出雲紀行~出雲神話を訪ねて~
旧暦の十月は神無月と呼ばれます。これは全国の神々が各地から出雲地方に参集し、人々のご縁について神議りという会議を行うとされるからです。それゆえ、出雲では旧暦の十月を神在月と呼びます。
出雲大社では旧暦の十月十日に神々が龍蛇神に先導され、稲佐浜から「神迎えの道」を通って大社へ導かれるとされます。神々は御本殿の両側にある十九社に宿泊し、上宮なる仮宮で七日間の神議りを行うと伝えられています。会議が終わった後、彼らは出雲大社を旅立ち、万九千神社に立ち寄って直会という酒宴を催すとされています。
私は十月に出雲市を旅行しました。新暦の十月でしたけれどもスケジュール的に贅沢は言えませんでした。出雲には古風土記で唯一の完本である『出雲風土記』が残っていますので、『風土記』を旅のお伴に携えました。
一日目
私はまずJR西日本の出雲市駅で下車しました。やはりと言うべきか出雲は出雲神話を推しており、売店には大穴牟遅神の大きな木像が置かれ、駅舎の玄関には国引きや八岐大蛇、「因幡の白兎」の絵が掲げられていました。そのような駅で一畑バスに乗り、私は宿を目指しました。
車窓から見た出雲の街は、神在月の広告や巫女さんが描かれたシャッター、出雲そばやしじみラーメンの店がありました。少ししましたら山と田んぼが広がるようになり、バスは村の狭い道を通っていきました。泊まるところは出雲神話をモチーフにした湯宿で、素戔嗚尊と天叢雲剣および十握剣のレリーフ、出雲神楽の面と笛および鈴、神話にインスパイアされた織物、素戔嗚の和歌を記した書が飾られていました。
宿泊する部屋に入りましたら、出雲ぜんざい焼きなるお菓子が用意されてありました。「ぜんざい」は「神在」が語源とも言われます。出雲ぜんざい焼きは薄いどら焼きのようで、皮がぱさっとしていました。
部屋に荷物を置きますと、出雲大社を参詣しに向かいました。「勢溜の鳥居」から境内に入りましたが、黒光りする鳥居は鉄のようであってごつく感じられました。近くには千家尊福の銅像がありました。
尊福は明治時代に出雲大社の大宮司を務め、平田篤胤の復古神道を取り入れて近代的な出雲信仰を形成していき、教派神道の一つである出雲大社教を独立させました。篤胤は素戔嗚から穴牟遅へと繋がる出雲の系譜を重視しました。銅像の尊福は大礼服を着た仙人のようでした。
鳥居を潜りましたら本殿に向かい、参道を下っていきました。穴牟遅が素戔嗚と出会った根国に下るような気分でした。参道を下りきって石橋を渡りますと、「松の参道」が見えてきました。
「参道の鳥居」が建つ「松の参道」は雄大で、立派な松が何本も並んでいました。松林の中には「神話の杜」という大理石の抽象的な彫刻が置かれ、可愛らしい兎の石像も幾つもあり、松ぼっくりが供えられていました。林を抜けたところには「御慈愛の御神像」と「ムスビの御神像」がありました。
「御慈愛の御神像」の方は「因幡の白兎」を、「ムスビの御神像」は穴牟遅と大物主神のエピソードをモチーフにした銅像で、巨大な彫刻が幾つもあるのが珍しく感じられました。銅鳥居を潜ったところにも神馬と神牛の銅像が厩舎に入れられてありました。そうして拝殿を仰ぎ見ますと、分厚い屋根の重量感に圧倒され、高層ではないのに巨大な建築であるように思えました。
そういった巨大建築や銅像の存在から私は社会主義国の都市を連想しました。それに絡めて言えば、出雲大社の有名な大注連縄も男性の暗喩たる蛇を象徴し、東側陣営の芸術のように権力が誇示されているのかも知れません。そのように大きさや強さを誇る大社は木造の巨石文明のようで、宝物殿の出入り口には境内で出土した巨大柱の復元品が展示されていました。
宝物殿には出雲大社に奉納されたものなどが展示されていました。大社に供物を捧げた人たちは、様々な祈願をしており、後醍醐天皇は王道の再興に大国主命の冥助を求め、豊臣秀頼は世界平和を杵築大明神に願いました。「神祭りは『どのようにお祭りすれば最善か』との自問の営みの繋ぎで、そこで模索されたのは不易と変容の葛藤だった」という解説の文章には考えさせられました。
それでいて八足門に雲が繊細に彫刻されてあったのには驚きました。八足門の前には巨大柱の出土した跡も印していました。御本殿は屋根がちらりと見えるだけでしたが、それだけでも圧が感じられました。
私は東十九社から御本殿の背後に回りました。そこには素戔嗚を祀る素鵞社がありました。中世の出雲大社は祭神は素戔嗚で、それを伝える銘文が銅鳥居の柱に刻まれてあります。
祭神が穴牟遅へと変更されたのは、近世に出雲大社の社家たる国造家がリードしたものです。国造家の祖先たちが祀られた氏社を横切り、西十九社の脇を抜け、私は神楽殿に向かいました。神楽殿は大注連縄が出雲大社で最大であることもあり、御本殿よりも大社を見たという気分になりました。
建物も重厚な屋根が圧巻で、広々とした屋内は、採光の具合などが教会のようでした。正面破風もステンドグラスで飾られていました。神楽殿を見物した時、丁度、屋内では太鼓と笛が演奏されており、そのスピードは意外とハイペースでした。
神楽殿の前には日本国で最大の日の丸が掲げられており、そのようなところも共産圏ぽかったです。その近くには金刀比羅宮があり、漁業や航路の安全が祈願されているので、船に乗った兎の石像も置かれていました。それから、帰路に就いて社務所の横を通り、木造の近代建築である庁舎や純和風の勅使館を見ました。
帰りには野見宿禰神社に寄りました。野見宿禰は相撲の祖とされるので、屋根の付いた土俵が設置されていました。これもまた力の誇示かも知れません。
勢溜まで戻ってきますと、次は稲佐浜に赴きました。出雲は交通の便が余り良くないので、徒歩で行くことにしました。到着した時は夕方になっており、太陽が海に沈みつつありました。
稲佐浜は砂がさらさらで、ふわふわとしていました。濡れているところはスポンジのようで、足の感触が楽しかったです。日本海に面していますけれども磯臭くはなく、宍道湖を見ていたこともあって湖のように感じられました。
弁天岩は海の中にあると思ったら、陸の上にありました。濡れて泥まみれのように見えましたが、近付いてみればそのような色でした。岩の上には祠もあり、何故かメロンが丸ごと供えられていました。
砂浜は割りと広く、落書きや流木も見掛けました。空を見上げれば薄暗い中に雲が立ち籠め、今にも建御雷神が天降ってきそうでした。稲佐浜を見ていますと、建御雷たちが穴牟遅たちに迫った国譲りは、「巌流島の戦い」のような光景であったのかも知れないと思いました。
暗くなってきますと、「神迎の道」を歩いてホテルへ帰ることにしました。神在月の出雲にやってきた神々は、夜の「神迎の道」を通って出雲大社に向かいます。その一柱になった気分で私はホテルに戻りました。
夕食を取る前にホテルの温泉に浸かりました。ぬめりのあるお湯は赤茶けており、大蛇が血を流したという斐伊川の水が思い起こされました。大浴場は板張りや檜風呂だけではなく、畳のマットもありました。露天風呂は和風の衝立から恐らくは出雲大社の杜が見えました。
風呂上がりに無料のアイスキャンディーを頂いた後、作務衣を着て晩ご飯の懐石料理を食べました。食前酒には太古から伝わったとされる出雲に独特の地伝酒で、カクテルになっているからか、木苺のシロップのようであってお酒のようには感じられませんでした。土器盛りは神々へのお供え物をイメージした器に盛り付けられ、素朴な和風の前菜という印象でした。
アルコールに「李白 ヤマタノオロチ 超辛口」も注文しました。お酒はガラスの徳利に入れられ、器に盛られた氷でコップともども冷やされており、ぎりぎり甘いとまでは行かない芳醇さが絶妙でした。
二日目
朝食はホテルで頂きました。和食の朝ご飯であってのど黒焼きやあご野焼き、十六島岩海苔、蜆の味噌汁などが出てきました。食後は散歩がてら社家通りの石畳を通って北島国造館を訪問しました。
出雲大社の社家たる出雲国造は南北朝の動乱期に千家氏と北島氏に分裂し、明治期に大社の少宮司であった北島脩孝が出雲教を成立させました。私が北島国造館を訪れた時は、丁度、御神殿で朝のお勤めが行われていました。皆で祝詞を唱和してお祓いをし、「教育勅語」を唱えて歌を唄い、柏手と遙拝の後に朝の打ち合わせがなされました。打ち合わせで日付を言う時は、六曜も付されていました。
そのような朝のお勤めを見終えた私は、北島国造館の庭園を拝見しました。御神殿の横に位置するその池泉鑑賞回遊式庭園は、それほど広くはないのに、秘境のような雰囲気を醸し出していました。
それから、一旦、ホテルに引き返してチェックアウトし、島根県立古代出雲歴史博物館に足を運びました。「風土記の庭」および「風土記の道」を通って古代出雲歴史博物館に入りましたが、古風な命名の割りに庭と道は公園のようで、博物館そのものもガラス張りのモダンな建築でした。中央のロビーには出雲大社の境内遺跡から出土した心御柱と宇豆柱が展示されており、心御柱は岩の塊のようで、宇豆柱は切り立った崖を思わせました。
古代出雲歴史博物館に来たのは企画展の「編纂1300年 日本書紀と出雲」を鑑賞するためです。企画展は考古学の発掘から話が始まり、『日本書紀』を編纂した大和朝廷と出雲の関係が語られ、『日本書紀』の出雲についての記事や出雲における『日本書紀』の受容などが紹介されていました。それらは古代のものだけではなく、中世や近世のものもありました。
特に面白かったのが中世日本紀における大蛇退治と国学の国譲り神話でした。中世日本紀の大蛇退治で奇稲田姫は櫛と化さず、祈祷を行っており、八咫鏡は素戔嗚尊と奇稲田の結婚における引き出物が天照大御神に献上されたものとされました。国学者の六人部是香は『顕幽順考論』で穴牟遅の国造りを高天原の神勅に基づくものと捉え、それが評価されて彼は高皇産霊尊の治めていた幽冥政を司るようになったとします。
こういった神話が絵画作品や書籍などで展示されていました。他に石見神楽の提灯蛇胴や出雲神楽の神楽面もありました。提灯蛇胴は動き出したら怖そうなくらい凄味があり、神楽面は建御名方神・建御雷神・経津主神のものが人形に被せられて展示され、彼らの戦う「荒神」が映像で流されていました。
古代出雲歴史博物館の見学を終えますと、神門通りで昼ご飯を食べることにしました。本格的に昼食を取る前にまずうず煮を試食しました。旧暦の元旦に出雲大社で振る舞われるうず煮は、『出雲国風土記』に記された食材がふんだんに使用され、色が淡くて薄味かと思いましたら、意外としょっぱくて潮の香りがしました。
お昼は出雲そばの釜揚げそばと割子そばを食べ、地ビールの「ビアへるん」を飲みました。釜揚げそばは蕎麦の風味を強く感じましたが、どれだけつゆを掛けましても味はそれほどせず、割子そばはしっかり味がし、ぬめりがあって薬味のためにぴりぴりする味でした。「ビアへるん」は初め甘いかと思いましたら、段々と金属っぽくなっていきました。
食事の後は「宇迦橋の大鳥居」を見物しました。真っ白であって巨大な「宇迦橋の大鳥居」はさっぽろ雪まつりのようで、手前にある宇迦橋と堀川も壮大でした。そして、一畑バスとJR西日本で帰路に就きました。
日本の神話に幾らかでも興味を抱いてもらえればと思い、日本神話を題材にしたライトノベルを以下に挙げさせていただきました。
荒川祐二『神訳 古事記』
岩渕円花『イマドキ古事記』
海猫沢めろん『BL古典セレクション 2 古事記』
小野寺優『ラノベ古事記 日本の神様とはじまりの物語』・「神々の事件簿」
楓屋ナギ『神代幻夢譚』
定金伸治『Kishin』
サム『古事記転生』
藤川桂介『天之稚日子』
まほろば神話制作会『ゆめみる日本神話』
水岐神人『猿田照彦の次元事紀』
森岡浩之『月と炎の戦記』
山崎晴哉『火の鳥 黎明編』