3:救われるべき世界
アングルボダの背中は頼もしい。歴戦の看護師長の様な安心感がある。なだらかな肩や、しっかりと伸びた背骨から続く豊満な臀部には、限りない母性を感じる。とは言っても、あまり尻ばかりジロジロと見ていていいというものでもないので、俺は抜ける様な青空や、今朝芽吹いたばかりのような鮮やかな黄緑色が突き刺さる様な木々なんかに視線を移して、ここもどうやら春なんだななどと独言たり、時折後ろを振り返って三人の娘らがついてきているのかを確認したりしていた。
「救われるべき世界は無数にあるわ。」
アングルボダが言った。彼女の声は乾いた風をかいくぐって、俺の耳に真っ直ぐに届く。
「そして、この世界もまた救われなくてはならないの。」
余りに確信に満ちた心地よいほどの響きだったが、俺には合点がいかない。
「どうして俺なんですか。俺なんかが何ができるんですか。まだ何の事情も掴めていませんし、本当になんにも、」
「そうですよ」
俺の声を背後から飛んできた声が遮った。冷たい矢の様な、鋭い金属的な声だ。
振り返って見ると、ミドが黄金色の瞳を煌々と燃やして俺を睨んでいる。
「私にはこの男にこの世界を救うような力があるようには思えません。何かの間違いではありませんか。」
鉱石を思わせる白さの頬を微かに紅潮させて彼女は言う。
足を止めて緩やかに振り返ったアングルボダが、あくまでも穏やかな表情で答えた。
「間違えるものですか。この世界に間違いなんてないのよ。」
「ですが、この男は力も知恵も勇気もあるようには見えません。はっきり言って私やリルの方が強いくらいなのではないかとさえ思います。」
ミドは見た目もかなりシャープだが、性格も物言いも鋭いようだ。俺は特に反論できる材料もないので黙っていた。というか、俺はこういう自分が批判されたり非難されたり不利な状況になると頭がボーッとしてしまうし、喉がつかえて声も出なくなるのだ。本当に駄目な人間だ。世界なんか救える筈もない。
俺の瞼の裏にチラチラと小学生時代の風景が投影される。帰りの会だ。クラス委員の女子に俺は何かを糾弾されている。数人の男子が俺に加勢してくれているが、担任は完全に女子の意見に傾いているのがわかる。ああ、もう何でもいいから早く帰りたい。掌が汗でじっとりと湿っている。
女たちの声が遠ざかっていく。なんだろう、猛烈に、眠い。
春の陽光が急速に眩しさを失っていく。周辺の風景があたかも絵葉書のようにのっぺりと奥行きをなくし、ぼやけていく。俺は目蓋の重さに耐えかねて目を閉じ、緩やかに旋回するような暗闇に足元から呑み込まれた。何故か、珈琲の香りがした。