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1:寝逃げ能力

目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。カーテンの隙間から射し込む朝の光は真冬の鋭さを幾分失いつつあるようだった。もう、三月なのだ。

俺は体を起こし軽く伸びをすると枕元のスマホを手に取って、最初に日付を、それから職場の先輩からのメッセージを確認した。

『おつかれさん。あっちの主任さん、随分お前のこと気に入ってたみたいだし、今度もきっとうまくいくな!』

ああ、どうやら昨日も上手くいったようだ。俺はホッと胸を撫で下ろした。

安心したところでコーヒーが飲みたくなったので、キッチンにむかった(といっても俺の住まいは手狭なワンルームなので、4歩ほどの移動で到達してしまうのだが)。電気ケトルのスイッチを入れたところで、カーテンがまだ閉めっぱなしだったと気付いて窓辺に戻り、カーテンを開けた。

空は全体的に雲が多く寒々しい色をしてはいたが、西の方角からジッパーを開いていくように眩しい青空が近付いて来ているのが見て取れた。昼頃にはすっかり晴れてしまうのだろう。

ふと窓の下に目をやると、制服姿の学生やその親とおぼしい人々が数組流れるように歩いていった。卒業式だろうか。急に懐かしい気持ちが込み上げてきた。

そう、俺がこの能力を手に入れたのは、中学の卒業式の日だった。


俺の名前は、粕井明。一見平凡な会社員だ。自分で「一見平凡な」なんておかしな言い方だが、俺にはちょっと変わった能力がある。俺はその能力を、「寝逃げ」と名付けている。文字通り、嫌なことや辛い事を寝ている間にスキップしてしまう能力だ。寝て起きると嫌な事も辛い事も既に終わっているのだ。

子どもの頃、運動が苦手で勉強もできず、おまけにゲームも下手で内気で口下手で、とにかく全くもって冴えなかった俺にとって、小中学校時代は苦難の連続だった。毎日学校を休みたくてたまらなかった。実際何度も仮病で休んだ。

人生が変わった中学の卒業式の前夜、俺は果てしなく憂鬱だった。中学校を卒業するという解放感や喜びは勿論あったが、それ以上に卒業式当日をイメージすることが苦しかった。

栓を開けたサイダーのような喜びに沸き立つ教室の隅で、ひとり何者にもなれずに石のように場違いに突っ立っていなくてはならないであろう自分。笑うでもなく泣くでもなく、ただ時間が過ぎていくのを息を潜めて待っている自分。この胸をコンクリの壁に挟まれるような息苦しさ、胃に石が詰まったような辛さを思って、ただただ、涙があふれた。

しかし、俺がその苦痛に満ちた時間を過ごすことはなかった。

布団の中で咽び泣くうちに眠ってしまった俺が目を覚ました時、既に卒業式は終わっていた。いや、それどころか高校入試も合格発表すらも通過して、高校の入学式の朝だった。

奇妙なことに、俺以外の人たちには俺が起きて活動していたことになっているようだ。いや、もしかしたら本当に起きて活動しているのかもしれないが、俺の記憶にない以上、俺にとっては寝ているだけで嫌なことがスキップできたのだから、本当に本当に心の底から神に感謝した。当時自転車で行ける範囲の神社全てに参拝した程だ。そして、それからもチョイチョイ俺はこの『寝逃げ能力』を使用した。持久走大会、体育大会、大学入試、さらに卒論や就活に至るまでおれは、寝逃げに頼り切ってきた。やるべき事をやっていないという罪悪感がないわけではない。だが、俺はこの能力に真実救われているのだ。

昨夜も、苦手だが大手の取引先との飲み会だったのだが、無事に寝逃げできたようだ。


目覚まし時計が鳴り出した。

俺は現実に立ち返る。インスタントコーヒーの香りが、なぜか妙に優しく感じられた。


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