要になった書類をシュレッダーにかけるような軽さで放たれた。
目の前にいるのは、この国の第二王子カイル。
金色の髪と青い瞳は絵本から出てきたように美しいけれど、私を見る目は冷たい。
彼の隣には、ピンク色の巻き髪を揺らす愛らしい少女がいた。
彼女の腕は、カイル王子の腕にしっかりと絡みついている。
「ごめんなさいねえ。聖女の力が無いなんて、期待させちゃって」
彼女の名前はアリア。
私と同じ日に異世界から召喚された、もう一人の聖女候補だ。
彼女の手のひらからは、キラキラとした眩しい光が出ていた。
それが聖女の証なのだという。
一方、私の手からは何も出ない。
豆電球ほどの明かりすら灯せない。
「わかりました」
私は短く答えて頭を下げた。
泣き叫ぶことも、すがりつくこともしない。
前世でブラック企業の理不尽な辞令に慣れきっていた私は、感情のスイッチを切るのが得意だった。
それに、正直なところホッとしていた。
王族の堅苦しい生活や、ドロドロした権力争いなんて真っ平ごめんだ。
「待て。ただ放り出すのも外聞が悪い」
カイル王子が意地悪く口角を上げた。
「城の裏にある厩舎の管理人が辞めたばかりだ。住み込みでそこを使えばいい。衣食住は保証してやる」
「……厩舎、ですか」
「嫌なら野垂れ死ぬだけだ。あの場所には『あれ』もいるしな。お似合いだよ」
アリアがクスクスと笑う。
私はもう一度頭を下げ、謁見の間を後にした。
こうして私は、きらびやかな王城の表舞台から、馬糞と土の匂いが漂う裏舞台へと追いやられたのだ。
◇
案内された厩舎は、王城の敷地の外れにあった。
石造りの頑丈な建物だが、長い間手入れされていないのか蔦が絡まり放題だ。
「ここが私の新しい職場ね」
私は荷物を足元に置き、大きく深呼吸をした。
ツンとした獣の匂いと、乾いた藁の香り。
香水のきつい匂いが充満する広間より、こちらのほうがずっと落ち着く。
私は動物が好きだ。
前世ではペット不可の激務続きで飼えなかったけれど、休日は動画サイトで動物の映像ばかり見ていた。
「まずは掃除からね」
支給された作業着に着替え、バケツと箒を手にする。
元社畜の適応能力を甘く見ないでほしい。
環境が変われば、そこでベストを尽くすだけだ。
厩舎の中は薄暗かった。
馬たちは世話が行き届いておらず、毛並みが悪い。
私が近づくと、彼らは警戒して鼻を鳴らした。
『……腹減った』
『水、臭い』
『あっち行け』
頭の中に、低い声が響く。
幻聴ではない。
これが私の能力だ。
私は生まれつき、動物の心の声が聞こえる。
それに加え、触れた動物のストレスを緩和したり、少しだけ体を綺麗にしたりする地味な力が使えた。
光ったり爆発したりはしないけれど、飼育員としてはチート級の能力だと思う。
「ごめんね。すぐに綺麗にするから」
私は馬たちに優しく声をかけながら、テキパキと寝床を整えた。
新鮮な水と干し草を用意すると、馬たちの声色はすぐに変わった。
『うまい』
『この女、悪くない』
『背中もっと掻いて』
現金なものだ。
でも、そんな正直さが愛おしい。
数時間も働けば、馬たちはすっかり私に懐いていた。
一通り作業を終え、私は厩舎の最奥へと足を向けた。
そこだけ空気が違ったからだ。
重く、淀んだ空気が漂っている。
そこには、鉄格子で厳重に囲まれた特別な檻があった。
カイル王子が言っていた「あれ」だろうか。
近づくにつれて、鼻を刺すような悪臭が強くなる。
泥と、腐敗した何かが混ざったような匂い。
普通の令嬢なら気絶してしまうかもしれない。
「……う」
思わず袖で鼻を覆う。
檻の中は暗闇に包まれていた。
目を凝らすと、奥の方に巨大な黒い塊がうずくまっているのが見えた。
大きさは馬よりもふた周りは大きい。
全身がコールタールのようなドロドロとした黒い泥で覆われていて、元の形がわからないほどだ。
ただ、爛々と光る赤い瞳だけが、暗闇の中でこちらを睨みつけていた。
『殺すぞ』
頭の中に、今まで聞いたこともないほどドスの利いた声が響いた。
強烈な殺気。
肌がビリビリと粟立つ。
これが、噂に聞く「呪われた魔獣」なのだろうか。
城の人々は、近づくと呪われると噂して誰も寄り付かないらしい。
私は恐怖で足を止めた。
けれど、逃げ出すことはしなかった。
その殺気に混じって、別の感情が流れ込んで来たからだ。
『……痒い』
え?
『痒い。全身が、焼けるように痒い……』
『いっそ殺せ……いや、その前に背中を掻かせろ……』
『そこじゃない、もっと右だ……くそっ』
殺意の正体は、強烈な痒みだったのか。
あまりにも切実な苦しみの声に、私の恐怖心はどこかへ吹き飛んでしまった。
私は一歩、檻に近づいた。
「グルゥゥゥ……!」
黒い塊が唸り声を上げる。
鎖がジャラリと重い音を立てた。
泥の間から覗く牙は鋭く、人間など簡単に噛み砕けそうだ。
「お前、死にたいのか」
背後から声がした。
見回りの兵士だ。
彼は汚物を見るような目で檻の中を見て、鼻をつまんでいる。
「そいつは危険だ。餌だけ投げ入れて、さっさと離れろ。呪いが移るぞ」
「この子は、何をされたのですか?」
「さあな。昔からそこにいる。王家の恥部みたいなもんだ。最近は特に臭いが酷いから、処分されるって噂もあるぜ」
兵士は興味なさそうに言い捨てて、足早に去っていった。
残されたのは私と、泥の塊だけ。
『人間……去れ……』
黒い獣が苦しげに喘ぐ。
体中にへばりついた泥が、皮膚を侵食しているようだった。
あれでは息をするのも辛いだろう。
私は決めた。
バケツにたっぷりの水と、馬用の大きなブラシを用意する。
そして、腰に下げた鍵束の中から、一番古くて大きな鍵を選んだ。
ガチャリ。
重い金属音が静寂に響く。
檻の扉が開いた。
『……何をする気だ』
獣が怪訝そうな声を上げる。
私はバケツを持って、ゆっくりと檻の中に足を踏み入れた。
強烈な悪臭が鼻を突くが、私は平気な顔をして見せた。
「こんばんは。今日からここの担当になったミナです」
獣の赤い瞳が私を捉える。
いつでも飛びかかれる距離だ。
それでも私は、努めて明るい声を出し続けた。
「あなた、とっても痒そうね」
獣の動きがピクリと止まった。
『……なぜ、わかる』
「なんとなくよ。私も昔、ひどい蕁麻疹が出たことがあるから」
それは嘘だ。
でも、能力のことを説明するより早い。
私はゆっくりと膝をつき、獣の目の前でバケツを置いた。
「これだけ汚れていたら、痒くて当たり前だわ。少し洗わせてくれない?」
『愚かな。この泥はただの泥ではない。触れれば貴様の皮膚も腐り落ちるぞ』
「手袋をしているから大丈夫」
私は革製の分厚い手袋を見せた。
本当は、私の「浄化」の力が通じると信じているだけだ。
根拠はないけれど、直感が告げている。
この泥は、洗えば落ちる。
『……勝手にしろ。後悔しても知らんぞ』
獣はふんと鼻を鳴らし、巨大な頭を前足の上に預けた。
拒絶はしないようだ。
諦めているのか、それとも僅かな期待を持っているのか。
私はそっと、泥まみれの背中に手を伸ばした。
表面はカチカチに固まっていて、岩のようだ。
ブラシでこすったくらいでは取れそうにない。
私は「洗浄」のイメージを強く持ちながら、手のひらを泥に押し当てた。
(綺麗になあれ。痒いの、飛んでいけ)
心の中で唱える。
すると、私の手と泥の接点がほんのりと温かくなった。
ガリガリに固まっていた黒い塊が、ポロポロと崩れ始める。
『……ん?』
獣が小さく声を漏らす。
「やっぱり。これ、取れるわよ」
私はブラシに水をつけ、崩れかけた泥をゴシゴシとこすった。
固まった泥の下から、何か銀色のものがチラリと見えた気がする。
『……そこだ』
不意に、低い声が頭に響いた。
『そこだ、小娘。もう少し右だ』
「ここ?」
『行き過ぎだ! 少し戻れ。そう、そこだ……あぁ、悪くない』
私は思わず吹き出しそうになった。
さっきまでの殺気はどうしたのだろう。
まるで、ブラッシングをねだる大型犬みたいだ。
「ふふ、わかったわ。ここね」
私は力を込めて、獣の背中をこすり続けた。
長年蓄積された汚れは頑固だけれど、私の手にかかれば時間の問題だ。
無心でブラシを動かすこと一時間。
背中の一部、直径三十センチほどだけだが、泥が完全に落ちた。
そこには、月光を浴びて輝く、最高級の絹のような銀色の毛並みが現れた。
あまりの美しさに、私は息を呑む。
「すごい……とっても綺麗」
思わず手袋を外し、素手でその毛並みに触れた。
ひんやりとしていて、滑らかで、極上の触り心地だ。
指が吸い付くようだ。
『……気安く触るな』
獣が言いつつも、身じろぎはしない。
むしろ、私の手に体を押し付けてきているのがわかる。
声は不機嫌そうだが、伝わってくる感情は『もっとやれ』だった。
「はいはい。今日はもう遅いから、続きは明日ね」
『何だと? 途中で止めるなど許さんぞ』
「人間には休息が必要なの。あなたも、久しぶりにゆっくり眠れるはずよ」
綺麗になった部分は、もう痒くないはずだ。
獣は不満そうに唸ったが、やがて大きくあくびをした。
『……ふん。名前は』
「ミナよ」
『覚えておく。ミナ、明日は朝一番に来い。遅れたら喰い殺す』
それは脅しというより、不器用な約束のようだった。
私は「はいはい」と笑って檻を出た。
重い鉄格子を閉め、鍵をかける。
振り返ると、闇の中で銀色の一箇所だけが、微かに輝いているのが見えた。
カイル王子やアリアは知らないだろう。
この汚れた檻の中に、世界で一番美しいものが眠っていることを。
私は軽い足取りで、厩舎の管理人室へと向かった。
最悪の追放処分だと思っていたけれど、案外、悪くない生活が待っているかもしれない。
夜空を見上げると、分厚い雲の隙間から、一筋の月明かりが差し込んでいた。




