10;ウトガルド(外の世界)
今日も空は果てしなく高くてカラリと晴れている。乾いた風が吹く草原は、土の匂いの中に微かなマメ科の花の香りがした。
俺とアングルボダはグリンブルスティの背中に、残りのメンバーはグリンブルスティに括り付けた荷車に乗って東進を続けている。
「グリングリングリンブルースティー!!!」
「うるさいわね!ちょっとは黙っててよ!!」
リルの下手くそな即興の歌を、ミドが罵っている。
「いや、今の歌はなかなか良かったぜ。俺も歌いたい。グリングリン…」
トールは存外リルと感性が近いらしい。
「ぎゃー!もういい加減にしてよ!!」
いつにも増して賑やかな荷車に苦笑しつつ、俺は手綱をガチガチに緊張した手で握りしめていた。イノシシどころか動物の背になど全く乗ったことが無いので、グリンブルスティの操縦なんてもう正直不安と恐怖しか無いのだが、どうやら寝ている間の俺がずっとグリンブルスティの手綱を取っていたらしく、今日も当然のごとく俺の役目となったのだ。しかしながら、有り難いことにアングルボダが後ろから俺をさりげなくフォローしてくれるお陰でなんとか今のところ順調に旅は進んでいた。
イノシシの背に揺られ、流れていく景色を見ているうちに俺は違和感を覚えた。何やら視界がチラつくのだ。それは最初サブリミナルフィルムのように瞬間的なものだったが、徐々に明瞭になり、地平線近くに見えた逃げ水がまばたきの度に拡がり、やがていま見えている景色の上に半透明な下敷きを重ねたように、田園風景が見えてきた。
青々とした水田が広がっている。ヒビ割れだらけで舗装がすっかり白くなった細い農道が緩やかに伸びている。ダラダラと長い坂道を加速して進んでいく。向こうから飛来する揚羽蝶と擦れ違う瞬間、蝶の羽が空気を叩くその衝撃で、俺は思い出した。
この道は、俺の故郷だ。
この坂道を自転車で走って中学校に通っていた。ひたすらに田圃の中を突っ切って、いくつかの梨畑を通過して、車なんて来るはずもない信号機を追い越すと中学校に着くはずだ。
中学校。
俺の心臓が巨人に握り締められたかのようにギュっと苦しくなった。胸を掻き毟り、俺は声を絞り出した。
「アングルボダ…!」
「どうかしましたか?」
ハッと目を開けて振り返ると、アングルボダが俺の後ろで訝しげに首を傾げて俺の顔を覗きこんでいた。辺りを見渡してみたが、件の田園風景は消えている。
「あ、す、すまない。なんでもないんだ。」
情けない声で(そしてきっと情けない表情で)言った俺をアングルボダは優しく後ろから抱きしめてくれた。背中に柔らかな体温を感じる。ホーッと安堵の息を吐いた俺にアングルボダは言う。
「ウトガルドの城壁が近付いてきましたわ。ウトガルドの主人は幻を見せると聞きます。どうか気をつけて下さいませ。」
幻。そうか、幻か。強張っていた肩から力が抜けた。彼女の手を握った。彼女がいてくれれば、なんとかなる、そんな気がした。
そう、彼女さえいてくれれば。