夕立明け
宇治駅から京都駅に戻った私達はそこから嵐電嵐山駅を目指した。
嵐山駅は他にも同じ名前の嵐山駅があり、嵐電嵐山駅は他の嵐山駅と区別できるよう嵐電嵐山駅と呼ばれる。
私達が着いた頃には雨は更に強くなり、新太郎が近くの店で傘を買ってきていた。
「詩乃さん、傘買うて来たで」
「へえ、おおきに」
新太郎が買ってきた傘は大きめの傘で二人は入れる物であった。
私は新太郎の隣に行き、傘の中に頭を隠した。
「雨宿りでもしていきやすか?」
「いや、渡月橋なんて今行ったら人が少ないんと違う?」
「そうおすな。行ってみまひょ」
新太郎は雨音を聴かせながら歩き始めた。まだ出来立ての水溜りはまだこれからも広がるようで私と新太郎はそれをうまく避けながら歩いて行った。
嵐山の方からは蝉の声が地響きのように聞こえ、蝉の声は聞くだけで暑い気がするものだが、涼しい雨のおかげかそれほど暑いと感じることはなかった。それでもひぐらしなどの蝉の声は夏を感じさせるのには充分であった。
渡月橋はやはりと言うべきか人はまばらであった。通り過ぎる人とも目が合い、自然と頭をお互いに下げ合うほどだった。
川の水量は雨のせいか少しだけ増えており、奥に見える嵐山は雨に打ち付けられる音が聞こえてくるようだった。
渡月橋で佇んでいるのは私達だけで他の人は歩いており、それが京都の生活であると思った。
私達だけが観光客のように見えるのだろうか。
「新太郎さん。ここにずっといると他の人から観光客って思うわれるんやない?」
「へえ、そうかもしれへんね」
新太郎は私と違い焦っている様子が見られなかった。
「詩乃さんはなんで周りをちらちらしてんの?」
「なんか観光客って思われたないやん。うちらも立派な京の人間やさかい、なんだか歩いてる人の目が冷たい気がして」
私は自分をどれだけ高貴な人であるのだと勘違いをしたことをその瞬間に卑下した。私は新太郎に自分の醜い部分を見せてしまったのだ。そして見下しに似たような行為をしたことで私はこのまま川へ飛び込んでしまいたいと思った。
「まあ僕らは九条通の人間やし、観光客でも変やないよ」
新太郎はとても美しい心を持っていた。私は新太郎の横に立つのが申し訳ないと感じた。自然に自分でも無意識に傘からはみ出てしまいそうになる。私は自分が情けない。新太郎のような広い心を持って見たいものだ。
傘から聞こえる雨音は私だけを打っている。どうか新太郎には雨を打たないでほしい。冷たい雨は私。新太郎は晴れた太陽なのである。
「新太郎さんは素敵やね」
「そんなんあらへん。詩乃さんのように優秀やあらへんし」
「いや、優秀やなくて私よりも純粋や」
「詩乃さん、純粋って意味わかってる?」
私は一度その言葉を思い出して見た。川の音と一緒に絡む純粋と言う言葉はどうもやはり新太郎そのものであった。
「綺麗な人のことや」
「詩乃さんのことやで」
「かんにんえ」
私は新太郎の言葉を本気にしてしまいそうになる。顔は明後日の方を向き、新太郎の顔は見えないも、どんな表情をしているかはわかる。
私は一旦落ち着くと新太郎を見た。彼の表情はやはり、純粋そのものであった。
「新太郎さんやな。何度見ても」
「そら、そうや」
新太郎は純粋な意味をよく理解していない所、そして自分をよくわかっていない所に私は彼の純粋な部分を感じる事ができた。
もし、新太郎が純粋という意味を自分の中から知ってしまった場合、それはもうそれに触れた瞬間に純粋を失ってしまうものなのだ。私は彼のそんな所が好きである。そしてそれを失って欲しくない。十八歳の男子がこんなにも子供のように瑞々しく美しいのは新太郎の心のせいなのか。それとも彼の環境が全くそうさせるのか。
しばらく私達は黙りこくったまま、嵐山とその下を流れる桂川を眺めていた。雨は弱くなったような気がしたが、新太郎は寧ろ強くなったと言っていた。
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長辻通はやはり人はまばらであった。普段は人で賑わう場所も平日の午後の雨ということもあれば人もあまり見受けられなかった。
「こないに静かな長辻通も珍しいなあ」
「へえ、いつもやったら人がごった返しでおるのに。人もぽつりぽつりと....小雨のようやわ」
私のその比喩に新太郎は私に目を見合わせた。
「どないしたん?新太郎さん」
「いや、詩乃さんの例えがな。えらい上手や思て。さすがお父さんの血を引いているだけあるわ」
「そないなことあらしまへん。新太郎さんはいつもそう言うて私を褒め続けるさかい。困りますわ」
私のこの言葉は父が昔に書いた言葉を覚え続けてただ使っているだけであった。物書きの父は大して、生前は評価もされず、戦争でこの世を去った。私は父の小説から幼い頃の父の幻影と共に父の像を描き出し、時々、言葉に出してみる。そうする事で私の父を現世に蘇るような心持ちになるのだ。父の小説は父が亡くなった後に、父と仲の良かった文学者達が父の小説を取り上げ、父はそれなりに死後になって名が売れた。私達家族はそのお金で生活しており、それは私が大学まで行けるほどのものであった。
「僕はいつやって嘘は詩乃さんにはつかへん。僕が言った事は本当や」
新太郎の言葉はどうもそんな気がさせられる。私はその言葉を嘘と思いたかったが、気持ちの昂りはそれを許してくれなかった。
「雨宿りしまひょか」と新太郎は言った。
「へえ、そうしやす」
歩きながらでもわかるがやはり人が少なく店がどこも閑古鳥が鳴っていたり、店を閉めているところもあった。
そんな中にあるうどん屋に私達は入って、少しの間だけ雨宿りをすることにした。
一時間もしないうちに空の表情は柔らかくなり、美しい夕空が姿を見せた。雨は止み、道端の水溜まりは夕空とそれが微かに彩られた雲を写していた。
うどんを食べながら新太郎は
「晴れた。綺麗な空やなあ。物音が無くなって静かになったようや」
うどん屋の二階の窓際にいた私達はその空模様をしっかりと見られることができた。
「随分と長い夕立やったなあ」
新太郎の言葉をしとしとと聞いていた私は夕立が去った後の澄み切った情景を見てそんな言葉が心の中からやんわりと浮かんできた。
うどん屋の階段を降りお会計をしてる際、窓から差し込む陽の光に誘われた。会計を終え、そのまま外を出た時に幻とも言える世界が目の前にあった。
「これは凄い」
後から来た新太郎も私の肩越しにそう言っていた。
夕陽に照らされた長辻通は建物や緑の影になりながらもその所々は光輝き、建物も山の影に当たらずに淡い色を夕陽から映し描いていた。そして何より上を向くと空には一本の虹が私達を包み込むように広がっていた。
私は自然と一粒の涙が私自身気づかぬうちに涙袋に溜まり、音もなく流れ出て鼻筋を通った後に、唇の横から顎にかけて流れ落ちた。
「やわいもんやな。お天道様はすこぶる気分がええのやろうな。夜の前、少しの間の安らぎの時。まだ祇園さんやて始まったばっかや」
私と新太郎はどこかへ行くことも忘れ、しばらくそこに佇んでいた。