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2:春の嵐

その雨は唐突だった。

三月のぼんやりと曇った夜空を暴力的な強風が巨大な腕でかき混ぜたかと思うと、バラバラっと大粒の雨がアスファルトを叩き、そのまま俺は洗濯機に投げ込まれたかのような春の嵐に飲み込まれた。

こんな時、俺はどうする事もできない。予め判っている厄介ごとであれば前日に眠ってしまえばいい。寝て起きるだけでいつも上手い具合に解決しているのだ。しかし、この雨のような突然のアクシデントの前では俺はてんで無力なのだ。

俺は雨水でグズグズになった靴下が革靴の中でたてる不快な音とヌルヌル滑る感触にイライラしながら何とか自宅に辿り着いた。新調したばかりのスーツも完全に水を吸って哀れな有様だ。

シャワーを浴びて気を取り直そうとしたが、ボディソープが切れていた。そういえば冷蔵庫の中も空っぽだった。仕事帰りに買い物に行く予定だったのだ。ついていない。こういうときは、どんどん不運なことが起こるのがお決まりだ。

全く気乗りしないが、また暴風雨の中を買い物に行くかとパーカーを羽織ったところでスマホがけたたましく(いつもと同じ音の筈なのだがこんなときはけたたましく聞こえるものだ)着信を告げた。もう嫌な予感しかしない。

画面に表示されている取引先の名前(正直うるさ型で苦手な相手だ)に覚悟を決めて、電話をとる。自分は何かやらかしたのだろうかと今日一日のダイジェストが猛スピードで脳内を駆けて行く。全身から汗が吹き出る。顔が異常に熱い。喉の奥に何か得体の知れないものが詰まって声が上擦ってしまう。相手の声が俺の腹を抉るように殴打する。胃がキリキリ痛む。喉の奥の嫌な酸味を飲み込みながら謝罪の言葉をひたすら絞り出す。見えている筈もないのにひたすら頭を下げて許しを乞う。

どうやらやらかしたのは俺ではなくて後輩だが、チェックして判子を押した責任からは逃れられないだろう。心臓を直接握り潰されるかのような圧力に耐え切ってなんとか電話を切った俺は、そのままベッドに突っ伏して長い息を吐くと、気絶するかのように眠りこんでしまった。



甘酸っぱい匂いが、鼻腔の奥をついた。懐かしい、透きとおった春の香りだ。

遠くで優しい声が聞こえる。あたたかくて柔らかい。まるで何かに包まれているようだ。…いや、違う。実際に頬が何かに包まれている。

感覚が徐々に明瞭になる。声がハッキリと聞こえる。女性の声だ。少し逡巡してから、俺は腹を決めた。額に力を入れて、ゆっくりと目を開いた。

目の前に、顔があった。女の人だ。色白で瞳の大きな女性が、寝転がっている俺の上に跨って、両手で俺の顔を包んでいた。

恥ずかしながら、ここまでの人生で女と全く関わる機会に恵まれなかった俺は、この衝撃に完全に固まってしまっている。

「ほら見なさいよ。私の言った通りでしょう?王子様っていうのはお姫様のキスで目を覚ますものなのよ。」

俺の上に跨った女性が、後ろを振り向いて誰かに言った。俺もそちらに視線を移すと、少し離れた所に女の子が三人立っている。三人はそれぞれ何事か話しているようだが、俺は、それより何より、いま女の言った言葉にとんでもない単語が含まれていることに気がついた。

「あ、あ、あの、す、すみませんが、あの、いま、キスって、あの、」

駄目だ。動揺し過ぎて全然呂律も頭も回らない。声も喉の奥に引っかかって全然出てこない。溺れるように喘ぐ俺に、女性が気づいた。

女性は輝く蜜のような笑顔を俺に向けて言った。

「おはようございます。私の名はアングルボダ。貴方様をお迎えに参りましたの。」

「え、あ、お、俺は…」

吃りとも呻きともつかない声を絞りだそうとする俺を、アングルボダはそっと制して言った。

「私どもは貴方様の事、よく知っておりますわ。突然のことで驚かせてしまって申し訳ありませんね。」

穏やかな彼女の声に俺も徐々に落ち着きを取り戻してきた。それと同時に無数の疑問が噴出してきた。5W1Hの全てが疑問なのだ。何を何処からどうやって質問しようかとまぶたの裏でグルグル考えていると、三人の女の子達がこちらにやって来た。アングルボダに促されて俺の前に並ぶ。


「私のことはリルって呼んでね。」

最初に、一番背が低くて一番友好的な表情をした女の子が自己紹介をした。ヌイグルミ帽子というのか、頭に犬の耳のようなものがついている。昔実家で飼っていたシベリアンハスキーにどこか似ている。


「私は、ミド。よろしく。」

次に一番痩せていて首が長い女の子が言った。切れ長の目と鏡のようにツヤツヤした黒髪が印象的だ。


「…ヘルです。」

三人目は、ふわふわとした髪で可愛らしい顔をしているのに猫背で不景気な表情をしている。不自然な程に長いスカートを履いているのが気になる。


不思議なもので、今のところ名前以外の情報は何もないのにも関わらず自己紹介をされただけで変に安心感が湧いて来た。何故か以前からの知り合いだったかのような気すらしてくる。彼女達は俺の事を知っていると言っているのだから、或いは知り合いなのかも知れない、などと一瞬考えて、いや、そんなはずはないと、ふと冷静になった。

だいたい、ここは何処なんだ。俺は、俺の部屋で眠り込んでしまったはずなんだ。

改めて周囲を見渡す。完全に野外だ。草原だ。視界の端から端まで青空と若草色の原野が広がっている。

暖かい風と花の香り、確実に俺の部屋ではない。会社でもないし実家でもない。


ここは、いったい、どこなんだ。

隣に寄り添う女の顔を見る。アングルボダは優しく微笑んだまま、スッと立ち上がって告げた。


「東に参りましょう。この世界を救いにいくのです。」


俺は、結局なにひとつ解らないながらも、彼女の細く柔らかな手を取った。


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