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血染めの銀狼中編 2-2話

カシルの過去を聞いてしまって、何故か泣いてしまったシャルス。

その件をキッカケに彼女を意識するようになってしまうが、そんな彼らの元にラドスが突然

転がり込んで来てしまい。同じ部屋で寝泊りするようになってしまう。

食事を取り終えた後、二人は一旦別行動をとった。

 シャルスの方は、武闘会の会場前の、大時計のある広場に来ていた。

 彼女は準備をしてくるといって、武器屋や洋服店のある通りに向かって行った。

 この町は水が豊かなのだろう。大貴族か王城以外で噴水という贅沢なものが設置されているのをシャルスは初めて見た。

 水が作り出すアートを眺められる芝生にドカッと座り込んだ。

 しっかり手入れされているのか、鮮やかな若芽色の芝生が規則正しく植えられていた。

 そうして一時間弱、シャルスはここで待ちぼうけを喰らっていた。

その間、時間が勿体ないので久しぶりに本を読んでいた。

 今日は暑かったが、噴水が清涼感を醸し出しているせいか、そんなに気分的には暑くは感じない。そんな苦もなく、本を読み進めていく。

 この本はシャルスが持っている唯一の本である。すでに何度も読み返して手垢でボロボロになった紙の写本だ。

 この本には初級の魔法の解説と理論、呪文などが載っている。

これ一冊なら持ち歩いても苦にならないから、彼はいつもこれを肌身離さず持っていた。

「あら、その本をちょっと見せてくれる?」

 本に影が差し込む。

 顔を見上げると、長身のなかなかの美女が目の前に立っていた。恐らく魔法使いか魔術師辺りだろうか。

 セミロングで波打つ黒髪に暗緑色の眼、鮮やかな紅を引かれた、肉感的な唇が印象的だった。

 顔立ちは落ち着いた雰囲気を醸し出していたが、大きな瞳がクリクリ動くと、子供のようなあどけない表情になる。頬に黄色い星があるのも、また魅力的だ。

 長方形の帽子を飾り、フリルのついた襟の中心には黄色い大きな星型のブローチ。上半身は道化師のような赤い光沢ある服で、下は股から膝の辺りまでフワッと膨らみ、そこからピタッと細くなる造りをした白いズボンを履いていた。

 そして耳や首元、腕や足元には恐らく魔法の道具らしき装飾品と、シンボルともいえる赤い宝石のついた杖を腰にさしていた。

相手が写本を狙っている盗人らしくは見えなかったので、シャルスは素直に見せた。

「ありがとう。拝見させてもらうわね……ふーん」

 女はパラパラとページをめくった。いくつかの古代語。魔法文字。魔法陣の図解。そして講釈の内容。

 写本としてはかなりハイレベルな方だろう。

 魔法の事が記されている本は、専門的な知識がなければまったく意味がないが、この本の前半部は子供や初心者にも分かりやすいように書かれている。

 だが、その内容は彼女にとっては興味を引かれない低レベルなものに過ぎなかった。

「もう大丈夫よ、いい本ね」

 女はその形の良い唇にニッコリと笑みを浮かべながら、当たり障りのない事を言ってその本を返した。

「どうも」

「あなたも、あの大会に出場するの?」

「いえ、連れが」

「ふーん」

 内心、ホッと安心した。この子供には、どうやら何者かの守護が強く感じられた。

正直彼女は本に興味があるのではなく、この子供の方が気になったから声を掛けたのだ。

(何となく、誰かに似ているような気がする……。以前に何処かで会った事、あったのかしら……)

何となく遠い記憶に、似たような面差しの人物を見た事あるような気がした。ただシャルスはその人物よりも『幼い風貌』だったからこそ、はっきりと思い出せなかったようだ。

 負ける気こそしなかったが、もし戦うとしたらかなり手こずりそうな予感がする。

 彼女も、魔術師としては高レベルだったからこそ、それに気づいたのである。

「私もあそこに出るの。私はリアン=イフォード。良かったら応援してね」

「あ、はい」

 そう言ってリアンは好感度が高い笑顔を見せ、握手を求めた。

 その時、彼の首元にある、黄色い石に気づく。これは……。

 驚きで目を見開かせてしまったが、すぐに気のせいだと思い直す。目的の物にしては伝わる波動が弱すぎる。

 彼女のその一瞬の動揺をシャルスにそれを気づかれることはなかった。

「それじゃあね」

 内心で、この少年と出会った事にリアンは感謝していた。

 これで……彼を呼び出す名目が立つ。

 リアンが立ち去り、姿が見えなくなると同時に背後からカシルの声が聞こえた。ただ、いつもより一段階トーンが低かった。

「シャル」

「カシル?」

 振り向くとそこには、漆黒の服に身を包んだカシルの姿がそこにあった。普段の青い貫頭衣を脱ぎ、胸元と肩の部分だけのプレートメイルを身に纏い、腰には薄い透き通った布を巻いている。

 気のせいだろうか。いつもより、顔立ちが凛々しいような気がする。の、わりには化粧をしているような気配はない。

 これは、まるで……。

 辺りを見回すと、幾人かがヒソヒソと様子を伺っている。無理もない。そこには人の口に上る、『血染めのドヴィン』の格好、そのものであったから。

 今はバンダナを外し、目元が隠れている。顔を見えにくくする為だろう。戦いには不向きなスタイルこの上ない。だがしかし、多分彼女ならこれを苦にしない。

 カシルはシャルスの耳元で囁いた。

「これからは人前でカシルと呼ぶな」

「な、なら。何て……」

 答えはすでに出ている。この格好の時、なんと彼女を呼べばいいのかも……。

「ドヴィンだ。そう呼べ」

 それは彼女の姓であり、伝説の傭兵の名前でもあった。シャルスは小さく頷いた。

「それじゃ、登録に行こう」

 無言のまま、彼はカシルの後についていった。

 会場に入ると、その場は騒然となった。

 無理もなかろう。噂に名高く、それでいて三年前に姿を消した、すでに伝説に近い剣士が自分たちの目の前にいるのだから。

『噂よりも、背とかはデカくないな』

『もっとゴツイかと思った』

『すっごくキレイな人ね、ステキ』

『偽者じゃねえのか。そうゆう輩いっぱいいるっていうし』

『だが、あの銀髪を見ろよ。あれは、染めている感じじゃねぇぞ』

『んじゃ、本物か!』

 多くの人間のざわめきが耳に入ってくる。

 総大理石造りという、贅沢極まりない会場は、いまただ一人の人間の出現によってどよめきを露にしていた。

 唯一無比の強さ。神に与えられた、完成された美貌。

 キリッと背筋を伸ばして歩くだけで、いくらでも話題になるだけの要素を、彼女は持っていた。

 人の波が裂けていく。まるで彼女に道を作るかのように。

 その波には畏怖、憧憬、異端、羨望、疑惑。

 そこには様々な感情が渦巻いている。

「……」

 今、カシルがひどく遠く感じる。

 一カ月旅をしていた、カシルという人間は彼女の演技ではないのかと。

 ドヴィンの方が、彼女の本質ではないのかと。そんな想いに駆られる。

 前を進むカシルの姿に、誰も女らしさなど感じていない。そこにあるのは、威厳。

 カリスマともいうのだろうか。近寄りがたい空気を見に纏っていた。そのせいかカシルの傍らにいる。すでに馴染んだ筈の事なのに、今はひどく苦痛に感じた。

 カシルが出場の登録をしている間、痛いほどの多くの視線が二人に注がれていた。



 その予選の日の戦いでカシルは圧勝した。

 噂に違わぬ強さでありながら、見せる事を意識した彼女の戦いは会場にいた観客の全てを熱狂させた。

 石造りのコロッセウムの中に降り注ぐ黄金の雨。

 観客たちからの歓声の渦。

 その中に立ち尽くす、返り血に染まったカシル。

 後の試合が全て霞んで見えるほど、その戦いは見事であった。

 その晩、二人は広場に近い宿に寝床を替えた。

 すでに日が暮れて一時間。盛況している時間帯を少し越えたくらいだ。この店内にベロベロになるまで飲むようなむさい男たちはまだいない。代わりに今日は大勢の若い娘たちがシャルスたちのテーブルを囲むように座っていた。

「……」

 食事をしているだけでも、娘たちの視線が突き刺さってくる。

カシルは食後にエールを一杯飲んでいる。それがひどく様になるから、余計に気分がモヤモヤしてきる。

 今までは男たちの視線がうざかったが、今は女の視線が痛い。彼女たちは明らかにシャルスに嫉妬していた。

 彼女たちの目的はカシルだった。噂どおりの美形である事に加えて、あの圧倒的な強さである。まさか女とは微塵も考えてない彼女らにとって、お近づきになるのには、側にいる愛らしい少女シャルスはうっとおしい存在でしかなかった。

『何よ、あの娘』

『ずっとドヴィン様の側に張り付いてさ』

『何様のつもりよ』

 しかもシャルスが比の打ち所のない、認めざるを得ないを美少女(笑うしかない誤解だが)である為、さらにやっかみは高まる。

「……」

 エールを飲み終え、カシルは女たちがこっちを見ているのに気づくと、突然シャルスの腕を掴んで引き寄せた。

「!」

 急に、カシルはシャルスの頬にキスした。殺意にも似た気配が辺りに立ち込める。

 そう、角度によってそれは、唇にしているように見えるのである。さらに、シャルスの顔が真っ赤になった事も、彼女たちの逆鱗に触れた。

「戻るぞ、シャル」

 ただカシル一人だけが平然としていた。経験上、こうゆう事をすれば女たちが引く事を知っていただけで、それ以上の他意はなかった。

 ようするに彼女らの誤解を利用しただけの事である。

「あ、うん」

 触れられた頬が焼けるように熱い。手を繋がれて何か男女の立場が逆のような状況だなとは思ったが、好意を抱いている人間からの接触なら、こうされれば嬉しくない筈はない。

 見た目は男でも、繋がれた手の柔らかさはいつもの彼女のものだった。

 それだけで、ひどくシャルスは安心できた。

 二人とも用事の全てを終わらせてから、厳重に部屋に鍵を掛けた。

 今二人がいる部屋は、昨日まで宿泊していた場所とは別の所で、武闘会が開かれている広場にかなり近い。

 外装はレンガ造りの重厚な雰囲気で、内装は落ち着いていて、余分な物もあまりおいてなく機能的で趣味も悪くない。この時期は場所柄、ここはかなり人気が高く込み合っていたが、今日のカシルの活躍を見ていた店の主人は厚意で安い金額で、広くて良い部屋を二人に用意してくれた。

 部屋の内装は昨日まで使っていた宿より明るい。

ここではロウソクではなく、壁の四隅にランプが吊るされている。油も良質なものを使用しているのか、嫌な臭いも少なく、それでいてロウソクより遥かに明るい。

 三つ用意されているベッドの、扉から手前の方に腰を掛けると、シャルスは目の前に立つ彼女を見上げた。

「カシル、あのさ」

「何だ」

「その格好、失敗じゃないの?」

 女たちからの黄色い声はうるさいわ、男たちからは余計に敵視されるわ、あまりロクな事がない。

「別にそうは感じないが……。それに、女の私を目立たせたくなかったからな」

「? どういう事」

「……どっちにしても私はこの容貌だ。それに私はお前の知っての通り、一切魔法を受け付けない体質だ。この髪はカツラでも被せればいいが、瞳の色はどうやっても変える事など出来ん。ま、方法はない訳ではないが、ここでは無理だ。それ以外に出来る事は、服装で見た目の性別を変える事くらいだろ?」

「それじゃ、カツラを被れば……」

「カツラを被ったままで戦えるか?」

 無理だ。シャルスは首を振る。

 ダンスパーティとか、そういう催しに出るならともかく、激しく動く場所では途中で外れてしまう。外さないように戦うとすれば、かなり動作やスピードが制限されるだろう。

 理屈じゃ判っているが、それでも男の格好になって、自分よりずっと格好が良くなり女にモテまくるカシルを見ていると何か悲しい。

「けど、カシルが女である事を知っている人は、何人かはいるんじゃないか?」

 バイトをしている時、確かにあの時は男性と誤解されていたから、仕事中に接したお客とかは大丈夫かも知れない。ただ帰り道などで普段のカシルの格好を見て、顔を覚えている人間は何人かいた筈だ。

 これだけの美貌の存在は簡単には忘れられない。

「ならシャル。今の私と酒場で働いていた時の私が同一人物にみえるか」

 少し考えてから、シャルスはブンブンと大きく首を横に振る。

 ようやく、カシルの言いたい事を理解した。

 人の記憶力はそんな鮮明なものではない。月日が経てば経つほど、大概はイメージでしか覚えてないものだ。

 シャルスみたいに両方のカシルを常に間近で見ているような人間ならともかく、殆どの人は恐らく、顔立ちが少し似ていても、酒場で働く人当たりの良い青年と、鬼神のごとき強さの美貌の男剣士を同一人物とは考えないだろう。

 いくつかの類似点もまったくの無関係とはとられないだろうが、せいぜい親戚か兄妹などに見られるのが関の山だ。

「女の格好のままでも、銀色の髪で滅法に強い。その符号で私と『血染めのドヴィン』を繋げるラドスみたいな奴は出るかも知れない。しかし、『血染めのドヴィン』として戦えば、少なくともいつもの私は目立たなくて済む」

「けど、その間に捕まったりしたら……お尋ね者なんだろう?」

「シャル、それは心配ない。少なくとも武闘会で負けるか、期間が終わるまでは私の無事は保証されている」

「何で?」

「祭りというのはそういうものなんだ」

「?」

「例え犯罪者でも、ああいった催しでは観客を喜ばせればいいのさ。私をその最中に無理に捕まえて、出場出来なくなったら、恐らく文句がくるだろうからな。

 確証があるなら別だが、ただ他人の空似というのでは自衛団方も手が出せない。

 それにこの町の武闘会はこの近隣の国では住民や貴族の最大の娯楽だ。それに口を出す事はたとえ聖王族でも出来ないからな」

「へえ」

 カシルは、これだけの事を考えてドヴィンの格好をしたのだろうか。

「それにな、向こうさんには私が本物のドヴィンかどうか確証を掴む術がないという現状もあるしな」

「確かに」

「何せ有名だからな。それを語った偽物だという可能性もある。……私も、ドヴィンだとお前に嘘を言っているだけかも知れんぞ」

 そういって目を細めて笑う。

 彼女のこの言葉は、半分真実であり……実はある秘密を滲ませた言葉であった。

 そう、今の彼女と……血染めのドヴィンと呼ばれていた頃とは、一つだけその差異に、大きな秘密が隠されていた。

 シャルスは知らない。最強の傭兵と言われた、血染めのドヴィンは『二人』いた事を。

『違う。カシルは、嘘は言ってない』

 そう伝えるようにシャルスは眼で訴える。

 そんな彼をカシルは真摯に見つめ返す。

 ランプの明かりがシャルスの肌に陰影を作り、その白さを際立たせる。その美しさにカシルは息を呑んだ。

 彼の方にはカシルの象牙色の肌が、煌めいて見えた。

 お互い時間が凍るような錯覚に陥った。

 少し近づき、互いに瞳を覗き込む。頬が触れあえるくらいの距離だ。

 カシルは、シャルスの肩に手を伸ばし、そっと……。

『コンコン』

 軽くドアをノックする音がした。

 二人は呪縛から解放され、同時に視線を逸らす。

 シャルスは気恥ずかしさから逃れる為にベッドから立ち、カシルの脇を擦り抜ける。

「いるかい、お二人さん」

 その声は、どうやら男のようだ。聞き覚えがある響き。

「もしかして、ラドス……?」

 というか、それしか考えられない。この町には、殆ど知り合いなどいないからだ。

「ご名答。良かったら、ここ、開けてもらえないかい?」

 どうしたら良いのか判断に困って、無意識の内にカシルの方に向き直っていた。

「あの……どうする?」

「一体誰何だ?」

「ラドスだよ。ほら、昨夜の……」

「……忘れるもんか。原因作った張本人……アイツなのか」

「そう、みたい」

「帰ってもらえ」

 そっけない口調には、気のせいかも知れないが、昨夜のラドスの態度以外の憤りが含まれているような気がするのは、こっちの自意識が過剰だからだろうか。

「帰って欲しいって、ドヴィンはそう言っている」

「おいおい、そりゃないだろ。せっかく苦労して見つけたのに」

 カシルは今度は扉越しでもはっきり聞こえる音量で言った。


「帰れ」


 怒鳴っている訳ではないのに、いつもの抑揚のない声が普段の何倍もの音量でその薄い唇から紡がれた。

 扉越しのラドスだけでなく、シャルスも思わず絶句をしてしまった。

「分かったよ、いいトコロ、悪かったね」

「!」

 実際に的外れではなかったので、その挑発に乗ってシャルスはドアのロックを外す。

「何がいいトコロだ。オレとカシルはそんなんじゃ……」

 バンッと音を立てながら扉が開く。すかさず戸口に足を置き、閉められないようにする。

「……顔、真っ赤だぜ」

「うるさい……」

 どうも、彼女を侮辱する言葉に過敏に反応してしまう。それは、彼の中ではカシルは女性として意識している対象であると同時に、目指すべき目標であり尊敬すべき存在でもあるからだ。

 だからそんな彼女を辱める言葉は、潔癖な彼には許せなかった。

「あっ、首筋にキスマーク」

「へ?」

 テンで反応のないのに、少し落胆しながら。

「……どーやら、ホントにお前ら何でもないんな」

「それで何が判るんだよ。どーゆー意味だよ」

「言ったまんまだよ」

 若い男女が一緒に部屋まで取っていて、何にもない方が不思議なのだ。それとそれくらいの言葉の意味も判らないお子様なのか、こいつは。

(お前らが抱き合うような関係なら、キスマークぐらいはつけあってもおかしくないだろうに……。その意味すら判ってないって事は、こいつらは清い関係なんだろうな)

そういう感情をありありとにじませながら、問答無用で突っ掛かるシャルスを押しのけ、入室してくる。

「よ、お今晩は。ご機嫌いかがかな?」

「最悪だ。お前が来たからな」

「そんなに怒ると、ハンサムが台なしだぜ」

「……」

 青筋を浮かべながら、カシルが睨んでくる。傍から見ているシャルスには随分心臓に悪い光景極まりない。

 カシルから見れば、ラドスという男はいちいち彼女の神経に障ることをワザワザ選んで発言しているようにしか見えない。

 何という命知らずだろう。

 普段何が起こっても冷静な筈の、彼女のペースが乱されっぱなしだ。

「今日一日だけで町中の女の子が騒いでるぜ。『ドヴィン様』って」

「余計なお世話だ」

「それに……どうやってこの部屋に居るって知ったんだ。宿の主人には言わぬようによく言い含めてあった筈だが」

「いや、お前らが宿を移動しているところをたまたま見かけたのと、主人には俺は知り合いだから教えてくれって頼んだんだ」

「どうやって」

「そっちの坊やのフルネームを答えたら、教えてくれたよ」

 皆、ドヴィンの事は知っていても、側にいるシャルスの姓までは知らないだろう。

 確かにそれを言えるのならば、この男を宿の主人が知り合いと認識しても仕方がない。

 シャルスは思わず、昨日この男に名前を教えた事を激しく後悔した。

「それで、なんのようだ」

「いや、今晩ここに泊めてくんないかな~……なんて」

 カシルの顔に、血管が浮かんだ。


「……帰れ、貴様」


「……カシル、理由くらいは聞いても……」

 シャルスが諫めると、少し険を柔らげてラドスに向き直る。

「理由くらいは聞いてやる」

「お前、すっげー偉そうだな……」

「貴様に言われる言われはない、早く話せ」

「いやさ、昨日の奴らが人員増やして、予選から帰ってきたら待ち構えていてね。俺が泊まっていた宿に襲撃掛けて来てさ、そこ半壊にされちゃって追い出されたんだ。いや、きっちり全員ボコボコにしたけどね」

 実にあっさりと、過激な内容をラドスは口にした。

『……』

 それが理由では、断るに断れない。昨日この男が自分たちを助けたせいで、そうなってしまったのならば。

「んで、この時期じゃ夜に新たな宿なんか見つかりっこないから、今晩だけでいいから泊めてくれ。代金くらいは払うから」

「まあ、奥のベッドが一つ空いてるし……」

「私たちに全く関係がない訳ではないしな」

 二人は仕方なく荷物置き場にしていた奥のベッドの一つを、彼に明け渡した。

「ありがたい、恩にきる」

「まあ、いくら暖かくても明日も戦いが控えている身に野宿は辛いからな。私たちもそこまで鬼じゃないさ」

「あ、それじゃこれ」

 そう言って金貨一枚をシャルスに投げ渡す。ここの一晩の宿代の何倍もの金額だ。

「お、おい。こんな大金」

「いいよ。迷惑料だ。受け取れ。宿代も別に払わせてもらう」

 そういってラドスはザックをベッドの脇に置くと、返答を待たずにすぐ横になった。

 成程、良い宿だ。

 シーツの手触りが全然違う。動物性のロウソクが燃える、あの独特な嫌な臭いもない。何の油を燃やしているか判らないが、微かな匂いもロウソクの臭みに比べればないも同然な程度でしかない。

「そんじゃ俺は寝させてもらう、おやすみ」

 間もなく、ラドスは寝入った。

 シャルスが呆れる。

「……寝てるよ、この人」

「警戒心のカケラもないな。ホントに傭兵やっていたのか、コイツ」

 彼は以前、剣士をやっていると言っていた。それならば、傭兵業の一つや二つは必ずやっている筈である。それが、身入りもいいし、特性を生かした仕事の一つであるからだ。

 以前に傭兵をやっていたカシルにとってはラドスの態度が信じられない。傭兵なんて職業を何度かやっていたら、例え見知った者同士でも簡単に寝顔を見せないものだ。

 まあ、いつまでも寝付いてくれなくて、こっちが寝ている最中にゴソゴソやられるよりかは、はるかにマシだ。

 まあ自分たちがこれ以上起きていて、穏やかに寝ている彼を起こすのも悪い気がしたので、カシルは提案した。

「シャル、私たちもそろそろ寝よう……」

「うん、そうだね……」

 その表情がひどく愛おしく感じる。

 さっきの続きと言わんばかりに、カシルは彼の頬に手を当てる。

 そして一瞬だけ、シャルスの頬にキスをした。

「!」

 触れるか触れないかギリギリの感覚。

 暫く何が起こったか判らぬまま、目を見開かせて立ち尽くす。

「な、何すんだよ」

 舌が縺れて、うまく頭と口が回らない。しかしカシルの方は平然としていた。

「別に……」

 そう言って意地悪げに口元に笑みを浮かべる。

 ほんとにこれでは、シャルスの男として立場がまったくない。

 その後すぐ、カシルはあっさり言い放つ。

「もう寝よう」

「……」

 何かこの姿になってから、やたらとカシルに弄ばれてる気分に陥る。

 情けなく泣きそうな気持ちだったが、それでもどこかでキスされた事を喜んでいる自分もいる。

 カシルは手早く四隅のランプを消すと、素早くベッドに入ってしまった。

 アッと言う間に部屋は闇に包まれ、言葉を返せぬままシャルスもベットに横たわる。

 布団に入ってから、彼は先程の感覚を反芻した。

 明らかに先程のは、食事時のうるさい女を追っ払う為のキスとは違っている

 現実に起こった事とは信じられず、思わず自分の指を頬に当てる。

 それよりも柔らかな感触がさっき瞬きする程の時間だけ、触れた。

 同時に、紛れもなく己がカシルの事を好きだという事も自分の中で確信する。

(カシルはどんなつもりで……)

 彼女の心が、判らない。

 手を伸ばせば触れられる位置に、今彼女はいる。

 思わず胸元のペンダントの石を握り締める。この光石がなければ、仲間がザウル帝国兵の襲撃に会わなければ、彼女と例え出会っていても、共に旅する事は決してなかった。

「サリック、グッチ……親方」

 失った仲間を悼む気持ちは、今も強くある。けれど同時にこの人の傍らにいれる事に喜びも感じていた。

「不謹慎だな、オレ……」

 死を目の当たりにした三人の仲間。生死不明なのはサリックとグッチと親方。もし、生きているとしたら一体彼らはどうしているのだろう。

 けれどまず、ラーンに向かわなければ。だが、どうせ当分ここで足止めを食らうのだから、その間に武闘会に参加するのも悪くはない。それでも気持ちは逸る。

 幾つかの思いが交錯し、落ち着きなく乱れる自身の鼓動を感じながら、シャルスは必死に闇の中で眠りにつこうとしていた。

 そして、夜は更けていった……。


                     *


 翌朝、一番最初に目を覚ましたのはラドスだった。

 淡い陽光が窓から差し込み白いシーツの上に反射して、彼の瞳に飛び込んでくる。

ベッドが窓際にあるのが災いしたらしい。目の奥がチカチカとして、次第に意識がはっきりしてきた。

 体を乗り出し外に顔を出すと、頬をなぜる潮風が心地よい。夏の陽気にしては清々しく優しい空気だ。

 他の二人は傍らで実に心地よさそうに寝ていた。どうやら光が直接当たるのは自分のベッドだけのようだ。

 どうりで二人がここで寝ていなかった訳である。突然転がり込んできて、カシルに床で寝ろと言われなかっただけマシではあるが。

まだ朝早いというのに、すでに太陽は熱を帯び始めている。後数十分もすれば肌を焼くようになるだろう。

 耳に、風の音と共に二人の規則正しい寝息が入る。

 こっちは不本意ながら光に起こされたというのに、向こうは実に気持ちよさそうにクークーと寝ている。

これくらい予想してカーテンを閉めなかったこちらにも多少の非はあると思うが・・・。

 それが何か腹立たしくて、ついシャルスの頬をうにーと伸ばしてイタズラしてみたが、反応がないので空しくなって止めた。

 カシルにも何かイタズラしようと思ったが、報復が怖いので寸前で思い止まる。

 結局、カーテンを閉めてもう一回寝直した。再び起きた時もまたもやラドスが一番乗りだった。

「……なんか、もう良いって気になるな……」

 そろそろ時間なので、いたずら心を押さえ、二人とも普通に『起きろ』と言いながら体を揺さぶって起こすと、すぐに二人は目を覚ました。気持ち良いくらいに彼らの目覚めが良かった。

 宿の一階部の食堂で三人で軽く食事を取り終えるとすぐに宿を出た。

 まだ朝早いというのに、すでに広場は多くの人でにぎわっている。

 三人が赴くと、辺りの空気がざわめき始める。昨日の反応と同じだ。

 カシル程ではないが、実はラドスもかなり昨日の戦いでは奮闘し、その男前とあいまって人気を集めている闘士だった。

 そんな彼と、伝説の剣士ドヴィンが一緒になればいやでも人目を引く。

 しかしカシルは彼らを軽く一瞥すると、興味無さそうに前へ進む。その肝っ玉のデカさにラドスは呆れる。これだけ悪意や嫉妬に晒されながら平然としている事自体がすでにただ者ではない。それとも、ただ単に鈍いだけなのだろうか……。

 側にいる自分たちの方がそれこそどうかなってしまいそうなくらいだ。シャルスも昨日に引き続き、どこか苦しそうな表情になっている。

 それだけカシルを敵視する人間は大勢いた。

 会場の入り口は、流石に潤っているだけあってかなり豪華な造りをしていた。

 流麗なデザインのシャンデリアは何よりもその事実を象徴していた。

 ホールいっぱいが大理石で作られていた。乳白色の床や柱は華美でありながらも、決して嫌味な雰囲気はない。掃除や管理が行き届いていて、はっきりいって優美と称されるに値するものであった。

 まだ、戦いが始まるには少し時間があった。

 ラドスとカシルは控室に入ると己の使用する武器を入念に手入れを始め、シャルスは邪魔をしないように外の広場でまた本を読んでいた。

 この本は、昨日出会った魔術師の女性に、カシルの試合の観戦中に人づてに渡された物だった。

 かなり高度な四代元素の理論。それに属する風乙女、炎龍、水竜、土小人の存在の魔法学的な裏付けと用いられる魔術。それらの使役の方法と心得。

 それと四代元素を統べる賢者の石といわれる物質の製造法。

 最後の製造法だけは、未だに机上の空論でしかない事柄でしかなく意味がなかったが、それ以外の事は非常に彼にとって興味深い内容だった。

 食い入るようにその本を読み進める。時間が驚くほどの速度で進む。

 それの前半部分ぐらいを読み終える頃には、すでに開催時間に差し迫っていた。

「こんにちは」

 聞き覚えのあるソプラノの声が耳を突く。

「あ、リアンさん。こんにちは、いい天気ですね」

「そうね。ふふ……どう、その本。良かった?」

「えぇ、大変興味深く拝見させていただきました」

「貴方さえ良かったら、ソレ、あげるけど、どう?」

「ホントですかっ」

 シャルスの顔がパッと輝いた。まだ印刷技術が殆どないこの世界では、本というのは非常に高価な代物である。一枚一枚手書きで綴られているものが殆どで、稀に版画で量産されている本もあるが、そんなのは数種類あるかないかである。

 しかし、頭の中で亡き親分の顔と言葉が浮かんだ。

『うまい話には気をつけろ。必ず裏がある』

 ……そう思うと、何かリアンの態度が怪しく映る。初対面に近い人間に高価な本をあっさり渡すなんて……。

 盗賊としての勘が警鐘を鳴らす。シャルスは毅然と答えた。

「いや、いいです。コレ」

「何で? この本気に入らない」

「いえ、そういう訳じゃ……」

 実際、本はとても欲しかったが、何か裏があるのではないかという気持ちが拭いきれない。

 リアンはどこか媚びたような表情になる。

「ならあげるわ。その本、貴方くらいの時に写本してあるから困らないし、魔法を使える人に読んで欲しいから」

「けど……」

「だって貴方の本と違ってそれ、魔法知らない人にはまったく意味判らない代物なんですもの。それに何冊も写してあるから、貰ってくれた方が助かるの」

 そういってシャルスの胸元にグイグイと押し付けてくる。

「まあ、それなら……」

 オズオズと手を伸ばし、本を受け取る。

 美人にこうされるなら、悪い気分ではない。

「貴方の連れと当たった時は仕方ないけど、それ以外の時は私も応援してね」

 リアンの好感度抜群の笑みを見て、思わずうん、と答えた。

 彼女はふと、シャルスの胸元の黄色い石に一瞬だけ目を移す。

 しかしすぐに彼の顔を見つめた。そして、リアンの唇がフッと頬に触れる。

「!」

 鮮やかなキスマークが頬に付着する。シャルスは突然の事に動揺を隠せない。

「それじゃね」

 リアンはそんな彼に笑みを浮かべて立ち去った。

 もしこの時、彼がリアンの表情を見ていたら、恐らく彼女に対するイメージは一変していただろう。

 背を向けた彼女は、まるで獲物を前にした肉食獣のように、実にしたたかで残忍な顔をしていた。

 暫し呆然となっているシャルスに、カシルは声を掛ける。

「シャル。そろそろ私たちは行くが。どうした、その顔は……」

 カシルは明らかに、赤い印を目撃して不快になっていた。

「へえ、意外にやるね。シャルス」

「えっ」

 すぐさま、リアンの鮮やかな唇が連想される。大急ぎで手の甲で拭うと、ベッタリと紅がついていた。

「ほら、全部取れてないぜ」

 ラドスは腰のポシェットから白い布を一枚取り出すと、それでシャルスの顔を拭った。

 耳元で、ラドスがボソッと呟く。

「意外だな。こーんな風に頬にキスしてくるような女がお前さんにいるなんてさ」

「違うよ。リアンさんとはそんなんじゃ……昨日会ったばかりの人だし。からかわれただけだよ!」

「またまた~」

 ラドスはそうやって彼を小突いたが、殺気ある視線に気づき、恐る恐るそちらの方に向き直る。

 予想通り、それはカシルだった。

 炎が宿っているかのごとく、激しく吊り上がった目でシャルスを睨んでいるが、その視線にまだ彼は気づいていない。

(ありゃ~。凄く嫉妬してるよ、コイツ)

 今のカシルの感情を表記すると……。

 正確に書くのはとてつもなく怖くなるのでやめておく。ただ、誤解のないよう一言いっておくが、カシルがシャルスに抱いているのは現時点ではまだ恋心ではない。

 まだ恋愛方面に関しては、本人がピンと来てないのである。

仲の良い友達や兄弟が自分の知らない所で、他の人間と仲良くするのが気に食わない。一言で言うならそんな心理である。

「私は先に行かせてもらう」

 そう言っていつも通りの無表情で、カシルは二人から離れて行った。

「ありゃ、お前さんに嫉妬してるな。良かったな、望みがない訳じゃないぞ」

「ちょっと待てよ。オレとカシルはそんなんじゃ……」

「昨日も聞いたぜ、その台詞。それにここじゃあいつはドヴィンだろ?」

 小声で忠告されて、ようやく気づく。

 どうやら習慣というのは簡単に抜けてくれないものらしい。気をつけないと、すぐに普段呼びなれている方の名を呼んでしまう。

「ごめん……」

「俺に謝られてもなぁ・・・まあ今度から気ぃつけりゃ良いんだ。そんじゃ、俺もそろそろいかないと……」

「うん、気をつけて」

「あぁ」

 子供にあやすように、シャルスの頭を軽くポンポン叩きながらラドスは雑踏の中に消えて行く。そうして彼はホールに一人、取り残された。

 変な感じだ。

 昨日の敵は、今日は友という言葉があったが、今の自分たちとラドスとの関係はまさにそれかも知れない。

最初はつかみ所のない得体の知れない男だったが、こうして話してみると表情が豊かで、性格も明るくどこか子供っぽい所もあり、そう悪い奴という感じはしない。

 しょっちゅうカシルにチョッカイ掛けて、彼女を怒らせる事を楽しんでいる節があるのは困ったものだが。ま、それには目を瞑ろう。

 そして開場の時間が訪れ、大勢の人間が来場する。

 シャルスは急いで右側の最前列に陣を取る。この位置は他の所より手摺りが低く、背の小さいシャルスでもはっきり試合を見渡せる場所だった。だた、少しバランスを崩そうものなら、そのまま真っ逆さまに落ちてしまいそうだ。

 小柄な彼でさえそうなるのだから、自然とここに人は集まらなくなる。この暑い陽気の中でゆったり見るには最高の位置だ。

 観客席は三メートルくらい高い位置から、石作りのリングを囲むようには設けられており、そこは一万人以上は収集できる広さはある。

 灼熱の太陽が降り注ぐ中、大勢の観客は戦いの行方を固唾を呑んで見送った。

 最初の戦いが終わり、大きなドラの音が鳴り響く。

 次の試合の始まりの合図だ。

 右側のゲートから、重々しい扉が徐々に開かれ、漆黒の美貌の剣士が現れる。観客席中から女たちからの黄色い声が上がった。

 カシル……いやドヴィンに間違いない。

 暑い太陽の矢が降り注ぐ中、黒い服に身を包んでいても、彼女の顔には一粒の汗すら浮かんでいない。

 それは絶対零度の氷像のようで、そんな印象を見る者全てに与えた。

 左側の入り口から入場してきた人間を見て、シャルスはアッと声を漏らす。

 見覚えある黒い波打つ長髪に、整った明るい容姿。赤を基調にした大胆な衣装。

 ホールにいた時の格好とは違い、顔以外の部分は薄いベールに包まれ、胴体部分は光沢ある布地で作られたレオタードを身につけている。ベール越しでも豊満な胸がくっきり見え、それが大勢の男たちの劣情を煽る。

 少しすると、大勢の男たちがリアンを応援し始めた。

 逆に女たちは、リアンにはっきりと難色を示す。

 会場の殆どが、男はリアンを支持し、女はカシルに声援を送っている。

 観客たちの事など視界に入っていないかのように、リアンはカシルだけをまっすぐ見つめている。

「ふふん、私リアン=イフォードっていうの。ハンサムさん、よろしくね」

「リアン?」

 その名前に聞き覚えがある。確か……。

『違う。リアンさんとは、そんなんじゃ…』

 ……そうだ。さっきシャルスの頬にキスマークがついていた時、ラドスにからかわれてそう発言していた。

 この女か。シャルスにキスした女は。

 リアンは敵意でも殺気でもない感情を、瞳から発せられて戸惑っている。

 その光は、紛れもない嫉妬。この美貌の剣士が何故、自分にこんな視線を送ってくるのかリアンにはまったく見当がつかない。

 カシルは不機嫌そうに髪を掻き上げる。

「もう試合を始めるが……良いか」

 審判の男が、二人に確認する。

「構いませんわ」

「構わん」

 審判役の男が右手を上げる。

一瞬、周囲の大きな歓声が止んだ。

 深い緊張に場内は包まれ、徐に腕は振り下ろされた。

「開始!」

 二人は間合いを取る。

 不思議な事に、この試合でカシルは最初に剣を抜かなかった。

 カシルが背後を取ろうとするが、すかさずリアンは閃光の呪文を使って目をくらます。

 瞬間、動きを奪われたカシルにリアンの蹴りが見舞われる。が、咄嗟に左腕に装備していた円形のターゲット・シールドでカシルはそれを阻んだ。

「やるわね」

「そちらこそ、な」

 魔法を使ってくるだろうな、という大方の予想を覆し、暫くリアンは肉弾戦を行う。

 カシルの懐に飛び込み、素早い動きで蹴りやパンチを繰り返すが、カシルはそれらすべてを小さな円形のシールドで受け止めるか、緩急の動きをくり返して流すかをしていた為、未だダメージはない。

 両者の激しい打ち合いは暫く続いた。

 その度に二人の身体は闘技場のリングの上で、激しく動き回り続けていた。

「魔術師にしちゃ、イイ線いってる動きでしょ、私」

「まあな」

「……ねえ、何故剣を抜かないの。こっちを馬鹿にしているのかしら・・・坊や」

 穏やかな微笑から、一変して険を含んだ肉食獣の顔付きになる。

「早く抜きなさい。私を剣を使わなくても勝てると思っているなら痛い目見るわよ」

 カシルは言葉通り、剣に手を掛けようとした……が結局抜かなかった。

「そう……。私をバカにしているのかしら?命が惜しくないのね……馬鹿な子」

 リアンが目を伏せる。

 その頃になってようやく、観客がカシルが剣を抜いていない事に違和感を覚え始める。

 流血を期待していた輩の中には、カシルを罵倒する者も現れ始める。

(どうしたんだよ……カシル)

 観戦しているシャルスも不安になった。

 何故彼女が剣を抜かないのか、理由が判らない。

 錯覚だろうか。ふと、カシルの手が僅かに震えているように感じた。

(カシル……?)

 彼女は剣を抜けなかった。いま剣を抜けばリアンを殺さないように加減が出来るかどうか自信が持てなかった。

 いくら、不可抗力の死が認められる場といっても、これだけ大勢の前で、特にシャルスの目の前で、カシルは出来れば人を殺したくなかった。

 特にシャルスと、面識がある人物であるなら尚更だった。

 いつからそう思うようになったのかは判らないが……実際シャルスと出会ってから彼女は人を一人も殺していなかった。

 無駄なトラブルを起こさないという意味でなく、それを彼に見られたくない。けれどこのまま剣を抜かないで勝てる程この女は弱くないだろう。

 その二つの想いがせめぎあって、深い影を落とす。

『何故抜かないんだ』

 突然、頭の中に声が響いてきた。

『その女は強い。殺す気で掛からなければやられる!』

 声が響いてきたと同時に、リアンは呪文を唱え、複雑な邪印を結ぶ。

―――闇の精霊よ……この者の魂を打ち砕い賜え

「これで、終わりよ」

 構えた両手の間から、漆黒のかたまりが時折揺らめきながら、次第にその闇色を深くしていった。そしてそれが完成すると、リアンは勝利を確信する笑みを浮かべた。

(貴方が悪いのよ。私に全力を出さないから……!)

 彼女は何より、男性に情けや手加減を掛けられる事を何より嫌う性質だった。

 普段はともかく、彼女を戦いにおいて女扱いことは、何よりもプライドを傷つける行為なのだ。

 まあこれを使えば存在ごと抹消されるだろう。そこそこ彼女好みの顔立ちをしているので、多少は惜しかったがこれが自分のプライドを傷つけた代償だ。

 手のひらから、黒い光球が放たれる。

 黒い霧が急速にカシルの身を包んだ。だが彼女は表情を変える事はなかった。

 強い魔力の波動を感じて、客席からシャルスは思わず耐えられなくなって叫んだ。

「カシルッ!」

 会場中から絶叫が迸る。闇がカシルを覆って、まるで飲み込むようにその姿が漆黒の闇に包まれて消えて行く。

 それから幾度か、黒い霧が時折白く鈍く発色した。

 皆、カシルの負けたのだと、勝敗は決まったと感じた。

 その気配を感じながら、冷静さを取り戻したシャルスただ一人を除いては。

「ふふ……」

 リアンはシニカルに笑った。残虐な顔だった。

 その瞬間、変化が起きた。

 漆黒の霧が、突然霧散した。

「何よっ!」

 その中心には、無傷のカシルが静かに佇んでいた。

 リアンは動揺した。観客席も騒然となる。

「う、嘘よ」

 カシルの紫の眼は、静かな戦意を讃えている。

 その輝きには、先程の迷いはカケラすら伺えない。静かに腰の剣を抜く。

「あり得ない……そんな事は」

 カシルの姿が、とてつもなく巨大に感じる。

一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。その足音と威圧感に耐えられず、リアンは恐怖で顔を強ばらせてゆく。

 あれは確実に、一人の人間を跡形もなく消すか、瀕死の重傷を与えうるレベルの強力な呪文だったのだ。魔法に対して多少の耐性があるなら、一命を取り留めてもおかしくはない。

だが、全くの無傷であるというのは、『魔術師である自分の魔力よりも強い魔力に対する耐性を持ってない限り』は有り得ないのだ。

「絶対にっ!」

 リアンはついに耐えられずに絶叫を漏らす。その暗緑色の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちた。

 カシルの剣が、そんなリアンの鎖骨と胸の間に、浅く真っすぐな線を描いた。ベールが裂け、白い陶磁器のような肌が覗く。

 ツーと一筋、彼女の柔肌に鮮やかな血が伝った。

 もうリアンは、恐怖で言葉を発する事も出来なかった。

 恐ろしかった。人としての一線を越え、魔女とまで言われるようになった自分が身を震わせる存在がこの世に存在するなんて信じたくなかった。

象牙の肌は、いまはただ無機質な印象を与える。その双眸はガラス玉のように感情がなくどこか虚ろのようにさえ見える。

 整い過ぎた風貌は、威厳に満ち溢れて、抗う事など許されない威圧感をリアンに与えていた。

「降参するか」

 まるで命乞いをするように、彼女は何度も必死に首を振った。その細い体はガタガタ震えている。

 立ち合い人ですら、先程の光景が信じられずに呆然としていた。

 カシルが静かな声で言った。

「向こうが負けを認めたが……」

「そ、そうか」

 立ち合い人は、強い畏怖をカシルに覚えながら、右手を高々と天に掲げた。

 カシルの銀髪が陽光によって白銀に煌めく。

 ざわめきが残る中、それでも勝者を讃える歓声が場内に一斉に響いた。

 その後は特に語るべき戦いは一つしかなかった。

ラドスは一回戦で小柄で金髪の、良家の子息らしい人物と相当に激しい攻防を繰り広げていたが、その戦いぐらいしかなかった。

他には途中シャルスが少女と間違えられて男に絡まれて、その現場で助けて貰ったら、今度は助けてくれた人間からナンパをされたり、カシルの追っかけの少女たちにやっかまれて散々な目に遭ったりしたが、ここでは記さないでおこう。

 カシル……いやドヴィンの人気と人々の畏怖はこの数日で急激に高まり、リアンとの一戦以来、さらにこの町での知名度が高まった。

 そしてリアンとの戦いから三日後、ついに二人の決戦に進む闘士が決定した。

 その名はドヴィン=フィアレスとラドス=フォルレイン。

 まるで仕組まれているかのような対戦に、シャルスは苦笑いする。

 最初こそラドスのチョッカイからこの大会に参加する羽目になったというのに、何の因果かすっかりこの数日で親しくなってしまった。

 あの後皆で宿を探したが、満室ばかりで結局一人客を受け入れてくれるような宿は見つからず、ラドスはそのままシャルス達の部屋に厄介になっていた。

 そして決戦の前夜。

 今夜も三人で食事を囲んでいた。

 取り巻きに近かった少女たちも、カシルの「帰れ」の一言以来、宿にパッタリ来なくなった。

 店の主人は冗談交じりにお客さん減らされちゃ構わんなぁ、と言っていたが、そう口でいう程気にしている様子はなかった。

 やはり主人にとっても彼女らはかなりうるさくて仕方なかったらしい。

 ラドスは食後に薄い気の抜けたビールを煽り、カシルはエールを一杯飲んでいた。

 おつまみには、宿の主人がサービスしてくれた、スパイスとハーブの香りが効いたソーセージとベーコン。シャルスはリンゴジュースを片手に、そのおつまみを食べていた。

 僅かに桜のチップの香りがするソーセージの、ザクッとした歯ごたえが心地よい。

「ついに、明日だな……」

「そうだな」

「どっちが勝っても、恨みっこなしだ」

「それはこっちの台詞だ」

 エールを煽りながら、カシルは相槌を打つ。

 この中で一番微妙な立場なのは、シャルスだ。

 どっちにも勝って欲しいという思いはあるのだが、引き分けにでもならない限り、どちらかが負けるのだ。

 しょうがなく、付き合いの長いカシルを応援するとさっきラドスに言ったらスネてしまい、結構機嫌を直すのに大変だった。

 しかし・・・。

 いつの間にか、ラドスは二人の間にすんなりと入り込んでしまった。

 まるで以前から・・・親友であったかのように、ごく自然に。違和感なく二人の傍らに存在していた。

 丁度この男が転がり込んだ頃、自分とカシルは実に微妙な関係になりかけていたのだが。

 あれ以来、カシルとは何もない。

 自然と、いつも通りの関係に戻ってしまった。

 今はこれで良い、とシャルスは思っている。そんなの自分たちには似合わない。

そういう意味では、彼はラドスに感謝していた。

「二人ともがんばれよ。オレ、応援するから」

「けど、お前が応援するのはカシルだろ……」

「……イイ年した男がスネるな、みっともない」

 その冷たい言い草にムカッとしてジっとカシルを睨むと、ラドスがボソッと彼女に耳打ちした。

「あのさ……今のお前って、女っていうー自覚、まったくないだろ?」

「悪いか」

 あっさり切り返され、今度はラドスが言葉をつまらす。

「……絶対、今のお前とシャルス並べて、どっちが女ですかと聞いたら全員こいつを女と答えるぞ、まず」

 そういってシャルスを指さす。二人が何を話しているのか、彼には殆ど聞き取れなかったが、どうせこの男の事だ。ロクな内容じゃないだろう。

 気にせず、ポリポリとおつまみを齧る。

「……失礼な」

「俺は事実を述べただけだ」

「殴ってやろうか……貴様?」

 青筋を浮かべながら、カシルは口元を歪める。

 しかしこの光景をすでに見慣れてしまったシャルスは、この二人が本気でケンカしてない事を知っているのであまり気にしてない。

 それに、カシルがこうやってムキになるには、それなりにラドスを認めているからだろうとシャルスは思っている。

 一カ月ずっと彼女を見ていて気づいた事だが、カシルの警戒心は並じゃない。それこそ手負いの獣がごとく、不用意に他者が近づけば牙を剥く。

 だがラドス……そんな彼女と対等に口を利き、ケンカする。

 シャルスはそれに少し妬ける事もあった。

 それで気づく。自分が彼女とそうやってケンカした事もないという事実に。

 口に苦いものが広がる。それを誤魔化すようにカリカリに焼かれているベーコンを数枚ほおばりながら、リンゴジュースで流し込んだ。

 しばらく、二人の口喧嘩が続く。その顔は、言っている内容のわりには、二人とも楽しそうだ。

 それを眩しそうに、シャルスは見つめている。

「そろそろ、眠った方が良いんじゃないんかい」

「そうだな」

 一通り口論が収まると、ラドスがこう切り出す。そうして席を立ち、カシルは一足先に部屋に戻っていった。

 カシルがいなくなった後、ラドスはポツリと漏らした。

「明日は……ついに来た、待ち望んでいた日だもんな」

 そうゆうラドスの顔は、嬉しそうだ。

 シャルスは後方支援型であまり実戦の経験がないので、こうゆう強い相手と戦って喜びを見いだす者の心理は理解出来ない。特に、見知った者同士が戦うというのに……。

「なあ、ラドス」

「何だ。シャルス」

「カシルと戦えるの、嬉しいのか」

「そりゃあまあ……けどまた急にンな事聞くんだ?」

「オレには……判んないよ。お前やカシルの気持ちが……」

「……そうだな、判らないかもな」

 ラドスは苦笑を浮かべる。

「もうこれは戦士って人種の性分という奴なのかもな。例え己が死んだとしても、強い奴と戦って果てるなら構わない。それが戦いでしか、生きる価値を見いだせない人間の、悲しさって奴なんだろうな……」

 そう言ってラドスは遠い目をした。

 こういう感覚が自分の中に芽生えたのは、傭兵をやり……何度も戦場を経験してからだった。そしてヒリつくような緊張感と、強い者と戦える高揚を今は知ってしまったから。

「……」

 何と返答すれば良いのか、言葉に窮してシャルスは口を噤む。

 沈黙の後、先に切り出したのはラドスだった。

「もう寝よう。明日は早い」

 その響きには、今言った事は忘れろという感情が多分に交じっていた。

 シャルスの髪をクシャクシャとやり、ラドスは彼の手を引いた。

「オレをガキ扱いすんな!」

 子供扱いされて、彼は凄く腹を立てた。

「はは」

 それ以上ラドスは何も言わなかった。

 ラドスの手は、シャルスのより一回り大きい。まだ小さく柔らかなシャルスの手をすっぽり包んでしまう。

 そんなカシルと並んでも見劣りしない彼の体躯が羨ましかった。

 自分なんか、カシルに軽々持ち運ばれてしまうくらいに小さいというのに。

「お前の手、プニプニしてるな。女の子みたいだ」

「悪かったな、離せよ」

 必死に振りほどこうとするが、ラドスの手の平は外れない。

 結局、手を繋いだまま二人は部屋に入る。

 一瞬、ミリ単位でカシルの眦が上がる。

「もう私は寝るぞ。ランプを消しといてくれ」

 バフッと布団に横になる。彼女はそのままふて寝した。

「俺たちも寝ようぜ」

 ラドスがシャルスに向き直って言うと……。

「……どーでもいーけど、手を早く離してくれる? 凄く暑苦しいんだけど」

「お前、俺には冷たくない?」

「こっち怒らすような事をやってるのはラドスだろ?」

 一々返答するのもしんどい。もう、シャルスの瞼も重くなってきた頃だ。

 何が悲しくて、男に手を繋がれなけりゃならんのだ。

「へーへー、判りましたよ」

「初めからそうすれば……!」

 手が外れると同時に、シャルスの身体が宙に浮く。

「何すんだよ!」

 ラドスに抱き抱えられて、情けなさと恥ずかしさで耳たぶまで桜色に染まる。

「いやぁ、俺って親切だから」

「テメー。人を女扱いすんなっつーの!」

「ほれほれ、静かに……ホンット、お前軽いな」

 予想以上にシャルスが軽い事に、ラドスは驚く。人を一人抱えているとは信じられない重量だ。

 自分の体型にコンプレックスを強く感じているだけに、ラドスの発言の一言一言が神経を逆なでした。

「よけーなお世話だ。早く降ろせ!」

「へいへい、了解しましたっと」

 ドスッと少々乱暴に、シャルスをベッドに降ろす。

 降ろされた瞬間、背骨が軋んで悲鳴をあげる。目の奥に火花が散った。

「イテテ……!」

「んじゃ、おやすみ」

 シャルスの文句がくる前に、ラドスは窓際の自分のベッドに潜り込む。

 仕方なく彼は言葉を飲み込まざるを得なかった。一応周りの二人は決勝を控えている大事な身体だ。

 部屋のランプを消し、ベッドに入る。

「ラドスの馬鹿野郎……」

 シーツの上で幾語かラドスへの悪口を漏らしながら、彼はゆっくりと眠りの底へと落ちて行った。

 空に昇る月は、不吉で鮮やかな赤い光を放っていた……。



17歳の時に書いたバージョンと話の展開はほぼ一緒ですが、言い回しを若干変えたり、

誤字等を修正はしてあります。

 後日、ラドス視点の対になる話をアップする予定です。

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