狐つまみ
家で勉強をしている私の膝に冷たいような感触が体を走った。膝の方を見ると家で飼っている猫の金太郎が私の膝に頭を擦り付けていた。
「金ちゃん。びっくりしたやないか」
私の声に金太郎は目を丸くして私をじっと見つめた。
そして金太郎はゆっくりと私の膝に乗って体を預けた。私が体を撫でてやると気持ち良さそうに目を瞑った。そのあとに金太郎は机に移動してノートの上で横になった。
「もう、勉強ができひんやないか」
金太郎はその場所で眠ったようだった。私はそのまま横になり、勉強をやめて休憩をした。すると廊下から早歩きする足音が私の部屋まで近づいてきて扉から二つ音がした。
「今、大丈夫か」
「大丈夫や」
私がそう言うと扉が開けられた。そこには東京から帰ってきた弟がいた。
「お昼はお母さんが出前でうどんでも頼もかって言うてるけど。ええ?」
「うちはおうどんでもええよ。おあげさんが乗ってるうどんがええな。お母さんに伝えといて」
「わかった」
弟はそう言って扉を閉めた。そしてまた早足で母の所まで行くのがわかった。
弟は昨日の早朝に帰ってきた。その理由は母が再婚を考えているということだった。
父が亡くなってもう十年以上になる。今は父の印税で暮らしているけれど、それがいつまで続くかわからない。私は大学に通っているし、弟も高校を出たら働きに行くとは限らない。大学に行くとなればまた学費も必要になる。
母は知り合いの男性と再婚を考えているようだった。その男性も母と同じように相手を亡くしており、母とは同じ境遇であり、お互いにそれが惹かれ合うものだったのかなと思う。
母からその事を聞かされた時、私は案外楽観的で再婚には反対はなかった。その男性は母と年も高く、私も一度会ったことがある方だったからだ。私はもう子供ではなく、母が何をしようが影響はあまりしない。ここまで育ててもらったのだから母の自由にしてやりたいと思う。
弟も私と同じ意見だが、どこか母に対して失望に似たものを持ったように思えた。
やはり父がいて私達は家族だったのだからそこに違う男性が父となって入るのは違和感があるのだろう。弟はまだ高校生なのでその気持ちの変化に対応できていないと思われた。
だが、母に反対をすると母を悲しませるのはわかっているので弟は何も言わずにいた。私はそれがいかにも弟らしく彼の優しさであると思った。
昨日の夜は再婚する父となる人と食事をした。父となる人は優しく、君たちには本当のお父さんがいる訳だから自分を父と無理に思わなくても良いと言っていた。それが私と弟には救われたように思えた。
母の再婚はまだ先の話だが、再婚した場合、この家はどうなるのかはまだわからない。母が出ていくのか、それとも新しい父がこの家に来るのか。仮に母が出ていくなら私はこの家で一人暮らしでもして行きたいと思った。
母にはまだその旨を明かしていないが、それを明かすのは遠い時ではないだろう。
私が部屋を出ようとすると金太郎もすかさず私の後を追った。
台所では母が電話をしていた。母の電話が終わるまで私は母の佇まいを見ていた。
母は電話を終えると
「今、うどん屋さんに出前する電話しといたさかいね」
「へえ、おおきに」
「詩乃ちゃんの好きなおあげのうどんも頼んださかいね」
私は母に笑顔を見せた。母の姿は父が亡くなった直後は子供の時の私でもわかるほど弱々しくなっていたが、今はその弱々しさは残るものの芯の強さで立っているように見えた。母としての強さは全ての母親が持てるものなのか。
「お茶を入れるさかい。茶の間に行っといて」
「へえ、わかりやした」
茶の間に行き、私は弟の隣に腰を下ろした。
「なあ、姉さんはお母さんの新しい人どう思う?」と弟は急に言った。
「良い人や思ったけど」
「それは俺も思たけど」
弟は言いにくそうにしていた。
「あんたのことや。お父さんと認められないんやろ。言うとったやないか。父と思わんでもええって」
「そうやけど、でもやっぱりお父さんになる人やないか。姉さんは気にしないんか?」
「私は気にせえへんよ。大学生やし、親のことは。もう子供やないから」
私の言葉に弟は幾分か気になったようだった。
「せやったら俺は子供かいな」
「高校生はまだ子供やで」
十五などまだ大人にもならない年だろう。弟はこれから価値観が大きく変わっていくかもしれない。
この話は母が茶の間に来たことで打ち切られた。
「お茶を入れたで」
母はお盆にお茶を入れて茶の間に入った。母は私と弟の前にお茶を置いた。私はそのお茶を飲むと
「宇治の茶やな」と言った。
「よおわかるやん。友達がこの前買うて来たんや」
「横浜の人?」
「へえ」
母は柔らかい声で優しく言った。
「京都の人に宇治の茶を上げるなんてなかなか面白いな」
弟の言葉には幾分か冷たいものがあるように思えた。
「せやけど、普通に生活してたら宇治の茶なんてなかなか味わへんやろ?観光で来てくれる人が買うて来てくれるから特別なもんが感じられるさかい。清水や金閣やってたまに行ってみると感動するんやない?それと同じや」
弟の皮肉に母は憂いもなく答えた。確かに日常的に私達は宇治のお茶などは味わおうと思えばいつでも味わうことができるせいか、決まっていつも宇治のお茶を飲むわけではない。その魅力を感じ取れるのは京の人ではない人達なのである。その場所の魅力はその場所の人たちには日常であり、魅力でもなんでもなくその場所に普段はいない人たちが魅力を感じるのである。私達はその人達のおかげで改めてその魅力を知ることができる。つまり京の人達は京の魅力を肌で完全に感じている人はほとんどいない。私達は魅力の中で生活をしており、私達は魅力の住人であり魅力そのものなのだ。普段の生活はかけがいのない美しいものだったのだと私はその時に思い出すように知ることができる。
「金、入っといで」
私は扉の向こうにいる金太郎に声を掛けた。金太郎は私の声に顔を上げたが、茶の間へは行かず、その場で横になった。
母は昔、茶を学んだことがあると言っていた。そのせいか、どこか、私と母とでは茶の飲み方で品の違いが表れているようだった。言葉では説明できぬ雰囲気とその場の空気が一気に母の持つものへと変わっていくように思えた。
ただ、私は不思議とそれが居心地が悪く思えず、寧ろ居心地は良かったのだ。決して威圧的にならないこの雰囲気は母の持つ優しさがそうさせるのだ。
しばらくすると出前がやってきて、母は玄関へと歩いた。私はその母の背中を眺めながら横に座っている弟を見た。弟は顔を下に向けながら考え事をしているようだった。
弟は母に似ていた。私は弟から母のような安らぎを感じる時がある。その時に悔しくもこの子は母の子なのだと噛み締めるように思うのだ。私自身は母や親戚からは父に似ていると言われている。だが、父は随分前に亡くなり、私が父の人柄を思い出せない為、本当に私は父に似ているのかと思う。父の本を読んでも私のようなものは感じられない。
母がうどんを持ってくるのがわかると私はすぐに立ち上がり、母からおぼんに乗っている二つのうどんを受け取った。弟はもう一つのうどんを手に取り、早足で茶の間へと引き返した。母の顔は見なかったが、母は私達を優しい目で見ている。私達は母を苦労させたく無いがために二人で協力をして小さな事でもこのように助け合っている。
こうした行動から私は口数の少ない弟から垣間見れる母への愛を見た。
正午になると新太郎が夕方から祇園祭に行かないかと私に電話を掛けてきた。
そういえば今日は祇園祭の宵山の前祭の日である。私はすぐに行きたいと返事をして、新太郎の祇園祭に心を躍らせた。
母に夕方出掛ける事を伝えると
「そう、夕飯は?」
「家に帰ってから食べるわ」
「気ぃつけてな」
「へえ」
私は金太郎を抱えて、部屋に行こうとした。金太郎は私に対抗して私の腕から逃げ出した。
金太郎が逃げる際、抵抗の跡が私の左手の薬指できた。かすかな痛みを感じながら、金太郎の逃げる背中を見た。
金太郎はその内に廊下の床でごろんと横になった。
私の部屋の前には弟の部屋がある。私は部屋にいるであろう弟の部屋の扉を叩いた。
「進、おる?」
「ああ」
「入ってええ?」
「ええよ」
私が部屋に入ると横になって昼寝をしていた弟は起き上がり、私を見た。
「進。私は夜に祇園祭に行くさかい。夕飯はお母さんと二人で食べて」
「ああ、わかった」
弟は眠そうにしており、私はこのまま部屋を後にしようとした。
「そういえば祇園祭の宵山やったな今日から」
弟の言葉に私は足を止めた。
「進は行かへんの?」
「友達誘って行ってもええけど急やし、お母さんが一人で夕飯食べるのはなんか悲しいから家におるわ。宵山やって今日だけやないし。お母さんと一緒に行くんもええかな」
弟の言葉には母への愛があった。普段はぶっきらぼうな子だがやはり優しいのだ。
「おおきに。私ばっか我儘言うてごめんな」
「ええんやない。貧しい生活してるわけやあらへんし、俺は久し振りに家に帰ったからここにいたいだけや」
弟はホームシックになっていたのかもしれない。家族の良さを一人で過ごすことによって知ることができたのだろう。わたしは家に帰ったら弟と話をしたいと思った。子供のように仲良く話でもしたら彼の寂しさも無くすことができるのかもしれない。
私は部屋に戻るとお母さんのお下がりの着物をお母さんに手伝ってもらいながら着替えていた。
「なかなか美人さんやない」
「そないなことあらへん」
「ほんまやで。詩乃ちゃんは昔からかわいらしい子やったから」
「かんにんえ」
例えお世辞でも母からの褒め言葉はやはり嬉しいものだった。私が着物を着るのは新太郎に見せたいということや私自身が着たいというのもあるが、母に見せて、健康に育った事を真っ直ぐに見せつけるような小さな親孝行をしたかったからである。
夕方頃になって新太郎がうちにやってきた。私が玄関へ出ると新太郎は
「詩乃さん。えらい綺麗やな」と言い、私は照れ臭くなった。
「おばさんに挨拶させとおくれやす」と新太郎は私の後ろに目を向けた。
私は母を呼び、玄関で立っている新太郎は私と目を合わせた。
「どないしたん?」
「それはおばさんのお下がりか何か?」
「へえ、そうどす。お母さんが若い頃に着ていた着物どす」
「そうなんや。美しい綴織やね」
新太郎は私の着物をまじまじと見ていた。私はなんだか裸を見られているようで恥ずかしくなった。
「西陣織ってお母さんが言うてましたわ。せやからとても高級な着物やと思うわ」
私はここでお金の美しさを話に持ち出したことにしまったと思った。お母さんはその時に玄関へと来た。
「おばさん。こんにちは」
「新太郎君、大きなったな」
新太郎と母は懐かし話に花を咲かせた。その話声が奥まで聞こえたのか、弟が玄関まで来て、私と顔を合わせた。
「新太郎君?」
「進君やないか」
弟は新太郎を見ると、土足で玄関に立ち、新太郎の元まで行った。
「進君、随分大きなったやん」
新太郎はそう言い、今度は弟と話し始めた。
新太郎が私の家族と話をしているのをしっかりと見るのは初めてかもしれなかった。少しの会話くらいならあるのかもしれないが、私を仲介せずに話しているのはなんだか紐が絡まったような心持ちがし、複雑であった。
三人の話は尽きないようだが、私はむず痒い思いをしながら、三人の話が終わらないものかと今か今かと待っていた。
それに気づいたのか新太郎は話を切り上げて、私を外へ連れ出すことにしてくれた。
「ごめんなさい。私が退屈しとったの気づいとったんやんな?」
「ううん、それもあるけど、そろそろ行かへんと見たいもの見れんくなるから。詩乃さん置いてけぼりはかわいそうやしね」
新太郎の言葉には素直を隠した照れがあった。
私の家から四条通までは1時間くらいは歩いて行かなければならない。だが、バスやタクシーは混雑しているので、歩く方が返って時間が掛からないのだ。
七月とはいえ夏の暑い季節で天気も晴れているので、夏の始まりは私達をかすかに照らしていた。
「もう夏やな」と新太郎は言った。
「もう七月の半ばやさかい。暑なるんは当然やろ」
「そらそうか」
近くには東寺があり、新太郎は私に東寺に行ってみるか聞いた。
「この前行ったばっかりやん。祇園祭の方に行きたいわ」
「人もそないに多ないんやけどな。まあ詩乃さんの言う通りやな。祇園祭行こか」
私は五重の塔の尻目に歩いた。東寺の影が私達に当たるとそこから歩く気力が抜けていくような気がした。
「そういや詩乃さん。その手の怪我はどないしたん?」
「左手のこと?」
「へえ、ひっかき傷?」
「昼間うちで飼ってる猫に触ろうとしたら引っ掻かれてもうた」
私がそう言うと、新太郎は私の左手に触れ、その傷をまじまじと眺めた。
「血、出たんやな。えらい痛そうに見えるわ」
「実際痛かったで」
「そうか、今はもう痛ないの?」
「へえ、触れなければ痛みもあらへん。ほっとけばそのうち傷跡も目立たへんくなるやろ」
私の傷跡は今は痛々しく見えるけど、そのうちに消えるようになるのはわかっていた。
「そうやといいけどなあ」
「新太郎さんは私を大事に思いすぎや。私は子供やおへんで」
私はそう言って小さく笑った。新太郎はそれからその事には触れなかったが、どうも真面目に考えすぎているような気がした。
西本願寺を通り過ぎる頃から私は足の痛みを少しずつだが引きずっていた。だが、新太郎には気づかれまいと視線を下に向けず、なんとか歩幅を新太郎に合わせた。まだ無理はできた。新太郎は察しが良い所があるので気づかれないかと不安に思いながらも足のことに気づかれないよう関係のない話をし出した。
「新太郎さんは、春にお花見でもしたん?」
「お花見はしてへんなあどこも人多おして混雑してるさかい家で大人しゅうしとったで」
「平安神宮も仁和寺も観光客ばっかやしな。そやけど、私、高校の時の先輩からええこと聞いたんや」
「どないな?」
「先輩はさっき言うた二つの場所は人がぎょうさんいはって敵わんってなったらしいけど、植物園は人も少のうてよかったらしいで」
「植物園って今年再会したところやんな?」
「へえ、再会してすぐ行って、外人さんが多いんかいなって思たら思いの外、静かでこれもある意味お花見や先輩は言うてました」
「なかなか、面白いこと言う人やね」
「普段はそないなこと言わへん優しい人やから誰かの受け売りなんとちがうかいな?恐らく」
話をしていると痛みも忘れてくるようだった。新太郎の歩く速度にもついてこれていた。
祇園祭に着いた頃には夕日が欠けるように輝き、東から夜が少しずつ歩いてきていた。
「人が多いさかい。はぐれへんように」
新太郎はそう言って私の手を握った。私は無言で握られた新太郎の手の暖かさを大事に思った。
新太郎は人の流れに流されないよう、端に寄り、山鉾を眺めていた。
「綺麗やな....」
私の独り言は私にだけしか聞こえなかったようだ。祭りの喧騒にかき消された私この声は風のようにどこかへ行ってしまった。
この人波に流されでもしたらわたしはどこか知らない場所へ行ってしまうのではないか。そうしたら私は子供のように泣きじゃくり新太郎を探すのだろう。
つい、昔、祇園祭で迷子になった記憶が蘇ってしまった。祇園祭の人波を見て、忘れていた私の記憶は鮮明になっていった。
少しばかりの不安を持ちながら私は人の中に入らないよう歩く人々から避け、新太郎の手を無意識に強く握ってしまった。
新太郎は私に強く握られ、私の顔を見たが、何も言わずそのままにいた。新太郎の手から感じる優しさは私の体全体を包み込み、暗くなりつつあるはずの夜は祭りのせいでそれを感じさせなかった。
人波の速さよりもゆっくりと歩きながら、私は山鉾と同じように歩いている事に気づき、一人気づかれずに微笑んだ。だが、足の痛みは少しずつだが、増していき、私はついに新太郎に弱音を吐いてしまった。
「どっか、休む場所探そう?」
「そうやな。この近くに僕の家と仲のええ同業者の店があるんやけど、上がらしてもらおか?」
「悪いて、遠慮させてもらいます」
「大丈夫や。僕が小さい頃から行ってる所やから。親戚みたいなもんや」
その場所は今ある所から十五分程歩いた場所にあった。新太郎が顔を見せると中にいた五十代くらいの男性が驚いた様子で新太郎を見た。
「新ちゃんやないか。どないしたんや?」
「へえ、祇園祭に来たんやけど、少し休みとうなって、長うはいいひんさかい休ましてくれしまへんか?」
私は新太郎の背に隠れ、肩の方から顔を小さく出した。
「後ろにおるんは彼女さんかい?」と男性がからかうように言うと
「いやいや、ただの幼馴染の友人や」と新太郎は笑いながら言った。
「えらいかいらしい子やな。休むのんは構わへんで。好きなだけいな」
「おおきに。おっちゃん」
新太郎はそう言いながら中へと入っていった。
「詩乃さん。おいで」
「へえ。わかりやした。」
私はそう言って、新太郎の後に続いた。
「ゆっくりしていってな」
「へえ、おおきにどす」
外では祇園祭の喧騒が掠れながら聞こえるが、私は静寂の中に身を投じていた。
店の中は他所の匂いというか、私はあまり知らない匂いだった。その匂いが緊張をより増させた。
店の主人はお茶を持ってきた。
「おおきにどす」と私は言って、茶を口にした。
宇治やと心の中で呟いた。
それは今日の昼前に飲んだ茶と同じ味をしていた。この人も知り合いからもらったのか、それとも客人のもてなし用に常に持っているのか。
「おいしいどす」
「宇治の茶や。お客さん用やな」
「そんな、私はお客さんちゃいます」
「いやいや、新ちゃんやって今はお客さんなんやからお嬢さんなんか上等のお客様や」
主人のガラガラとした笑い声の大きさに私は驚きつつもこの人に人の良さを感じた。
辺りが夜になった頃、私達はその場を後にした。足の痛みも先程よりは痛く無くなっていた。
人は先程よりも多くなり、一瞬でも新太郎から目を離せばそこに新太郎がいなくなるのではないかと思うほどだった。
手を繋いでいても人の流れにどちらかが流されれば強制的に離されそうになる。私はその時には腕に掴まりでもして離れないようにしようと思った。
人々の声は火の粉のように空へとこだまし、私達は自分の声もよく聞こえなくなっていた。そのせいで会話は特に無く、お互いに顔を見て笑い合ったりしながら祭りを楽しんでいた。
そしてあれは十九時を過ぎた頃だった。私達は四条大橋を目の前にしていた。私はそこで私が新太郎と先程話した花見の話に出た先輩の姿を見つけた。男性と何か話している先輩はどこかいつもと違うような雰囲気があり、他人の空似かと思った。だが、顔自体はその人なので祇園祭にも足を運んでいたのだと思った。着ている服がいつものような地味な着物ではないので、一瞬だけ他人だと悟ったのだろう。
祇園祭ではあまりの人の多さに知り合いに会うことはほぼないのだが、こうして遠くからでも知っている人を見るとあくまで似ている人なのだと勝手に思ってしまう。
そして男性はどこかへ行き、戻ってくる様子が無かった。立ち止まっていた先輩は人の流れに入ろうとしたのだろうか。静かに歩き出した。
「新太郎さん。知り合いがあそこにおるんやけど、挨拶に行ってもええ?」
「ええよ。僕はここで待ってるさかい」
「おおきに」
私は先輩の背中を追った。私に声を掛けられた先輩は私をまじまじと見つめた。
「こんばんは、祇園祭、来られたんですね」
「へえ、風物詩やから」と静かな口調で話した。
「誰かお探しどすか?」
「いや、ちゃいます。誰も探しておりまへん」
先輩の言葉からはなんとなく孤独というものが浮かび上がってきた。
「先輩、街が綺麗ですね。一人一人が生き生きとしていて」
「へえ」
先輩の目には不安な色が見えた。目には涙が浮かんでくるように見えた。
私がその場を離れないことを先輩は気にしたのだろう。
「貴方は、誰かと来てるん?」
「へえ、幼馴染と」
「そう」と言い少しの間黙った。
「ずっとそばにおりたい人?」
「へえ、そうどす」先輩が何を思っているのかはわからず、私は新太郎に聞こえないよう小さい声で答えた。
「先輩はずっとそばにおりたい人はおるんですか?」
私は失礼なことを聞いてしまったと思った。だが、先輩は気にする様子も無く
「いますえ。さっき、その人に会いました。ずっと会いたいって小さい頃から願うとった人でして、やっと神様に願いが通じたのかもしれへんどす」
私は先程の一緒にいた男性かと思った。小さい頃に離れ離れにでもなったのだろうか。
「よかったどすね」
「へえ、本当に。やはり会うてみてわかるもんもあるさかい。涙が出てきそうやわ」
涙は実際にはなかったが、そこには涙の幻覚が見えそうだった。
「おおきに。お話しをしてくれて」
先輩はそう言って人波に身を投じて消えていった。
私は先輩がその日限りに違う人格があったように思えてならなかった。狐でも化けているのかもと思ったが、嫌な気分は全くといってなかった。
「お待たせ。新太郎さん」と私は新太郎の元へ帰った。
「お帰り。詩乃さん」
家族のようやと私は思った。だが、私はそれに違和感を感じなかった。
大橋を渡り、鉾はないせいか人もほんの少しまばらになったように思えた。寂しさに無縁と思えていたが、このまま行くとついには二人だけになるのではないかと想像した。
「さっきの人な。なんだかいつもと様子が違くて、まるで狐化けてるんかと思た」
私は寂しさの淵に立たされ、新太郎に先程の話をした。
「詩乃さんにしては面白いこと言うんやな」
「ちゃうわ。ほんまにそう思ったんや。まるで別人みたいやった」
私はいつに無く真剣な口調で言ってしまった。新太郎からも笑いが無くなっていた。
「ほんまかいな。まあでも祭りやからそんなこともあるんかもしれへんな。そうやなきゃ他人の空似やけど、気づかれない程のことはそうそうないやろうし。その人は双子とか?」
「いや、聞いたことあらへん」
「そう、不思議な夜やな」
新太郎の言葉に私は深く頷いた。
その後、新太郎は私を夕飯に誘ったが、私は家に帰ってから食べると母に言っていたので、断った。
祇園祭から離れていくにつれ、辺りは先程と世界が変わったように喧騒は静寂にかき消されていた。
私達の歩く足音さえ響き、私が先程想像した通りの寂しさがあった。このままどこか永遠に二人っきりになってしまうのではないかと思った。
私の足の痛みはかなり痛くなっていたが、新太郎は早足になることは無く祭りの時と変わらずゆっくりと歩いていた。
家に着いた時には二十一時を過ぎていた。新太郎とはそこで別れ、家に入ると母の部屋は暗くなっており既に眠っていた。金太郎は茶の間で横になっており、私の顔を一目見るとまた眠り出した。弟の部屋からは電気がついており、まだ起きているようだった。
「おかえり」と扉越しに小さい声で言うと、「ただいま」と弟は返していた。
そういえば私は今日は弟の優しさに何度も触れていた。先程の言葉を借りるなら狐に化かされているようだった。だが、これは元々彼の心の中にあったもので化けている訳ではない。家族の愛も確かにあり、人が変わっているのではないのだ。
弟の愛に触れているうちに私は夕食を召し上がり、風呂に入った。裸になると空気の寒さが体を打ち、湯の暖かさに触れた。そこに私は外の世界と家族の愛を思った。
風呂から出ると母の部屋の扉を音を立てずに少しだけ開けて、母の寝顔を覗き見た。私達を産んだ母は私達に愛を与えていた。
そして自分の部屋に行き、早いうちに布団に入った。
横になりながら二人の愛を思い、私は夜を後にした。