隣の席の悪役令嬢
隣の席の女子が転生してきた悪役令嬢っぽい。
何を言っているのか分からないと思うが、俺も分からない。
もともと結構ラノベや漫画を読む方で、最近無料の小説投稿サイト発のアニメにハマったのをきっかけに、ランキング上位作はだいたい読んだ。
男性向けで目ぼしいところを読み終わったので、最近は女性向けであんまり恋愛色の強くなさそうなお仕事ものとかもちらほら読むようになっていた。
漫画やゲームの世界の悪役令嬢に転生するという悪役令嬢モノがブームらしく、今俺が言っている「悪役令嬢」というのもそれに出てくる架空の概念なのだが。
俺が通っているのは現代日本の、普通の公立高校だ。偏差値は中ぐらい、地元の私立大学に進学するのが8割くらいの自称進学校。
特にお金持ちが通う学校というわけでも、ファンタジーな魔法学校というわけでもない。
じゃあ何で悪役令嬢なんだよと思うだろうが、それ以外に表現のしようがないのだ。
隣の席の女子――確か名前は「芹沢さん」――は、登校してからまず、ずっと教室のドアの前で突っ立っていた。
何をしているんだろうと覗き込めば俺に一言、「ちょっと、開けてくださる?」。
はぁ?と思いながらも、開けないことには俺も教室に入れないのでドアを開けると、俺より先にすたすたと教室に入っていった。
後姿を見て、背中の中腹くらいまであるその髪がやたらぼさぼさであることに気づく。
無頓着な女子もそりゃあいるだろうが、芹沢さんは特にそういったことはない――というか、取り立てて特徴のないタイプだった。
そしてしゃなりしゃなりと自分の席まで歩いて行って、今度は椅子の前に突っ立った。
今度は何かと思いながら、俺も自分の席に行って、椅子を引く。すると彼女はまた一言、「椅子、引いてくださる?」。
はぁ?? と思いながらも、何となく彼女の椅子を引く。芹沢さんはしずしずと椅子に腰かけた。
何のギャグかと思ったが、芹沢さんとは隣の席と言うだけでほとんど話したことはない。いきなりギャグをかまされる筋合いはないはずだ。
はてどうしたことかと思って、気になった。
だが声を掛けるような間柄でもない。そういう筋合いではないのだ。
授業中にも何となく、ちらちらとその様子を窺うにとどめていた。
授業中は当然だが、おとなしく座っている。何をするでもない。あれは何かの聞き違いだったのだろうか。
そう考え始めたとき、担任教師の現代文の授業中に、芹沢さんが当てられた。
教科書の次の文章を読み上げるだけで、たいして難しいこともない。答えが分からないとかそういうことではないはずだ。
だが、芹沢さんは返事もしない。
ただつくねんと、席に座っていた。
何度か先生が声をかけても、返事がない。
先生が不思議に思って――というかクラスのみんなが不思議に思っていたが――芹沢さんに近づく。芹沢さんはどこか偉そうに、しゃんと胸を張っている。
体調が悪いようにも見えないその様子に、先生がため息を吐いた。
「芹沢、ちゃんと返事しなさい」
ぽん、と先生がファイルを芹沢さんの肩に軽くぶつける。
頭を叩いたら体罰だし、肩に素手で触れたらセクハラだ。
そのあたりの昨今のコンプライアンスに留意した、非常に控えめな注意であったと思う。
なのに、芹沢さんは。
黙って、俯いた。
俯いている彼女の目には涙がたまっていて、唇を噛み締めていて。
俺の疑念が、確信に変わる。
何かが、おかしい。
「せ、先生!」
咄嗟に立ち上がった。
そして芹沢さんの手首を掴んで、言う。
「芹沢さん頭痛いらしいんで保健室連れていきます!」
「え? おい、」
「俺ちょうどお腹痛いんで!!」
目を丸くして俺を見る芹沢さんの手を引いて、教室を出る。
先生は何か言おうとしたようだったが、それこそコンプライアンスに配慮したのか、二の句はなかった。
◇ ◇ ◇
「あの。芹沢さん」
廊下に出て、ある程度教室から離れた階段の近く。
俺は足を止めて、芹沢さんに話しかけた。
だが、芹沢さんは返事をしない。
それどころか、キッと俺の顔を睨みながら、俺の手を振り払った。
「突然何をなさるの? あなた、無礼ではなくて?」
いや無礼って。
そう思った。突然何をするのか、の部分に関してはまあ仕方ないとしても、無礼って何だよ。
話し方もなんか、お嬢様? みたい……
そこで、はっと気づいた。気づいてしまった。
荒唐無稽な妄想ではあるが――俺の頭の中で、点と点が線になった。
悪役令嬢モノを読んでるとき、疑問だったのだ。
普通の現代日本の女の子が、悪役令嬢に転生。じゃあ、もともとの悪役令嬢の人格は、どこに行ってしまうのか。
たまに同じ体に同居するパターンとかもあったりするけど、多くの小説ではもともとの悪役令嬢の魂がどうなったのかは語られない。
悪役令嬢、どこ行った問題。
その答えが、俺の目の前にある「ここ」だとすれば?
「えーと。……もしかして、芹沢さんじゃ、ない?」
俺の言葉に、芹沢さん――いや、芹沢さんらしき誰かが、顔を上げた。
恐る恐る、問いかける。
「君の、名前は?」
「……セリーヌ」
芹沢さんらしき誰かは、答えた。
「セリーヌ=デ=アークヤーク、ですわ」
俺は天を仰いだ。
確定じゃん。
名前から立ちのぼる悪役令嬢感がえげつない。嘘だろ。名字だけでこんなことになる??
聞いた名前を手元のスマホでググる。
案の定、すぐ出てきた。予想通り悪役令嬢モノのラノベのキャラクターだ。
高飛車なお嬢様だったはずのセリーヌの中身が、現代から来た普通の女の子になっちゃった!? という、まぁよくあるあらすじが書かれている。
試しにWeb版の最新話を開いたらセリーヌが異世界でホストクラブを経営していた。
どうしてだよ。あらすじから想像したのとだいぶ違うよ。何があったんだよ道中で。
「わたくし、気づいたらここにいて、姿かたちも変わってしまっていて……ですが、身体が覚えているのか、不思議と出来ることもあったりして。もう何が何だか」
自分の肩を抱きながら俯く芹沢さん、いや、セリーヌ。
俺が芹沢さんのなりきりに付き合わされているという可能性もあるけど、もしそうなら芹沢さんは名女優になれる。
それくらい、話し方から立ち居振る舞いから、お嬢様感がばしばしと漂ってきていた。
でもこんな話、他の人に信じてもらえるかどうか。まだ厨二引きずってんの? 高2で? と思われかねない。
異世界転生モノ、現代人側は死んでるパターンのがよく見るけど……見たところ芹沢さんの肉体は元気そうだ。
となると、芹沢さんの中身が帰ってきて、セリーヌも元の世界に帰れて、というパターンが一応、残されていることになる。
でもなぁ。悪役令嬢モノの悪役令嬢なんだから、向こうではそれなりに幸せにやってるんだろうし。わざわざ帰ってくるもんかなぁ。
恋愛モノなら向こうでイケメンに囲まれてウハウハだろうし、お仕事ものでも現代知識で大成功して無双してるんだろうし。
ホストクラブ経営がどっちに分類されるのかちょっとわかんないけど。
俺がチーレム主人公に転生してたら帰ってこないだろうから、まぁ、そういうことだろ。
そう考えると、おそらく元の世界には戻れないだろうセリーヌのことが急に可哀想に思えてきた。
何の因果か声かけちゃったわけだし。とりあえず状況説明くらいはしておかないと。
「えーと、セリーヌ? 急に言われても困ると思うんだけど、ここ、セリーヌがいた世界とは、別の世界なんだよね」
「別の、世界?」
「うん。セリーヌたちからしたら、本とか、物語の中の世界っていうか。ほら、前の世界にはなかったものとか、いっぱいあるし」
「魔法のある世界、ということかしら」
「うーん、まぁ、大体そんな感じ」
ちょっと諦めた。
まぁ電気とかガスとかスマホとか、そのへんほとんど魔法みたいなもんだろ。
そんな感じでところどころお茶を濁しながら、彼女のおかれた現状について説明する。
こんなこと言われたって困るだろうと思うのだが、彼女は時々相槌を打ったり質問をしたりしながら、真剣な表情で俺の話を聞いていた。
俺の話が終わった後、しばらく黙ってから、セリーヌはこう問いかけてきた。
「つまりわたくしは……この世界で生活しながら、セリザワサンが戻ってくるのを待たなければならない、ということですね?」
「あー、うん。まぁ、そう」
俺は濁しに濁しながら、頷いた。
芹沢さん、多分帰ってこないよ、とは、とてもじゃないけど言えなかった。
最低限のことを教えて、休み時間になったのを見計らって2人で教室に戻った。
他人の俺に出来るのはここまでだ。後はセリーヌ自身の力で何とかやっていってもらうしかない。
セリーヌが着席するや否や、女子が1人セリーヌさんに駆け寄ってきた。
「カモちん! ごめん数Ⅱの教科書貸して!」
そう両手を合わせて頼んでいる。そうだ、この女子、たまに見かける、隣のクラスの――芹沢さんの友達だ。
「かもちん?」
セリーヌは目を瞬いて、首を傾げる。
まさか「カモちん」が自分のことだと思っていないようだった。そりゃそうだ。何でカモちんとか呼ばれてるのか、俺も知らない。
「あの。何のお話かしら。わたくしにはよく……」
「わ、わたくし?」
「どわー!!」
気づいたら2人の間に手刀を振り下ろしていた。
まずい、まずい。
普通にしろって言ったけど、セリーヌと俺の普通が違いすぎる。何故なら育ってきた環境が違うから。
そして特に何のアイデアもなく飛び込んでしまった。芹沢さんの友達がきょとんとした顔で俺を見ている。
やばい、やばい、何か言わなきゃ。
「ほ、ほら、流行ってるから! お嬢様! Y○utubeで!」
「あー、あれかぁ」
俺が必死で絞り出したガバガバの言い訳に、芹沢さんの友達はぽんと手を打った。
そしてやれやれと肩を竦める。「またかぁ」と言わんばかりの仕草だった。
ん? 「またか」?
「カモちん、ほんと影響されやすいよね。中学の頃は大河ハマって『某は芹沢鴨の生まれ変わりで候』って言ってたし」
芹沢さん!?
どういうこと!?
俺は驚愕した。
ていうかそれで今も友達に「カモちん」って呼ばれてるの!?
厨二時代の傷を日々抉られ続けてて気にならないの!? メンタル強すぎない!?
芹沢さんの謎情報が浮上してしまったが、とりあえずセリーヌに耳打ちする。
「教科書、ほら、借りに来たんだって」
セリーヌははっと気づいた様子で、机の中から教科書を取り出すと、何冊かまとめて友達に差し出す。友達は何事もなかったかのように、その中から一冊数Ⅱの教科書を抜き出して、走って行った。
「ありがと、カモちん……じゃなかった、お嬢様!」
その背中を見送って、はあとため息をつく。
予想外にあっさり納得されてしまった上に俺より順応している。
え? もしかして本当に、「転生した悪役令嬢の中身ごっこ」に付き合わされてる可能性ある? 俺。
嫌なんだけど。厨二の片棒担ぐの。
「……あの」
だが。
「ありがとう、ございます」
そうお礼を言うセリーヌを見ていると、何となく嘘だと思えなかった。
もういい。芹沢さんが超演技派だったら俺が馬鹿だったと諦めよう。
◇ ◇ ◇
「芹沢さん、次体育だよ」
「え?」
「早く行かないと、俺たち着替えられないんだけど」
委員長の男がそうセリーヌに話しかけた。
クソッ、何で今日に限ってそんなに難易度の高い授業があるんだ。
「着替え?」
「もーいんじゃん? 裸になるわけじゃなし」
「きゃっ!?」
クラスのお調子者が制服のシャツを脱ぎだした。
それを見てセリーヌは悲鳴を上げる。そしてさっと両手で自分の目を覆った。
「ぶ、無礼者! 破廉恥ですわ!」
「無礼?」
「破廉恥?」
「ですわ??」
皆が首を傾げた。
大慌てで割って入る。
「あー、ほら! 流行ってるじゃん、今! こういうVtuber!」
「あー、確かに」
俺が言うと、お調子者がやけにあっさり、頷いた。
何故だろう。何かさっきの芹沢さんの友達と同じく「あるある」みたいな顔をしている気がした。
「芹沢、中学の頃作務衣で登校してたもんな」
せ、芹沢さん!!??
思わずセリーヌを振り向くが、彼女の中身はセリーヌなので無駄な動作であった。
どういう、どういうこと!?
芹沢鴨は百歩譲って置いておいて、どうして作務衣で!?
新選組と言えばあの青と白の羽織じゃないの!? 解像度が低すぎるよ芹沢さん!!
どうしよう。聞けば聞くほど芹沢さん(本体)のことが気になってきた。今時珍しいくらいの振り切った厨二病具合だ。
何がどうしてそうなってしまったんだ、芹沢さん。全然共感できないよ芹沢さん。
そして悟る。この解像度の悪役令嬢をお出しできるならたぶん作務衣では登校しない。
から、今回はなりきりではなく本当に、中身が挿げ替わっているんだろう。
とりあえずセリーヌの背中を押して、教室から追い出した。頭が痛かったことになっているので、それを利用して保健室まで連れて行く。
さすがに着替えて体育はハードルが高すぎる。
放課後迎えに行くまで保健室にいるように言い聞かせて、俺は教室に戻った。
◇ ◇ ◇
放課後、セリーヌと合流して公園に向かう。もう少し詳しいことを説明しておかないと俺がやきもきする気配が感じられたからだ。
事情を知ってしまっているので、いくら放っておこうとしても目に入ってしまう。隣の席だし。
せめて俺の胃がキリキリしない程度には馴染んでほしい。
「なるほど。身体能力を鍛える授業があるのですね」
「そう。セリーヌのいた世界にはなかった?」
「ダンスのお稽古はございましたけれど」
体育も、女子はダンスあるっちゃあるけど。
たぶんセリーヌの知っている奴とはだいぶ違う気がする。Niz○Uとかじゃないんだろうな。
「……あら、あれは? 随分と賑やかですわ」
「あれ? あれはパチンコ」
「ぱちんこ……」
ふらり、とセリーヌがパチ屋に向けて歩き出す。
いや、確かに賑やかだけども。出入りしている人間の目が死んでることにも目を向けて欲しい。
大慌てでその腕を掴んだ。
「だ、ダメダメ! 子どもはダメなの、あれ」
「あら、わたくしはもう17歳ですわ。デビュタントも済ませましたのよ」
「文化の違い~!」
何とかしてセリーヌを引き戻した。このままだと一人にした瞬間、ふらりと行ってしまいかねない。
何か他に気を惹くもの、と周囲を見回して、はっと気づいた。
「若者用のはこっちだから!」
セリーヌの背を押しながら、ゲーセンに足を踏み入れた。
光る機械とかうるさいゲームとかたくさん並んでるし、ほとんど似たようなもんだろう。お金がなくなるところも似てる。
「な、なんですの、これは。目がちかちかしますわ!」
「ゲーセン。お金入れて遊べるゲームがいろいろあるの」
「お、音も、頭が割れそうです……!」
「パチ屋もこんな感じだよ」
と、あることないことを言ってセリーヌを諦めさせることに成功した。
少し筐体の少ないところまで歩いてきてベンチに腰掛け、ふぅとセリーヌが息をつく。
「す、すごいところ、ですのね……」
「まぁ慣れてないとそうかもな」
「……あ」
セリーヌが小さく声を漏らした。
視線を追いかけると、小型のUFOキャッチャーがある。
手のひらサイズのまるまるコロコロしたウサギのマスコットが入っていた。
釘付けになっているセリーヌに、問いかける。
「ウサギ、好きなの?」
「い、いえ」
セリーヌがふるふると、首を横に振った。そして、自分の手元に視線を落とす。
「あんなに可愛いもの、わたくしには似合いませんわ」
そういうもん?
ああいうの、女子は皆好きなんだと思ってた。
まぁ悪役令嬢ってこう、ツンとした感じの見た目なイメージだから、もっとガツンとくる感じのが好きだったりするのかな。
でも、今はそれこそ「普通の女子高生」なわけで。
いや、芹沢さんが普通の女子高生かどうかはこの際置いておくとして。
筐体に近づいた。大物系は難しいけど、こういうのなら500円も入れたら、ぼちぼち取れるだろ。
そう考えて、100円玉を投入した。
奥にアームを動かすときは、横から見ると良いんだよな、こういうの。
……楽勝だと思ったらまぁ普通に千円くらい吸われたわけだけど、取れたんだからいいだろ。過去は振り返らない。今週昼飯が質素になるだけ。
「はい」
「え?」
「取れたから」
セリーヌの手にマスコットを押し付ける。
そして鞄を持って、彼女を振り返った。
「もう満足した? 行こうぜ」
「あの、これは」
「早く話せるとこ行かないと、芹沢さん門限あるのかとか知らないし」
「そ、そう、ですわね」
セリーヌは頷くと、俺の後ろをついてきた。
◇ ◇ ◇
公園のベンチで並んで、しばらく話をした。
セリーヌは頭が良いようで、俺の説明を驚くほどすいすいと理解してくれた。
最後にはスマホの使い方もマスターしていたので、今後は「スマホで調べる」という選択も取れる。何とかなるだろう。
「ああ、疲れた」
「何から何まで、ありがとうございます」
「まぁ、うん。乗りかかった船だし」
ふわりと甘い香りがした気がして、周囲を見回す。
公園の広場に、クレープのキッチンカーが見えた。
うわ、この時間帯のこれはヤバいって。完全にクレープの口になってしまった。
「ちょっと待ってて」
「え?」
「甘いの好き?」
「え、ええ」
キッチンカーに向かって、クレープを注文する。チョコバナナとイチゴカスタード。どっちも鉄板だし、どっちかは刺さるだろ。
セリーヌのところへ戻って、クレープを差し出した。
「どっちがいい? チョコバナナとイチゴカスタード」
「ええと、ば、ばなな?」
「あ、バナナない世界線なんだ」
じゃあ知っているものの方が良いだろうと、イチゴカスタードの方をセリーヌに渡す。
もう待てない、俺はチョコバナナの方にかぶり付いた。
くぅ、沁みる。うまい。3倍くらいデカくして売ってほしい。
俺が食べるのを、セリーヌは目をまん丸くして見ていた。
彼女の手のクレープが、早く食べないとクリームが溶けますよと訴えている。
「クリーム垂れるよ」
「え、ですが、そんな食べ方」
「大丈夫、誰もたいして見てない」
きっぱり言い切った。実際俺も自分のクレープに一生懸命でそれどころではない。
セリーヌはごくりと息を呑んでから、決意をしたようにクレープを口にする。
瞬間、彼女の目がきらりと輝いた。
「お、おいしいですわ……!」
「だろ」
くしゃりと包み紙を丸める。ああ、もうなくなってしまった。儚い。
口元のチョコを拭いながら、セリーヌを見る。
小鳥か? くらいの小さい一口でちょこちょことクレープを食べ進めている姿は、何となく小動物っぽかった。
夢中になって食べている様子だったが、やがてその動きが、ぴたりと止まる。
何かと思っていると、彼女が小さな声で、呟いた。
「家でも、こうでしたの。わたくしが落ち込んでいると、料理長が、甘いものを、」
ぽたり、と、雫がスカートに垂れた。
溶けたクリームではなく……涙、だった。
ぎょっとして、硬直する。
「う、うぅ……うぇええええ」
「ちょ、え、」
セリーヌは声を上げて泣き出した。
ぼたぼたと頬を大粒の涙が伝う。
握りしめたクレープが可哀想なことになるのも構わず、彼女は拳を握って、わんわん泣く。
いや、分かるよ、不安だよね、急にこんなの。
でもちょっとこのタイミングはやめてもらえないでしょうか!?
俺が泣かしたと思われるから!
こんな時どういう顔をすればいいのか分からない俺は、周囲を窺っておろおろするばかりだ。
違う、違うんです。皆さん、俺は何もしてません。俺は悪くありません。しいて言うなら時代が悪いだけです。この大悪役令嬢時代が。
ハンカチとか持っていないし、タオルは体育のあと使ったからさすがにアレだし、ええ、何かあったかな。おろおろごそごそやった後、辛うじて持っていたポケットティッシュをセリーヌに差し出した。
彼女は涙をぬぐって、それからクリームでべとべとになってしまった自分の手を拭った。
クレープからこぼれたもので服が汚れるようなことがなかったのは不幸中の幸いだ。
可哀想な見た目になってしまったクレープの残骸は俺が引き取った。
せめて残りは俺の血肉となれ。南無三。
「……みっともないところをお見せしましたわ」
泣き止んだセリーヌは、そう言って微笑んだ。
誰が見ても分かるくらい、痛々しい強がりが透けて見える笑顔だ。
「俺は、別にいいけど」
「いえ。人前で涙を見せるなど、アークヤーク家の名折れ」
「えーと。じゃあ、俺は何も見なかったってことで」
立ち上がって、クレープのゴミをキッチンカーの傍のゴミ箱に捨てる。
そしてセリーヌを振り返った。
彼女が俺を見上げていた。目元は擦ったせいか赤くなってしまっている。
「とりあえず、俺もフォローできるときは頑張るから。ま、お互い頑張ろ」
異世界転生しちゃった人に掛ける言葉も、泣いている女の子に掛ける言葉も思い浮かばない俺は、そんな感じで適当に励ました。
◇ ◇ ◇
翌日以降、セリーヌはとてもよく頑張っていた。
お嬢様言葉はもう芹沢さんに今そういう「キャラ」のブームが来ているらしいというので皆が受け入れていたし――どんなだったんだよ、中学時代の芹沢さん――、俺が教えたことや自分で調べたことを駆使して、だんだんとクラスに溶け込み始めていた。
友達とも仲良くやれている。むしろ以前よりも、人に囲まれているところを見るようになったくらいだ。
先日帰る途中、遠くに見えるラブなホテルを見て「あれは領主様のお屋敷かしら? ご挨拶に行かなくては」とか言い出すみたいなお約束をやらかしたけれども、それ以外は順調だっただろう。
「これならもう、俺いなくても平気じゃね?」
だから、俺はもうセリーヌも慣れたんだと思って、そう言ってしまった。
だってさすがに周囲の目が痛かったし。毎日一緒に登下校して、付き合ってんの? とか聞かれたりして。
まったくもってそういうのではないんだと説明するのにも疲れていた。
そもそも最初もちょっとだけ、ほんのちょっとだけ世界観を説明する、くらいのつもりだったのに、気づいたらどっぷり関わってしまっていたのが誤算だった。
「……ら?」
「ん?」
隣を歩いていたセリーヌが、立ち止まる。
「わ、わたくしが、『セリザワサン』じゃないから?」
セリーヌの声が震えていて、切羽詰まっていて。
思わず俺は彼女の顔を凝視してしまう。
何、芹沢さん? 芹沢さんが、何て?
俺が頭の上に疑問符を浮かべているのを見て、セリーヌがはっと息を呑んだ。
そしてぱっと俺から目を逸らすと、一人でずんずんと歩き出した。
追いかけようとするが、彼女はこちらを振り向きもせず、ぴしゃりと言う。
「一人で平気、ですわ」
そう言われてしまうと、追いかけられない。
もう一人で平気だろう、と思ったのは、俺の方なのに。
去っていく彼女の背中が俺が思っていたよりずっと小さくて、何となく。
公園で泣いていたセリーヌのことを、思い出した。
いや、いやいや。
いやいやいや。
平気じゃなくね?
平気なわけ、なくね?
そうじゃん。不安に決まってるじゃん。
だって一人なんだよ、一人でこの世界に放り出されたんだよ。
作法も違う、知り合いも一人もいない世界に、自分じゃない体で。
それでもあんだけ頑張ってたのにさ。
俺が見捨てるようなこと言うのは、違うだろ。
自分の失言に気づいた俺は、慌ててセリーヌを追いかける。
ゲーセンの前で、他校の男子に声を掛けられているセリーヌを発見した。
「何、お嬢様?」
「あー、あれじゃん? Youtubeの、『百万円ですわ~』みたいな」
「わ、わたくしは、」
「芹沢さん!」
駆け寄って、男とセリーヌの間に割って入る。
そしてセリーヌの手を掴んだ。
「ほら、塾だから、塾!」
「え? え??」
「何お前、別に俺たちは」
「失礼しまーす!!」
男たちの間を縫って、さっさと逃走を図った。
何故か手刀でこう間を割られると道を譲りたくなっちゃうのって、あれは日本人特有の感覚なんだろうか。
◇ ◇ ◇
「は、離してください!」
走って、ゲーセンからいくらか離れたところで、セリーヌは俺の手を振り払った。
「もう、わたくしには構わないでください。貴方には、これ以上頼らないと決めたんです!」
「え、何で」
「だって、」
俺が「一人でも平気じゃね?」的なこと、言ったからか?
そう思ったものの、セリーヌの答えは予想とは違っていた。
「だって、気になるんでしょう、『セリザワサン』のこと
「芹沢さん?」
「前にそうおっしゃっていましたもの」
言ったっけ?
……言ったかも。
覚えてないけど、セリーヌがそう思っても無理がないくらい、芹沢さん(本体)の厨二具合が気になっていたのは確かだ。
クラスの皆から漏れ聞こえてくる情報がいちいちインパクトが強すぎるせいである。
何だよ、修学旅行で大仏型のマグカップを買ってクラス総出で「木刀じゃないのかよ!」って突っ込まれたってエピソード。
仲良いなお前ら。
「貴女がわたくしを気にかけてくださるのも、わたくしの見た目がその『セリザワサン』だから、なのでしょう? だから、わたくしは」
「いや全然……」
「え??」
セリーヌの言葉を、手刀にした右手を横に振って否定する。
気になるとか興味があるとか、それは否定しないけど。
それとセリーヌのことは全く別の問題だ。
セリーヌはぱちぱちと目を瞬いて、困惑した様子で言う。
「で、ではどうして、わたくしを助けてくださるのですか?」
「え、だって困ってたし」
「……そ、それだけ?」
それだけ、と聞かれて首を捻る。
最初は本当に、見ていられなくなって手を貸しただけだった。
でも、途中からは――そうだな。
「あとは、セリーヌが頑張ってたから」
「!!」
「いきなり異世界来てさ。それでも一生懸命やってるの見たら、何か放っておけなくなっちゃったんだよなぁ」
言いながら、自分の言葉にうんうんと頷く。
言語化してみたらすっきりした。
そう。頑張ってて、見てたら何か応援したくなった。そういうことだ。
「わ、わたくしは、ええと、そのぅ……」
何故かセリーヌがもじもじしている。
そして、俺の方を見て、意を決したように言う。
「こ、これからも! わたくしの傍に仕えてくださいますこと!?」
「え。一緒にいるのは全然いいけど。仕える、ってなんか違くない?」
「で、では、……その、」
セリーヌはしばらく言いにくそうに口ごもってから、俺に向かって人差し指を突きつけた。
何だか悪役令嬢っぽいポーズだな、と思った。
「こ、ッ……ごほんごほん! お、お友達として! 傍にいてくださいまし!!」
「うん、よろしく」
その悪役令嬢っぽいポーズで、まったく悪役っぽくないことを言うから、ギャップで笑ってしまった。
セリーヌと2人並んで、帰り道を歩く。
「そういやさっき、ゲーセンで何してたの」
「こ、この前のウサギと、色が違うものがあって」
「へー。欲しかったの?」
「い、いえ、その。貴方に、と」
セリーヌの言葉に、首を捻る。
俺、ウサギ好きとか言ったっけ?
「え。何で俺?」
「……貴方、鈍いって言われませんこと?」
「言われたことない」
「…………」
俺の返事に、セリーヌはじとりと疑い深げな眼差しを向けてきた。
何でだよ。自己申告だぞ、信じろよ。
セリーヌはふぅと小さく息をつくと、仕方ないなと言わんばかりに胸を張る。
「明日、一緒に行ってくださいまし!」
「いいけど」
「それで、やり方を教えてくださいますか?」
セリーヌはえへんと、何だか誇らしげに俺を見上げた。
「わたくしから貴方に、プレゼントいたしますわ!」
なるほど、お礼のつもり、なのか。
そう思うと、うん。ちょっと嬉しいかな。
「楽しみにしてる」
俺の答えに、セリーヌは嬉しそうに笑った。
なお、翌日小遣いを全部溶かした挙句「あとちょっと! あとちょっとですのに!!」と筐体にしがみつくセリーヌを必死で引き剥がす羽目になったので、俺は今この言葉を猛烈に後悔している。