5:狼と世界樹
久しぶりに、夢を見た。
白い砂の上に中学生の俺が裸足で立っている。
中学生の俺が、なんとも表現し難い、がっかりした表情で俺を見ている。
一歩踏み出しかけた俺に、砂たちが「くるな」と言った。
目を覚ますと、もう真昼だった。眩しすぎる太陽に顔をしかめて起き上がると、ミドとリルが駆け寄ってきた。
「救世主さま!もうそろそろ焼けますよ。一緒に召し上がりましょう。」
「もう食べてもいいよね?!サカナ焼けたから食べていいよね?!!」
なんだ、今度は寝ている間に釣りでもしたのか。よく分からないながらも適当に首肯して、促されるままに焚き火の前に座った。子供の頃ボーイスカウトで作った鮎の塩焼きを倍の大きさにしたようなものが、香ばしく焼けている。ちょっと多過ぎるのではないかと心配になるくらいの量だ。
ジュージューと脂が白い煙を上げる音と香りは食欲を猛烈に刺激した。リルはもう喰いつかんばかりだ(というかミドが首根っこを捕まえていなかったらもう魚の何匹かはリルの胃に収まっていそうな気がする)。アングルボダがゆったりとした笑顔で、俺に一番美味そうに焼き色のついた魚を取ってくれた。皆に魚が行き渡ったのを確認して、食事が始まった。
リルが焼き魚を丸齧りにするのは予想通りだったが、ミドが上品な顎をくいと持ち上げて魚を丸呑みにする様子は予想外というか衝撃的だった。この二人の食事スピードは異常に速かったが、対照的にヘルが食べる様子は動いているのか止まっているのかわからないくらいに遅かった。なんだか時間感覚がふわふわとおかしくなりそうだ。アングルボダが極めて(俺の感覚において)常識的な速度の常識的な方法で焼き魚を食べていてくれたのが大いに救いになる。
俺はよく塩のきいた焼き魚を頬張りながら、周囲を見回した。川が見える。おそらく魚はそこでどうにかして獲ったのだろう。しかしこの塩や竹串は一体どうしたのだろうか、そういえば薪はいつも持ち歩いているのだろうか、などと考えていると、珍しくヘルが話しかけてきた。
「それにしても、本当に、救世主様は、すごい方、ですのね。昨日の、イノシシも、ですけど、今日も、魚の、バケモノの、大群を、一網打尽、ですもの。」
この魚はバケモノの大群だったのか。ヘルの独特の酷く緩慢な声に合わせてゆっくりと頷きつつ、俺は苦笑するしかなかった。
「全くその通りです、救世主さま。もう、この世界を救うことが可能なのは貴方様しかいないと思います。」
ミドがまた焼き魚を飲み込んで言った。昨日から評価が急上昇し過ぎて流石に心苦しい。ははは、と乾いた笑いが喉の奥で情けなく漏れる。
そのとき、ふと、空に違和感をおぼえた。
手を庇にして日光を避けつつ空を見上げると、東の空に何やら黒い影のようなものが見えた。明瞭な形は判らないが、酷く不吉なものに思えて、夕立雲のように寒々しい不安が俺の胸に充満していった。
「お気付きになりました?」
アングルボダが辺りを憚るように囁いた。ああ、と呻くように首肯する俺に彼女は寄り添い、俺の手を両手で包むように優しく握ってくれた。柔らかな繊手は暖かくて、鳩尾辺りのモヤモヤとした不快感が少し和らいだ。
「あれは狼ですわ。太陽を嚙み殺そうとしているのです。この世界が始まった頃からずっと太陽を追っているのですけれど、最近急にその距離が縮まってきているのです。」
唄うように緩やかな声ではあったが、どうにも拭い切れない悲愴感が漂っている。
「つまり、あの狼を退治しに行くのですね?」
緊張感を唾液と共に呑み込んで俺は彼女の顔を覗き込んだ。しかし、彼女は顔を横に振った。
「いいえ。世界の終わりが近づいている事を表しているのは、あの狼だけではありませんわ。あの樹が見えますか?」
アングルボダの白い指が指し示す方を目を凝らしてみると、草原の彼方、山の向こうのずっと遠い所だろうか、微かにうっすらと青く空に向かって雲の中まで伸びているものが見えた。
「あれが世界を支えている、世界樹です。本当はもっと逞しい大樹だったのですけれど…、最近はすっかり痩せてしまって、あの通りですわ。」
成程。それは大樹というによりは手背の静脈のような儚さすら感じる姿で、とてもじゃないが世界を支えてはいけそうもなかった。
「では、あの木を目指して旅をしているのですか?」
「いいえ。狼も世界樹も、飽くまでも世界の危機を示す現象の一部分に過ぎませんわ。私たちは、この世界全体を救わなくてはならないのです。」
彼女の瞳は決然と燃えていた。その美しさに、俺は引き込まれてしまいそうだった。
「俺なんかに、救えるんでしょうか。」
腑抜けた俺の声にアングルボダは力強く頷いた。
「ええ。貴方にしか出来ないことですわ。」
なんだか、胸の奥がチリチリと燃えるような感覚がした。耳朶が熱い。ドクンと鼓動が大きく響いている。
本当に、俺にしか出来ないことなんてあるのだろうか。
本当に、俺にこの世界は救えるのだろうか。
脳内に渦巻く風の中から闇のような眠気が一気に俺の意識を覆った。俺は、まだ眠りたくないな、と初めて思った。アングルボダの横顔が目の裏に一瞬映ったが、やはり眠気には抗えず、そのまま眠ってしまった。