表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

うちのマンションに転校生がやってきた

作者: バスカ
掲載日:2025/12/14

 今年から地元の高校に通い始めることになった川村陽一(かわむらよういち)は、夕空の下をクラスメートの長瀬晴斗(ながせはると)と二人で歩いていた。

 この日はゴールデンウィーク最終日の木曜日。高校でできたもう一人の友人と三人でカラオケやボーリングを楽しんだ帰り道だった。

 一緒に遊んでいたもう一人の友人は地元が違うため、先に駅で別れていた。


「明日は学校かぁ……。明日一日だけなら休みにしてくれれば良いのに」


 今年の連休は飛び石連休になっていたため、陽一はせっかくの休みが中途半端に感じられ、少し損をしたような気分になっていた。

 心のどこかで、自由な時間をもっと長く楽しみたいと思っていた。


「何言ってるんだ。学校行けば女子に会えるし、可愛い子も結構いるぞ?」


 晴斗はニヤリと笑い、陽一に視線を向ける。


「おまえ、女子目当てかよ……」


 陽一は呆れたように返す。これまで誰かを好きになったことはなく、異性や恋人といった存在にはあまり興味がなかった。

 興味があるのはもっぱら趣味や遊びのことだけだ。


「当たり前だろ!男子なら女子に興味があって当然!」


「そ、そうなのか……。まあ、俺にはよく分からないけど」


 対照的な晴斗の言い切りに、陽一は苦笑を浮かべるしかなかった。


「お前も好きな人ができれば分かるって。それにしても彼女が欲しいわ……」


「時間も金もかかって面倒なだけだろ」


 陽一の言葉に、晴斗は深くため息をついた。


「おまえなぁ……」


 呆れと諦めが混ざった声だった。

 二人は小学生のころからの付き合いで、陽一が異性に興味がないことはよく知っている。

 だが――そんな彼でも、このまま好きな人が一生できないとは思っていない。


 晴斗はふと悪知恵が働き、目を細めながらニヤリと笑った。


「じゃあさ。そこまで言うなら、高校を卒業するまでに好きな人ができたら、一つだけ何でも言うことを聞くってのはどうだ?」


「なんでそういう話になるんだよ……」


 唐突すぎる提案に、陽一は思わず眉をひそめた。


「あれ?もしかして、あれだけ言い張ったのに自信がないのか?」


「……分かったよ」


 煽るような晴斗の言葉に、陽一は渋々承諾する。

 だが、ここから陽一も反撃に出る。


「その代わり、好きな人ができなかったら逆に何でも言うことを聞けよ?」


 その一言に、晴斗は一瞬固まった。

 軽い気持ちでからかったつもりが、話が予想以上に膨らんでしまったのだ。

 高校卒業までという期限にも深い意味はない。

 だが、ここまで来て引くのも格好がつかない。


「……わ、わかったよ」


 気圧されながらも、晴斗はその賭けに応じた。

 その直後、陽一のポケットでスマホが震えた。


 立ち止まり、スマホを取り出して確認すると、母親からのメッセージだった。


『ドレッシング切らしてたから帰りに買ってきてくれない?』


 その瞬間、陽一の顔に渋い表情が浮かぶ。


(マジかよ……。さっきスーパー通り過ぎたばっかりなんだけど)


 ドレッシングを買うには、さっき通り過ぎたスーパーまで戻らなければならない。正直、面倒である。

 けれど、母親に頼まれた以上、断るわけにもいかない。


「どうしたんだ?」


 急に立ち止まり固まった陽一に気づいた晴斗が近づいてくる。


「いや、母さんからドレッシング買ってきてくれって言われてさ」

「そうなのか」


 家族から買い物を頼まれたと分かり、晴斗は状況を理解した。


「面倒だとは思うけれど、家族の頼みじゃしょうがないしな」

「悪いな」

「いいってことよ。それじゃ、また明日な」

「おう」


 手を軽く振って別れた後、陽一は少し重い足取りで来た道を引き返すようにしてスーパーへ向かった。


 スーパーに到着すると自動ドアをくぐり、軽くため息をついた。


(えっと……ドレッシング、ドレッシング……。どこにあるんだ?)


 普段買い物をほとんどしない陽一にとって、スーパーの広さはちょっとした迷路のようだ。

 菓子、お茶、レトルト……並ぶ棚を見ても、目当てのものは見当たらない。

 棚の列に入り確認しては引き返すことを何度か繰り返すと、調味料の並んだ棚をようやく見つけた。

 一つずつ商品を指で確認しながら、慎重に歩き始める。


(砂糖、塩、しょうゆ……。この棚で良いのかな……)


 心の中で独り言を呟きながら端から端まで視線を動かしていく。すると――


「あ、あった……!」


 いろんな種類のドレッシングが並んだ棚を見つけた。

 その中から、いつも使っているものを探す。


(これでもない……。これでもない……。お、これだ)


 手に取ろうと手を伸ばした――その瞬間、横からもう一つの手が伸びてきた。


「すみません!」


 慌てた陽一は反射的に手を引っ込める。


「ご、ごめんなさい」


 相手も同じタイミングで手を引っ込めていた。

 陽一は無意識に、その手の持ち主に視線を向ける。


 そこには、肩まで伸びた黒髪の少女が、気まずそうに立っていた。

 身長は陽一の肩ぐらいまでの小柄な体格。だが、その柔らかな表情と整った顔立ちは、一目で印象に残る。


「あ、あの……どうぞ」


 少女に先に譲ろうと声をかけるが、声は思った以上に強張っていた。


(な、なんだこれ……)


 胸の奥に違和感が走る。

 目の前の少女を直視できず、視線が泳ぐ。

 鼓動は耳にまで響くほど高鳴り、陽一はただ戸惑うしかなかった。


「あ、ありがとうございます」


 少女はお礼を言うと、ドレッシングをそっと買い物かごに入れ、他の買い物のためかレジとは逆の方へ歩き去った。


 陽一は落ち着かない気持ちを抱えたまま、残されたドレッシングを手に取り、レジへ向かった。


 会計を済ませてスーパーを出ると、空はいつの間にか薄暗くなっていた。

 ついさっきまで朱に染まっていた夕焼けは藍色へと変わり始め、街灯がぽつりぽつりと灯りはじめている。


 買い物袋を片手に持ち、陽一はゆっくり歩き出した。

 だが帰り道の最中でも、ついさっきの少女のことが頭から離れない。


(何でこんなにも気になってるんだ、俺……)


 自分でも理由がわからない。

 胸の奥が落ち着かず、変な感覚がずっと続いている。


 近くに住んでいるのだろうか。

 それとも、連休の帰りにたまたま家族と寄っただけなのか。

 考えれば考えるほど、頭が混乱していく。


(さっきから、何なんだこの気持ちは!)


 我に返った陽一は足を止め、スマホを取り出して検索窓に入力した。


『異性のことばかり考えてしまう。どういう状態?』


 数秒後、画面に返答が表示される。


『異性のことをよく考えてしまうのは、恋愛感情が芽生えているサインかもしれません』


「れ、恋……?」


 言われても、まったくピンとこない。

 恋愛なんて、これまで自分とは無縁の話だと思っていた。

 しかし胸の奥のざわつきは、否定できなかった。


(いやいや、俺が……? まさか……)


 半信半疑になりながらも、思い出すのはさっきの晴斗との約束。


『好きな人ができたら――何でも言うこと聞いてやるよ』


 マズイことになった、と陽一は額を押さえる。

 冗談のつもりだった。

 絶対にありえないと思っていたのに……。


(だ、大丈夫……落ち着け……。どうせもう会わない……。だから……これはノーカン、ノーカンだ……!)


 必死に自分に言い聞かせながら、陽一は自宅へ向かった。


 陽一の自宅はマンションの五階にある。

 エントランスの自動ドアを抜け、エレベーターで五階へ上がると、廊下を歩き自宅のドアの前で足を止めた。

 家の中には、絶対にこの秘密を知られてはいけない人物がいる――それは、陽一の母親だった。


 母親は交流を大切にする性格で、昔から友人が多い。

 その中には、小学生の頃からの付き合いがある晴斗の母親も含まれている。

 たとえ秘密を守ってくれと頼んでも、親同士の会話の中でうっかり話が漏れる可能性は十分にある。

 だからこそ、この気持ちは胸の奥にしまい込むべきだと、陽一は思っていた。


(とにかく、怪しまれないように……いつも通りにしないと)


「ただいまー」


 玄関の扉を開けると、手を洗いに洗面に向かった。

 洗面は玄関を入ったところにある廊下の右側にある。

 逆の左側には陽一の部屋があった。

 手を洗うとドレッシングを持ってリビングへ向かう。

 母親は夕食の支度をしており、父親はソファで映画を見ていた。


「はい、ドレッシング」

「ありがとう。……あ、そうそう」


 母親が思い出したように振り返る。


「昨日引っ越してきたお隣さんなんだけれど、親睦も兼ねて明日の夕飯に招こうかと思うの」


 隣の部屋には以前、会社員の男性が住んでいたが、半年前に転勤で急きょ引っ越し、空室になっていた。

 そこへ昨日、新しい家族が引っ越してきたのである。


「引っ越してきたばかりで不安もあると思うし、少しでも慣れてもらえたらと思ってね」


 昔から近所づきあいを大切にする母親らしい提案だった。


「父さんやお隣さんが嫌じゃないなら……別にいいんじゃない?」


 特に断る理由もなかったので、陽一は明日の夕食会を了承した。


「それじゃ明日誘ってみるわね」

「無理強いはしたら駄目だよ」

「分かってるわよ」


 母親は満足そうにうなずき、再び夕食の支度に戻った。

 陽一も自分の部屋へ戻る。


「はぁ……ばれずに済んだ」


 ドアを閉めた瞬間、ため息とともに全身の力がふっと抜け、床に座り込んだ。


 自室の静けさに包まれ、陽一は気持ちを落ち着かせようと、趣味のゲームに逃げ込んだ。

 携帯ゲーム機を取り出し、プレイ中のデータを開く。

 画面に集中している間だけ、胸のざわつきを忘れられた。


 どれくらい時間が経っただろうか。リビングから母親の声が響く。


「ご飯できたわよー!」

「はーい」


 ゲームを中断し、立ち上がる。

 リビングの照明が眩しく感じられながら食卓に向かうと、湯気の立つ味噌汁に白米、焼き魚、いつものサラダが整っていた。

 さっき買ってきたドレッシングも、きちんとテーブルの上に置かれている。


「いただきます」


 家族で手を合わせ、夕食が始まる。

 だが、箸を動かしながらも、陽一の脳裏にはあの少女の姿がふと浮かぶ。

 そのたびに胸の奥がじわりと熱を帯び、手元の動きが止まりがちになった。


「陽一? 食べないの?」

「えっ……あ、いや、食べてるよ」


 慌てて箸を動かすが、ぎこちない。

 母親は不思議そうに眉を寄せる。


「なにかあったの?」

「え!? な、なんにもないよ! どうして?」


 声が裏返り、余計に怪しい。


「さっきからボーっとして箸が進んでないからよ」

「あ、遊び疲れたんだよ」

「明日は学校あるんだから、ほどほどにね」

「う、うん」


 誤魔化すように味噌汁を流し込み、残りのご飯を勢いよくかき込む。


「ごちそうさま!」


 食器を流しに置くと、逃げるように自室へ戻った。


(やっぱり今日の俺、どうかしてる……)


 気を紛らわせるように再びゲームに没頭するが、胸のざわつきは消えない。

 結局、気持ちが落ち着かないまま、陽一はいつもより早く布団にもぐりこんだ。


 翌朝、陽一はいつもより早く目を覚ました。

 昨日は余計なことを考えないように早めに布団に入ったおかげか、寝起きはすっきりしていた。

 目を開けると、昨日の出来事はまるで夢だったのではないかと思えるほど、あの少女の姿はあまり頭に浮かんでこなかった。


(……昨日のあれ、夢だったのかな?)


 ぼんやりしたまま布団から抜け出すと、陽一は洗面所へ向かった。

 蛇口をひねると冷たい水が流れ出し、両手ですくって顔にあてる。

 ひやりとした刺激が身体を一気に覚醒させ、意識がはっきりしていく。

 鏡の中の自分と目が合うと、昨日感じていた胸のざわつきが少し遠くに思えた。


(よし……)


 気持ちを切り替えて洗面所を出ると、台所では母親がすでに朝食の用意をしていた。

 食卓には、焼きたてのパンとジャムが置かれており、今日はイチゴジャムの食パンらしい。


「おはよう、陽一。よく寝られた?」

「うん、すごくよく寝られたよ」


 席に着き、パンにイチゴジャムを塗る。

 甘い香りがふわりと漂い、ひと口かじれば穏やかな甘さが広がった。

 その味に、昨日の胸のざわつきがまた少し遠のいていく。


(よし、今日は普通に一日を過ごせそうだ)


 食べ終えると皿を流しに運び、そのまま洗面所へ戻る。

 歯ブラシに歯磨き粉を乗せて口に運ぶと、ミントの爽やかな刺激が広がった。

 しゃかしゃかとリズムよく磨きながら、ゆっくりと気持ちが整っていく。

 口をゆすぎ、清涼感がすっきりと広がった。


 歯磨きを終えた陽一は自室へ戻り、制服に着替え始めた。

 シャツに腕を通し、ネクタイを軽く締め、最後にブレザーを羽織ると、朝のゆるさがスッと引き締まる。


(……よし、行くか)


 玄関で靴を履き、扉を開けた。

 朝の空気はまだ少し冷たく、頬に当たる風が心地よい。


「いってきます」


 そう告げて家を出ると、陽一は学校へ向かって歩き出した。


 校門を抜けると、連休明け特有のざわついた空気が漂っていた。

 陽一は特に気負うこともなく昇降口へ向かい、靴を履き替えて教室へ向かう。


 教室に入ると、あちこちでクラスメートが連休の出来事を話し合う声が耳に入った。

 いつもの席――窓際から三列目の後ろから二番目――に鞄を置き、椅子に腰を下ろす。


「よっ、陽一!」


 着席した途端、晴斗が勢いよく歩いてきて、陽一の目の前にスマホを突き出した。


「これを見たまえ!」

「これは!」


 画面には、発売日未定だった大作ロールプレイングゲームの最新情報が表示されていた。

 長いあいだ続報がなく、ファンの間では “本当に出るのか” とすら噂されていたタイトルだ。

 二人のテンションは一気に跳ね上がる。


「ちょ、近い近い。見えないって」

「自分のスマホで見ればいいだろ」

「あ、そうか!」


 陽一は慌てて自分のスマホを取り出し、検索して情報を確認し始めた。

 そんな二人が新情報で盛り上がっていると――。


「おはよ、二人とも!」


 明るい声とともに佐伯みのりが近づいてきた。

 中学からの友人で、陽一にとって数少ない気取らず話せる女子だ。


「二人は連休中、何してたの?」

「あー、まあ普通に遊んでただけだよ。晴斗と、それから……」


 言いかけたところで、晴斗がにやりと口を挟む。


「実はさ、連休最終日にこいつと賭けしたんだよ」

「賭け?」


 みのりの目が、面白そうに細められる。


「卒業までに陽一に好きな人ができるかどうかってやつな」


 その瞬間、みのりの表情がぱっと明るくなる。


「え、なにそれ絶対面白いやつじゃん!」

「別に面白くはないだろ」


 陽一は特に慌てる様子もなく、いつもより落ち着いていた。

 昨日の少女の顔は、もうほとんど記憶の隅に追いやられている。


(あんな衝撃的な子が近所にいたら、もっと前に気づいてる……よな)


 一度落ち着いて考えてみれば、昨日の出来事は、たまたま偶然遭遇しただけ。

 そう思うと、胸に残っていたざわつきがすっと引いていく。

 会うこともない。なら、なかったことにしてしまえばいい――。


 だからこそ、陽一には強い自信があった。

 この賭けは “確実に勝てる” と。


「それじゃ、負けた方は私の言うことも聞くってのはどう?」


 突然みのりが参戦しようとしてくる。

 しかし、みのりは何も賭けていない。

 二人は思わず――。


「なんでだよ!」

「なんでだよ!」


 と、ぴったり同じタイミングで突っ込んだ。


「アハハ。やっぱりダメか」

「当たり前だろ」


 陽一は呆れたように言いながらも、どこか和んでいた。


「でもさ、好きな人ができたかって、どうやって判断するの?」

「そういや……。でもこいつの場合、初恋だし言動でバレバレになるだろ」

「確かに! すぐわかりそう!」


 晴斗とみのりは楽しそうに笑いながら盛り上がっていた。


「……そこの二人、ちょっとうるさいよ」


 騒ぐ二人を横目に、陽一は深いため息をついた。


 チャイムが鳴り、ざわついていた教室がゆっくりと落ち着き始めた。

 その直後、ガラリと扉が開き、担任が入ってくる。


「ホームルーム始めるぞー。席に着けー」


「やば、先生来た。じゃ、またあとでね! 賭けの行方、楽しみにしてるから!」


 みのりはくすっと笑い、手を振りながら席へ戻っていく。去り際にウインクまで添えて。


「ま、勝つのはどう考えても俺だけどな」


 晴斗は陽一を肘でつついてニヤリと笑うと、自分の席へ戻った。


「……うるせぇ」


 陽一は小さく返しながらも、肩をすくめるしかなかった。

 周囲でも椅子を引く音があちこちで鳴り、クラス全体が落ち着き始める。


「ホームルームを始める前にひとつ連絡がある。今日からこのクラスに転校生が来ることになった」


 その一言に、教室の空気がふっと揺れた。


「じゃあ、入ってきて」


 担任が扉のほうへ視線を向ける。

 次の瞬間、廊下から一人の少女が姿を現した。

 窓際の光に照らされて立つその姿を見た瞬間――。


 陽一の表情が固まった。


(う、嘘だろ……)


 耳に入るはずのざわめきも、すべてかき消えた。

 なぜなら、そこに立っていたのは――昨日スーパーで出会ったあの少女だったからだ。

 髪も、雰囲気も、横顔も。間違えようがない。


(まじ……かよ……)


 喉がひりつき、胸が跳ね上がる。

 もう会うことはない。そう納得させたばかりなのに。

 その少女は当たり前のように教室の前に立ち、深く一礼した。

 陽一は呆然とするしかなかった。


「それではまず自己紹介をお願いします」

「はい」


 少女は返事をして、黒板に丁寧な字で自分の名前――水城小春(みずきこはる)――と書く。


「水城小春です。今日からこのクラスでお世話になります。よろしくお願いします」


 その柔らかい声に、教室のあちこちから小声が飛び交う。


「めっちゃ可愛くない?」

「俺このクラスで良かった……!」


 男女問わず素直な反応が漏れるなか――。


(ど、どうするんだよこれ……!)


 陽一はうつむいたまま、震える胸を抑え込んだ。

 ついさっきまで余裕だった顔はもうどこにもない。


(よりによって同じ学校……同じクラスって……! 晴斗にもみのりにも、絶対バレるだろこれ……!)


 動揺は収まる気配を見せず、胸の奥で渦のように広がり続けていた。

 そんななか、小春の自己紹介が終わると――。


「――というわけで、水城はまだ転校してきたばかりだ。学校のこともクラスのことも分からないことだらけだろう。みんな、困ってたら積極的に助けてやってくれ」


 担任は生徒たちへそう告げた。

 教室中から「はーい」という返事があがる。

 その中で、一人だけうつむいている生徒を担任が見つける。


「……おい、川村。聞いてるか?」


 ピシッと鋭い声が飛んだ。

 陽一はビクッと肩を跳ねさせ、勢いよく顔を上げた。

 周囲の視線が一斉に陽一へ集まる。


(や、やばい……!)


「き、聞いてましたよ!」


 声が裏返りそうになるのを必死で抑えて答える。


「本当か? まあ川村も力になってやってくれな」

「は、はい!」


 担任はそれ以上追及せず進めたが、陽一の胸は叩きつけるように脈打っていた。


(落ち着け……落ち着け……! 昨日会っただけだし、向こうが俺の顔なんか覚えてるわけない――)


 そう思った瞬間だった。

 黒板の前に立つ小春と、ふと目が合った。

 小春は柔らかい笑みを浮かべ、小さく手を振ってくる。


(こ、これは“これからよろしく”って意味だよな? まさか覚えてるなんて……いや……)


 陽一は困ったように引きつった笑みを返すことしかできなかった。


「もしかして川村と知り合いなのか?」


 二人のやり取りに気づいた担任が尋ねる。

 小春は少し考えるようにしてから答えた。


「い、いえ……知り合いというか、昨日スーパーで少し会っただけなんですけど……」


(覚えていたのかよ!)


 小春の説明と同時に、男子から数本の“殺意めいた視線”が突き刺さる。

 その中でも異様にねっとりした視線が混じっていた。

 晴斗だ。

 ニヤリとした笑みを浮かべながら陽一を見つめている。

 まずい、と陽一は直感的に悟った。


「ああ! 昨日会った人か! 今思い出したよ!」


 とっさに、“今ようやく思い出した”体を装った。

 しかし周囲からは、


「こんな可愛い子を一日で忘れるわけないだろ……」

「ありえん……」


 などの声が遠慮なく聞こえてくる。

 耳が痛い。だが晴斗やみのりに自分の感情を悟られないためには、もはや誤魔化すしかなかった。


(もう……いろいろとダメかもしれない……)


 精神的に消耗しきった陽一の思考は、ほとんどフリーズ状態になっていた。


「それじゃ水城の席は……。あそこが空いているか。あそこに座ってくれ」

「分かりました」


 担任が示したのは、廊下側の前から三番目の席だった。

 小春が席へ向かうと、周囲の男子たちは思わず小声で喜びの声を漏らし、「いいなあ」「隣のやつ羨ましい」とざわつく。

 ついさっきまで陽一に向けられていた視線は、見事に小春の隣の男子へと移っていった。


 女子たちも「よろしくね」「なんか困ったら言ってね」と優しく声をかけている。

 その光景だけで、新しいクラスメートが歓迎されていることが伝わってきた。


「それじゃ、ホームルームを始めるぞ」


 担任の声でざわつきが収まり、教室はいつもの落ち着いた空気を取り戻していく。

 だが――陽一だけは違った。

 担任の言葉が、ほとんど耳に入らない。

 胸の奥がざわつきっぱなしで、頭の中はまっ白だ。


(まずい……どうすれば……!)


 なんとか意識を授業へ向けようとするが、ふと横目に入った小春の横顔に、心臓が跳ねた。

 まっすぐ前を向いて先生の話を聞くその姿が、目に入っただけで胸が熱くなる。


(ダメだ! 視界に入れたら終わる! 落ち着け俺!)


 慌てて視線を黒板へ戻す。

 ちょうどそのとき、担任の締めの言葉が聞こえてきた。


「――というわけで、今日も一日頑張っていきましょう」


 内容がまるで頭に入っていないまま、ホームルームは終わった。


 一限目は国語だ。

 教科書を開きながら、陽一は自分に言い聞かせる。


(よし、忘れよう……授業に集中だ、集中……!)


 だが、集中しようとすればするほど横目が勝手に動く。


(何してるんだ俺! 集中しろって!)


 小さく太ももをつねって気持ちを切り替えようとしたところで、一限目終了のチャイムが鳴った。

 休み時間になると、小春の周りにはあっという間に人だかりができた。

 その輪の中には、みのりの姿もある。


「すごい人気だな、水城ちゃん」


 晴斗が呆れたように笑いながら言ってくる。

 陽一は彼女が視界に入らないよう、そっと椅子の向きを変えて廊下側に背中を向けた。


「そうだな」


 平静を装った一言。

 本当はそれだけで心臓が跳ね上がりそうになる。


「でもさ、あれだけレベル高いと普通は会ったことくらい覚えてると思うんだけどな」


 まだ続くらしい。


(まだ続くのかよ、この話題……!)


 心の中は全力でパニックだが、外には出さないよう必死だ。


「特に興味ないしな」


 声は震えず、表情も普段通り。


(――よしっ! 今までのように言ってやったぞ! よく言った俺!)


 内心でガッツポーズしつつも、脇の下には汗がじんわり滲んでいた。


「それより、朝話してた新情報の続きでも話そうぜ」


 陽一はそう言いながら自分のスマホを開いた。

 小春の話題が続くと精神が崩壊する未来しか見えなかったため、半ば強制的に話題をそらしたのである。


「やっぱお前は女子よりゲームの方が好きなんだな」

「当たり前だろ」


 頭の中はぐちゃぐちゃでも、表向きは冷静そのもの。

 彼女さえ視界に入らなければ――

 ほんの少しだけ、落ち着きを取り戻せそうな気がしていた。

 次の休み時間も、陽一は廊下側に背中を向けたまま、晴斗とゲームの話で盛り上がり続けた。


 昼休み、二人は購買へパンを買いに行く。

 陽一はカレーパンとコロッケパン、晴斗は焼きそばパンとカレーパンだ。


「しかし、よく最新情報が出てるの気づいたよな」

「たまたまだよ。今朝調べたら出てたんだよ」

「そうだったのか。早く続きが知りたいな」

「すぐには出ないだろ」


 パンを片手に教室へ戻る廊下でも楽しげに話していると――。


「いいよなぁ、お前ら」

「羨ましいぜ」


 教室前の廊下ですれ違った二人の男子に声をかけられた。

 だが、何を指して言っているのか、陽一にも晴斗にもまったく心当たりがない。


「どういうこと?」

「教室に戻ってみれば分かるよ」


 晴斗が尋ねると、彼らは羨ましそうにそう言った。

 訳も分からないまま、二人は教室に入った。

 パンの入った袋を手に席へ戻ろうとすると、陽一の席にみのりが座っているのが見えた。


「なんであいつ、お前の席に座ってるんだ?」

「さあ……」


 すると、みのりも二人に気付き――。


「二人とも遅いよ!」


 ――と言ってきたものの、陽一と晴斗はみのりと昼食を一緒に食べる約束などしていない。

 いつもは晴斗が後ろの席を借り、陽一と晴斗の二人で昼食をとっていた。

 みのりとは、高校に入ってから一度も昼食を共にしたことはなく、いつも女子同士で食べていた。

 なのに、今日に限ってなぜか陽一の席に来ている。

 とりあえず席に戻るかと歩き出したとき、陽一はあることに気付いた。

 ――みのりの隣。つまり、自分の席の横に、後ろ姿の女子が座っている。


(え……まさか……)


 陽一が自分の席へ近づくにつれ、その予感は確信へと変わる。

 隣に座っていたもう一人の女子は、小春だった。


(な、なんで水城さんがここに!?)


 想定外すぎる光景に、手に持っていたパンの袋を落としそうになる。

 席に着くと、みのりは立ち上がって小春の後ろの席へ移動した。彼女たちはこの席を借りているらしい。


「ふふふ。二人とも私に感謝しなさい。小春ちゃんとのお昼を一緒に食べる権利を、じゃんけんで勝ち取ったんだから!」


 勝ち誇ったように胸を張るみのり。

 だが陽一にとっては、自分の気持ちが露呈しやすい危険な状況が増えただけだった。


(いや、何してくれてんのこの人は!?)


 心の中で盛大にツッコミを入れつつ、陽一は自分の席に腰を下ろす。

 そのすぐ横では、自分の名前を堂々と呼ばれたからか、小春がそっと視線を落とし、指先で耳にかかる髪をかき上げた。頬がふわりと赤い。


 その可愛らしい仕草に陽一は思わず目をそらし、机の上に置いたパンの袋へと逃げるように視線を落とした。


 そんなふうにパンの袋を見つめていると――。


「だからさっきの奴ら、あんなこと言ってたのか」


 晴斗が入ってきた廊下のほうへ視線をやりながら呟いた。


「あんなことって?」

「実はさっき、そこの廊下で――」


 みのりに問われ、晴斗は先ほどすれ違った男子たちとの会話を説明した。


「そんなことがあったんだ。ねね、これってやっぱり私のおかげだよね!」


 みのりは得意げに胸を張る。


(全然おかげじゃねえ!)


 晴斗は「はいはい」と聞き流しているが、陽一にはそれどころではなかった。

 横を向けば、すぐそこに小春が座っている。冷静でいられるわけがない。


 気を紛らわせようと、とりあえずガサゴソと袋からパンを取り出す。

 だが袋に入っているのは二つだけで、すぐに袋の中は空になった。

 机の上には取り出したパンが二個ある。


(どうしよう……また別のことで気を紛らわせないと……!)


 必死に考えていると――。


「あの……いきなり来てしまって、迷惑じゃなかったですか?」


 気を遣ってくれたのか、小春が膝の上で手をもじもじと触れ合わせながら、遠慮がちに尋ねてきた。


「そんなことないから気にしないでよ。な、陽一」

「お、おう」


 晴斗が急に話を振ってきたせいで、陽一はビクッと肩を震わせる。


「そうそう! こんな可愛い美少女二人と一緒に食事できるんだから、それを迷惑だなんて思う男子いるわけないでしょ」

「お前、自分で美少女って言えるとか……いい性格してるよな」

「え? そう?」


 満面の笑みで言い切るみのりに、晴斗が呆れ顔で突っ込みを入れる。

 そんな二人のやり取りが可笑しかったのか、小春もくすっと笑みをこぼしていた。


「とりあえずお昼食べよう」


 みのりはそう言うと持ってきたお弁当箱を広げた。

 小春も「うん」と言って、自分のお弁当箱を広げた。

 陽一と晴斗は、買ってきたパンを頬張るようにして食べた。


 気づけばパンはいつの間にかなくなっており、昼休みも終わりを迎えようとしていた。

 昼休みを終えるチャイムが鳴ると、三人はそれぞれ自分の席へと戻っていった。


(た、助かった……)


 パンの味も、いつ食べ終わったのかも覚えていない。

 何かを話した気はするが、何を話したかも一切覚えてはいなかった。


(俺……変なこと言ってないよな?)


 そんな不安を抱えたまま午後の授業が始まった。

 しかし午前同様まったく授業に集中ができず、授業内容は頭に入ってこない。

 気づけば残りの授業も終わり、帰りのホームルームも終了していた。

 この日は身が入らない一日となってしまった。


 学校はもう安全な場所とは言えなくなった。

 こうしてゆっくりできる場所はもう自分の部屋ぐらいしかなかった。

 そもそも、あんな賭けをなんでしてしまったのかと、つくづく後悔していた。


「今頃後悔しても遅いか……。でも、水城さん可愛いかったなぁ……」


 昼休みに見せた小春の笑みがふと脳裏に蘇り、思わず口にしてしまう。

 我に返ると、首を左右に振った。


(ダメだ!このままだと賭けに負ける!)


 気持ちを切り替え、携帯ゲーム機を取り出して現実逃避を始める。

 しばらくすると、玄関先が騒がしくなった。

 どうやら母親が買い物から帰ってきたらしい。


「どうぞ上がってください」


 聞き覚えのある声とともに、お隣さん夫婦も一緒に来たようだ。

 スマホで時刻を確認すると、夕方の五時半を指している。

 学校から帰宅して一時間半、ゲームに夢中になっていたせいか時間の経過はあっという間だった。


 その時、部屋の扉が開く。

 廊下から顔を覗かせたのは母親だった。


「ちょっと荷物運ぶの手伝ってよ」

「ええ……」


 母親から買ってきた材料を運ぶ手伝いを頼まれ、嫌そうな顔をした陽一。


「そんなこと言っていると夕飯抜きにするわよ」

「分かったよ……」


 そう言い、部屋を出ようとすると廊下で見知らぬ女性と目が合った。

 その後ろには男性の姿もある。

 すぐに引っ越してきたお隣さん夫婦だとわかった。二人とも優しそうな雰囲気だった。


「うちの息子です。ほら陽一、挨拶しなさい」

「こ、こんばんは」


 母親に促され、陽一はぎこちなく挨拶する。


「こんばんは。今日は夕食に招待してくださってありがとうございます」

「い、いえ……」


 招待したのは母親なのに、何と答えたらいいかわからず、つい軽く返してしまった。


「今日は私まで招待していただいて、なんだか申し訳ないです」

「何を言っているんですか。こちらからご招待したんですから、気にしないでください」


 お隣の旦那さんが気を遣うと、母親がフォローする。


「そうですよ。逆に突然のお話で迷惑じゃありませんでしたか?」

「そんなことありませんよ」


 父親も加わって場は和み、母親は手洗いへ案内する。

 父と旦那さんはソファに座り、楽しそうに話し始めた。

 その時、インターホンが鳴る。


「もしかしたら、うちの娘かもしれない」

「娘さんがいるんですね。陽一、悪いけど出てくれないか」

「分かった」


 面倒だと思いつつ、せっかく和やかに始まった場を邪魔したくない。


「はーい」


 返事をして玄関のドアを開けると――。


(え?)


 目の前に立っていたのは、水城小春だった。


「え? 陽一君?」


 小春は驚きを隠せない様子だった。

 しかし、それ以上に驚いていたのは陽一自身だった。


「み、水城さん。どうしてここに?」

「今日、夕食に誘われたんですけれど……。何も聞いていないですか?」


 動揺しつつも、陽一はなんとか平静を保って応対する。


(え? 夕食に誘ったのはお隣さんだよな……。ん?)


 混乱して思考が追いつかない。

 すると背後から女性の声が聞こえた。

 それはお隣の奥さんだ。


「やっと来たの?小春」

「お母さん!」


 小春のその言葉で、陽一の思考は完全に停止した。


(お、おか、お母さん!?)


 ようやく理解した。

 隣に引っ越してきたのが水城小春だということを――。

 同時に、陽一の胸ははちきれそうだった。


「陽一。いつまでそこに立たせておくの。早く上がってもらいなさい」

「ど、どうぞ」


 母親の言葉で緊張しながらも、小春を室内に案内する。


「お、お邪魔します」


 クラスメートの陽一の家だと知りつつ、小春も緊張しながら家の中へ入った。

 小春が靴を脱いで家に上がろうとしたとき、陽一は自分の部屋の扉が半分開いているのに気づいた。

 慌てた陽一は、思わず扉を閉める。


「普段から整理していないから、こういう時慌てることになるのよ」

「うるせえ」


 別に部屋が汚いわけではない。整理はされているし、掃除もしてある。

 しかし、どうしても小春に部屋を見られることだけは抵抗があった。


「陽一君の部屋は左側にあるんだ。私の部屋と逆なんだね」

「そうなんだ……」


 上の空で答える陽一。だが、ここである重要なことに気づく。


(ん? 俺の部屋と逆……? まさか……)


 小春の部屋の位置が逆なら、陽一の部屋の隣が小春の部屋になるということだ。

 つまり、陽一の部屋と小春の部屋は一つの壁を挟んで隣同士になるということになる。

 たとえ壁で隔てられているとはいえ、陽一にとっては一大事だった。


「き、聞きたいことが、あ、あるんだけれど……。もしかして、俺の部屋の隣が水城さんの部屋なの?」


 緊張を押し殺し、何とか声を絞り出す。


「……そうなるのかな」


 小春は少し間を置き、柔らかく答えた。


(マジかよ……!)


 陽一は深く息をつき――


「そ、そうなんだ」


 平静を装うが、内心は動揺でいっぱいだった。

 家に上がると、陽一はリビングにある台所へ向かった。

 母親と小春の母親はすでに台所に立っており、二人で手際よく準備を進めている。


「一緒に料理をするって言ってたから、エプロン持ってきてるわよ」

「う、うん……」


 クラスメートの陽一の目の前で、小春は母親から手渡されたエプロンを恥ずかしそうに身に着けた。

 だが、そのエプロン姿は陽一にとって衝撃的な光景だった。


(み、水城さんのエプロン姿……可愛すぎるだろ……)


 まるでアニメや漫画のワンシーンのような光景に、陽一は思わず見とれてしまう。

 しかし、このまま台所にいると母親に気持ちがバレるかもしれない。

 そう考えた陽一は、自室へ避難することにした。


「それじゃ、俺は自分の部屋に戻るわ」


 そう言って振り返ろうとした瞬間――。


「小春ちゃんが手伝ってくれるんだから、あんたも少しは手伝いなさいよ」


 母親の一言に、陽一は思わず固まった。


(この状況で手伝えるわけないだろ!)


 心の中でそう叫びつつ、視線をそらす。


「今回招待されたのは私たちの方ですから、大丈夫ですよ」


 そうフォローしてくれたのは、小春の母親だった。


「私も頑張りますので大丈夫ですよ。陽一君も完成を楽しみに待っててね」

「お、おう……」


 小春が可愛らしく言うのを聞き、陽一の心臓は再び高鳴る。

 手料理の完成を楽しみに思う反面、このまま台所にいると自分の動揺がバレそうで怖い。

 結局、返事だけをして陽一はそそくさと自室に戻った。


 自室に戻った陽一は、先ほどの続きとしてゲームを再開する。

 とにかく今は、気を紛らわせることが最優先だった。

 しかし、しばらくすると台所からスパイシーで食欲をそそる香りが漂ってくる。


(あ、この香り……カレーだ……)


 小春たちが作るのは、定番のカレー。

 香りだけで食欲が刺激されるが、同時に心の高ぶりも収まらない陽一だった。


 しばらくゲームをしていると、母親が料理ができたと呼びに来た。

 時計を見ると、夜の六時半を指している。

 普段より少し早い夕食だが、陽一はリビングへ向かった。


 食卓の上にはカレーライスとサラダ、そしていつものドレッシングが並んでいる。

 いつもなら余裕のある食卓も、六人となるとさすがに手狭だ。

 食卓は座卓だったため、間を詰めて座ることになり――結果、陽一の隣に小春が座ることになってしまった。


(ち、近い……)


 そう思いながらも全員が席に着き、食事が始まった。

 大人たちは楽しげに会話を交わしながらカレーを口に運んでいる。

 しかし陽一は、すぐ隣に小春がいること、そしてその小春が作った料理を食べているという事実に、まったく落ち着かなかった。


「うまくできたと思うけれど、どうかな?」


 カレーを食べていた陽一に、小春が心配そうに感想を尋ねてきた。

 突然のことで、思わず喉に詰まりかけるが、なんとか飲み込む。


「す、凄く美味しいよ」

「本当に? 良かった」


 そう言って、小春はほっとしたように笑った。

 その笑顔が、さらに陽一の心拍数を跳ね上げる。


(その笑顔は反則だろ……! というか、何回可愛いって思ってるんだよ俺! このままじゃ、うっかり口に出しそうだ……!)


 余計なことを言わないよう必死に自制しながら、陽一は黙々とカレーを口に運んだ。


 食事を終えると、小春たちは帰宅の準備を始めた。


「本当に片付けはしなくて大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ。こちらからお誘いした夕食会ですから、気にしないでください」


 心配そうに尋ねる小春の母親に、陽一の母親が笑顔で答える。


「それではお言葉に甘えて……。今日はありがとうございました」

「いえいえ。こちらこそ、いろいろお話できて楽しかったです。またいつか、こういう食事会をしましょう」


 その会話を聞いていた陽一は――。


(また一緒に食事!? 勘弁してくれ……! 俺の身がもたない!)


 ――と、心の中で叫んでいた。


 小春の家族は、陽一の家族に見送られながら玄関へ向かう。


「それでは、今日はこれで失礼します。ごちそうさまでした」

「今日はお世話になりました」


 玄関先で小春の母親が頭を下げ、小春の父親も続けて礼を言った。


「陽一君、今日はありがとう。また学校でね」


 そう言って、小春は笑顔で手を振る。


「お、おう。またな……」


 両親が軽く会釈をすると、玄関のドアがゆっくりと閉まり始めた。

 陽一は、その様子をただ黙って見つめていた。

 小春の姿がドアの向こうに隠れ――やがて、完全に閉まる。


「じゃあ、食器を下げるの手伝って」

「……わかった」


 リビングに戻り、陽一は使い終わった食器を台所へ運び始めた。

 その途中、なぜか小春が使っていた食器だけがやたらと気になってしまう。


(これは食器だ。いつも家にある、ただの食器……)


 自分にそう言い聞かせながら、台所へ運ぶ。

 母親はすでに洗い物を始めていた。


「それじゃ、自分の部屋に戻るよ」

「はいはい」


 片付けを終えると、陽一は自室へ戻った。

 ベッドに腰を下ろし、すぐ横の壁へと視線を向ける。


(この壁の向こうが、水城さんの部屋……。って、何考えてるんだ俺!)


 慌てて頭を振り、深く腰掛け直す。

 晴斗との賭けの期限は、高校を卒業するまで。

 だが今は、まだ入学して間もない五月だ。


 その事実を思い出し、陽一は頭を抱え――。


「はあ……。先が長すぎる……」


 大きなため息とともに、そう嘆くのだった。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ