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前編

 (まち)はずれにある教会(きょうかい)の窓ガラスを雨粒(あまつぶ)がバシバシと叩いていた。

 その様子をナビスは祈るように見つめていたが、それは現実から逃れる唯一の現実逃避(げんじつとうひ)だった。

 この辺鄙(へんぴ)な町に来たのは、ちょうど一か月ほど前の事だった。助祭(じょさい)リーコンから言われ、馴染み(なじ )の土地を離れるのは後ろ髪を引かれる気持ちであったのだが、町について教会に赴いた時、気持ちは晴れた。

 教会を取り仕切っていたシスター・ナンの人柄があまりにも良かったのだ。町のありとあらゆる人から好かれ、そして、町のありとあらゆる人に神の教えを説くその姿というのは、ナビスの心を強く打った。そして、その姿というのは(まぶた)を閉じても思い浮かぶほどに美しかった。

 一度、夜の宿舎でシスター・ナンの部屋の前を通った時、扉がほんの少し開いていた。ナビスの心にある小さな男の部分が悪戯(いたずら)を起こし、悪い事とは思いながらも、その隙間(すきま)から中を覗き込んだ。

 蝋燭(ろうそく)のほのかな灯りが、シスター・ナンを照らす。シスター・ナンは、どこで手に入れたのか、薄い麻の寝間着(ねまき)に袖を通しており、体の線がくっきりと伺えた。その灯りを頼りに、シスター・ナンは書き物をしているようであったが、その真剣な様子がナビスの敬虔(けいけん)な心を強く鞭打った。

 シスター・ナンが、ぴくりと体を震わせた。それから、ゆっくりと顔をこちらに向ける。

 青い(ひとみ)がナビスを捉えた。

 強烈(きょうれつ)罪悪感(ざいあくかん)と共に、心臓が掴まれたかのような衝撃が、ナビスを襲った。

 足早にその場を去ったが、眠れない夜を過ごしてしまった。明日の朝に、シスター・ナンに何を言われるか怖かったのだ。嫌われたら、あの青い瞳で軽蔑の言葉を言われたら、いや、まさか、あのシスター・ナンがそのような事を、とぐるぐると思考が回ってしまったのだ。

 しかし、その不安を払しょくするように、何事もなかったかのようにシスター・ナンは接してくれた。

 いつか、謝らなければならない。

 そう思っていたのに。

 今、ナビスの前には、シスター・ナンの遺体がある。

 そして、踵を返して後ろには、三人の男が椅子に座っている。いずれも町の住人である。


「ナビス牧師、一体、どうするのですか」

「良い質問ですね。ベイカーさん。パン屋のベイカーさん、鍛冶屋のスミスさん、そして、運送屋のポーターさん。あなた方三人には、嫌疑がかけられています」

「け、嫌疑? ベイカー、スミス、俺たちは何も悪い事をしていないよな」

「あ、あぁ、ポーターの言うように、俺たちが教会に入った時、シスター・ナンはすでに」

「黙りなさい」


 ナビスは、子供と思わせぬように精いっぱいの威厳を絞りだし、そう三人の言葉を制した。しかし、それは功を奏したようで、三人の男はぐっと唇に力を入れて言葉を発しようとすることはなかった。ナビスは、それがシスター・ナンの活動の結果と、教会の威光であるのが直感的に理解できたが、話を続ける。


「シスター・ナンの身体を検めました。シスター・ナンは、明らかな死の原因がわかりません」

「じゃあ」

「つまり、これは悪魔の仕業」


 ナビスは人差し指を立てて言った。

 突拍子もない事ではあり、町の三人は口々に不満と自らの潔白を口にした。しかし、確固たる反証も出来ない。何故ならば、シスター・ナンの身体には外傷もなく、かと言って、毒物を使われた形跡も見当たらない。かといって、病弱というはずでもなかった。まさしく、眠るように死んでいるからだ。今にでも起きてきそうな気がする。

 つまりは、悪魔の仕業。

 ナビスがそう結論付けた。そうなると、もはや、人の審判(しんぱん)は行えず、神の審判に任すほかない。

 教会の奥にある銀杯(ぎんぱい)を慎重に取り出すと、三人の前に差し出す。銀杯の中には、水がなみなみと注がれている。ただの水ではない。それは、神の力により清められた水、聖水である。


「馬鹿馬鹿しい」


 鍛冶屋のスミスが、ぶっきらぼうにそう言うと鼻から大きく息を吐き出した。


「俺は神を信じない。そんなもので、俺がシスターを殺したなんて」

「神は誤りません。今より、神の起請(きしょう)を行います」


 ナビスがあっけらかんと言い放った言葉に、スミスと、ベイカーとポーターは驚きを隠せなかった。

 神の起請というのは、自らの身の潔白を神に誓い、それを神に証明してもらう儀式である。教会の銀杯に注がれた聖水に腕を入れ、自らの身の潔白を誓う。そして、それにより、何事もなければ神によって潔白が証明されたという事だ。もしも、逆に何事か起これば、それは神の前で偽証をしたこととなり、それは、すなわち、神に嘘を吐いたという事に他ならない。


「ただの水だ。そんなのは何の証拠にもならない」

「そうでしょうか。スミスさん」

「俺はしないぞ。神なんて信じてない」

「では、あなたが殺したのですか? でないならば、どうぞ」


 銀杯を椅子に座ったままのスミスの前に差し出す。銀杯の中に注がれた聖水の水面は、少し波打っていたが、徐々にそれは収まり、スミスの太い首を映した。

 スミスはごくりと生唾を飲み込む。他の二人も緊張の面持ちで、スミスを見ていた。こうなっては引き下がれない。

 もしも、ここでこの起請に参加しなければスミスはシスター殺しの評判を受けることになる。

 わかった、とも言わずに、スミスは銀杯へと右手を伸ばし、 聖水に浸けた。


「では、スミスさん。神に誓ってください。シスター・ナンを殺していない、と」


 冷たい銀杯の聖水の中でごつごつとした指を広げ、スミスは緊張に深く息を吸い込んだ。

 その手を見ながら、スミスは覚悟を瞬時、迷ったようであるが、意を決したように目をナビスに向ける。


「俺はシスター・ナンを、殺してない」


 暫時の静寂が、教会を包んだ。

 雨音と枝葉のこすれあう音が、聞こえる。

 誰もが息を飲んだ。

 が、スミスがはっと笑うように息を吐きだす。


「はは、見ろよ。何もない。俺は無実だ。神は俺を無実としてくれている」


 余裕綽々という様子で、スミスは涙がうっすらと滲んだ眼で笑みを見せ、銀杯から手を出そうとした。

 その時である。

 銀杯から抜いた手、聖水から抜いたそのスミスの手が、赤く焼けていたのである。まるで熱い湯の中に浸したエビのように赤くなったその手は、もうもうと湯気を立てているのだ。聖水に指をつけたナビスは、その水が変わらず冷たいことを確認した。聖水につけた手が赤く熱を持ち、焼ける。そのような事例は聞いたことがないナビスであったが、このような異常事態は、間違いなく、神の起請としては偽証を行った事に他ならない。


「なんだよ、これ!」


 そのスミスの声に呼応するかのように、雨脚が強くなり、窓を強く叩く。

 いつしか真っ赤な右手は炎を出していた。その炎はスミスの体をあっという間に包み込む。まるで踊っているかのように数歩、スミスは歩き、悲鳴も出せぬままに倒れてしまった。倒れたスミスに慌てて駆け寄ったナビスが改めると、右手が少し濡れているだけで燃えた形跡はない。すっかりと炎があった様子はなく、今や、三人の記憶にしか炎は存在しないのだ。


「ナビスさん。スミスさんはどうなんですか?」


 椅子に座ったままのベイカーがそう恐る恐るというように、震える声で聞いてきた。

 ポーターも椅子から立ち上がっているが、それでも膝が笑って震えている。

 言われて初めて、ナビスはスミスの口へと手を近づけた。が、少しして首を横に振る。


「死んでいます」


 ナビスがそう言い終わるかどうかというとき、雷鳴がすべてをかき消した。

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