8:ハンカチとスープ
「わわわ、大丈夫ですか?!」
動揺した俺は、半ば裏返った声で男に呼びかけた。男は蹲って額をおさえ、呻き声を上げている。どうやら生きてはいるようだ。
「は、早く手当をしないと…」
気持ちは焦るが、どうしていいかてんで分からない。無意識のうちにポケットを探ると、ハンカチが入っていた。これでどうにかなるとも思えないが、ないよりはマシだろう。
「ちょっと怪我をみせてくれ。」
男の顔を覗き込んで、俺は絶句した。
「え、全然、無傷じゃん…」
彼の額は確かにうっすらと赤く腫れてはいたがそれだけだった。間違ってもあの質量があの速度で突き刺さったとは到底思えなかった。大出血とか開放骨折くらいの惨劇を想定していた俺は、驚きのあまり素にかえってしまった。そして、はあーっと安堵の溜息をついた。よかった、大したことがなくて本当に良かった、と思えた。
すると今度は、男の方が俺を不思議そうに見た。
「どうして、お前が俺の心配をするんだ?」
言われてみると確かにそうだ。元はと言えば、こいつが俺にハンマーを投げつけてきたんじゃないか。もし俺の額にハンマーが直撃していたら、間違いなく俺の頭は真っ二つに割れていただろう。
だが、そうであっても俺は正直もう殺しの感触を味わいたくなかった。こうして会話が成立する相手なら尚更。
「いや、その、ちゃんと話をしたいと思って。」
「話?俺は難しい話はわからんぞ。」
なるほど。見た目の通り筋肉の力に頼って生きるタイプのようだ。しかし、粗野ではあるが悪人という感じではない。取り敢えず俺はハンカチを川の水で濡らし、彼の額に貼り付けてやった。
「すまないな。感謝する。」
きまりの悪そうな表情で男は謝意を示した。礼と言ってはなんだがと、男は背負っていた袋から干し肉や木の実や堅いパンのようなものを出すと、すこぶる手際よく火を起こして湯を沸かし簡単な食事の支度をととのえた。
いくつかの短い会話の後に勧められた少し塩辛いスープが、じわじわと全身を温めてくれる。俺は深い息を吐いた。
トールと名乗ったその男は、何か考えるような表情でパンを齧っている。
「なあ、あの、先刻あなたが言っていた事なんですけど…」
暫しの沈黙に耐えかねて、俺が先に口を開いた。
「俺と彼女達がこの世界を破壊しようとしているって、どういう事なんですか?俺達はこの世界を救う為に東に向かっているところなんですが。」
トールは困惑したような表情で俺を見る。
「お前は、あの女達からそう聞かされているのか?」
俺は黙って頷いた。そして、俺の脳内で膨れ上がる尋ねたいこと話したいことに優先順位をつけようとした刹那、大気まで震えるような地響きと土煙を巻き上げて黄金のイノシシが俺達に向かって、文字通りの猪突猛進、突っ込んで来た。
「救世主さまー!助けに参りましたー!!」
聞き慣れた声がこだましている。
グリンブルスティに跳ね飛ばされた俺の体は、コンビニの袋のような不安定さで宙に舞い上がった。白く輝く太陽が凄まじい速度で急接近し、フワッと胃の中が浮くような心許ない一瞬の静止に到達する。その次にくるのは言うまでもなく、加速する落下だ。
見えざるマドラーでかき回される風景の渦が、あたかも墨汁が注ぎ足されていくかのように黒く混濁し、俺はまた眠りの闇に飲み込まれてしまった。