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「…また抜け出してきたのか、アイリス嬢」
「?!い、いつから気づいて…!」
「隠れているつもりだったのか…?」
本気で呆れているらしいアンドレアスに、アイリスは真っ赤な顔で繁みを飛び出した。屋敷を巡回中のアンドレアスをこっそり観察…もとい、うっとりと見とれていたはずなのに…。ワンピースに付いた草木を払いながら、さりげなくチラチラと彼を見上げる。
「これでも武人の端くれだ、あれだけ熱心に睨まれれば嫌でも気づく」
「うぅ…っ」
「…そもそもあなたの場合、その御髪が目立って隠密行動には向いていないと思うが」
「うううぅ…っ!」
こ、ここでも弊害が…!と恨めし気に自分の髪をつまんだアイリスに、アンドレアスの手がスッと伸びた。ドキリとして思わず目を瞑ったが、その気配はすぐに離れていく。…どうやら頭にまだゴミが付いていたらしい。
「まぁ金髪の私が言えたことではないな。…どこかへ行くところだったのでは?」
「きょ、今日はこっそり抜け出してきたわけではなくてよ!体調が良ければお外を散策してきてもいいとマシュー先生が仰ったから…」
「そうか。…確かに今日は夜着ではないのだな」
少し皮肉気に口端を上げるアンドレアスが憎たらしくて、でもそれ以上に魅力的で、アイリスは赤面しつつわざとツンとしてみせた。
「せっかく久しぶりにお外に出られたのですもの、おめかしくらいしますわ!」
「あぁ、よかったな。…よく似合う」
「!お、お母様のお見立てですもの!間違いないわ!」
このころのアンドレアスは今より饒舌で、その言動でアイリスをいつも一喜一憂させたものだ。彼にとっては年下の妹のような感覚だったのだろう。それでも自分は嬉しくて、暇さえあれば彼の後をついて回ったのだった。
前向きになった気持ちが体調にも表れたのか喘息も徐々に快方に向かい、これまでよりずっと多くの時間を外で過ごせるようになってくると、父はアンドレアスをほとんどアイリスの護衛として扱うようになった。アイリスは無邪気に喜んだだけだったけれど、今思えばフェロウズ家の虚弱な愛娘が『茨の王』に狙われないはずもなく、当時二つ名さえ持っていたアンドレアスがただ適任だったということに違いない。このころから二人は気安く『アンドリュー』『アイリス』と呼び合うようにもなった。
転機が訪れたのは、それから半年ほどが経ったある日。
『茨の王』は思いのほか討伐隊を手こずらせ、未だにあちこちで暗躍しているという。だが不謹慎でもそのお蔭でアンドレアス…アンドリューが傍に居てくれるのだから、アイリスは複雑な心持ちだった。
その日は『話がある』と両親に呼ばれ、居間でソファーに座っていた。いつもアイリスを目の前にするとがっかりするほど蕩けた表情をする父コンラッドが珍しく不機嫌な…いや、ふてくされた表情で向かいのソファーに座っている。隣の母は、いつも通り仕方のない人ねぇとばかりに微笑んでいるが。
「こん…やく、ですか。私が…?」
「いいや違うぞアイリス、父さんは断じて婚約なぞ認めたつもりはない!ただ奴がどうしてもというから見合い…いいや顔合わせの席くらいは設けてやろうと…」
「まぁあなた、そんな子供のようなことを仰らないでくださいな」
「う…いや、まぁ確かにいい話ではあるのだがな…。相手は貴族だが、どちらかと言えば俸禄より商売で食べているような気風の家だ。よく家に来るマティアスのことは覚えているか?うん、相手はその息子でな、今年16になるそうだ」
「マティアスおじさまの…」
マティアス氏と言えば父の旧来からの友人で、長年親しく付き合っていることはアイリスも知っていた。父の気安い言葉も、そんな気の置けない友が相手だからこそなのだろう。なんだかんだと父がこの話を満更でもなく思っているのには薄々気付いていた。そうでなければ娘に話をするまでもなく、申し出を引き裂いて丸めて踏み潰して、灰にして相手の庭に撒くくらいのことはやりかねない父である。
少し考えさせてほしい、と告げて自室に逃げ帰ったアイリスは苦悩した。自分の気持ちにただ素直になれるとしたら、結婚したい相手など彼以外にはありえない。けれどそれはアイリスの独りよがりな願望で、一方的に婚姻を結ぶことなんて不可能で。何より彼は…自分のことを妹ぐらいにしか思っていないのだ。堪らなくなって、部屋を飛び出した。
「アンドリュー!!」
「!アイリス、何があった?」
彼はどこからか戻ってきたところだったのか、裏口で愛馬から荷物を下ろしているところだった。悲愴な表情で駆け寄ってくるアイリスに、どこか気遣わしげな声を掛けてくる。
「私を…!」
私を連れて、逃げてほしい。二人で、ずっと一緒にいられる場所へ。
本当はそう言いたかった。
「…どこか遠駆けにでも連れて行ってちょうだい!お父様ったら、うんざりするようなお説教をなさるんですもの」
「お転婆すぎて叱られたんじゃないのか。…まぁ、気分転換くらいなら構わんだろう」
「失礼ね。家出でもしてしまおうかしら!」
「やめておけ、お父上が発狂して軍隊まで駆り出すぞ」
「…そうね、やめておきましょう」
半狂乱になってここぞとばかりに金と権力をふるう父が容易に想像できてしまう。
「じゃあ急いで支度を…」
「もたもたしていると日が暮れる。…おいで」
アンドレアスは先ほどまで纏っていた自身の風避けマントをアイリスに巻きつけると、慣れた手付きで馬上に抱え上げた。そのまま自分も鐙に足を掛けると、ひらりと鞍に跨って前に横座りしたアイリスを支える。こうして二人で馬に乗るのも初めてではないのだが、手綱を握る腕が自分を閉じ込めるようにまわされると、いつだって胸を高鳴らせずにはいられなくなってしまう。
ポクポクと歩みだした馬の背で、さりげなく彼の胸に寄りかかる。どこへ連れて行ってくれるのだろう。願わくばなるべく遠くへ、いっそずっとこのまま辿り着かなければと、そう思わずにはいられなかった。
人目を避けつつ繁華街を抜けて、王城を背に緩やかな丘を登り、時折枝を打ち払いながら林を進んで。馬の足を止めさせた時には、既に日は傾きかけていた。
「ここは…?」
「…私の実家は鍛冶屋でな。刃を潰したおままごとのような剣をいくつも作ってもらって、友人たちと朝からここで振り回して遊んだものだ。」
アイリスを抱え下ろしてくれたアンドレアスは、愛馬の首を軽く叩いて労わってやると、無造作に手綱を外した。よくしつけられていて、繋がなくても逃げ出したりしないことは知っている。
林を抜けた先にぽっかりとあいた空間には風の吹き渡る草原が広がるばかり。その中心にたった一本生えた樹木に、彼はアイリスを伴った。どこからか取り出した掛物を敷いてくれて、二人して座り込む。夕時の風は心地よく、力を抜いて背後の幹に寄りかかった。
「…それで?」
「…?どうしたの?」
「あれだけ切羽詰まった顔をしていたのが、まさか本当にお父上からの小言ということはないだろう。何かあったんじゃないのか」
「…それは」
やはり不審に思っていたのだろう。静かに問われて、返答に詰まる。
「無理には聞かない。…ただあなたの助けになれればと思っただけだ」
「っ…アンドリュー…」
そんなこと、言わないで欲しい。あなたの何気ない優しい一言にまた舞い上がって、そんな自分を戒めて…焼け付くような胸の痛みにひとり、耐えることになってしまうから。
「大したことじゃないのよ。…とうとう私にも、いいご縁があったみたいで…一度お会いしてみたらどうかって。ちょっとびっくりしてしまったの」
「…。縁談か…」
平静を装って吐露してみたけれど、彼は特に何も返してくれなかった。…おめでとうと、そう言われてしまうよりはマシだったのかもしれない。
「それより、今日は珍しく外出なさっていたのね」
「…あぁ。奇遇だな、大隊長から呼び出されて何事かと思えば…こちらも見合いの話だった」
「…え…?」
隣に並んだ彼の横顔には、特に何の感情も浮かんでいない。頭の中が真っ白になった。
「目を掛けてくださるのはありがたいが、嫁の心配までされるとは…な。」
そう言って苦笑する彼を呆然と見つめた。
そうだ、なぜ気付かなかったのだろう。アンドレアスはいくつも年上で、おまけに衛士の中でも突出した実力を持つ。本当ならば、アイリスと出会う前に結婚していても不思議ではなかったはずだ。
自分の愚かさに眩暈がする。アイリスが結婚しようがしまいが、いつか…彼の方が私を置いて行ってしまうのに。
「アイリス?どうし…っ!」
訝しげに覗き込んできた彼の肩に手をかけ、グイと押した。さすがのアンドレアスも力を抜いていたのか、不意打ちにあっけなく倒れ込む。
無我夢中だった。彼を失いたくない、頭の中はそれだけだった。
ほとんど一緒に倒れ込むようにして、そのまま彼の唇に自分のそれを勢いよくぶつける。見よう見まねのキスは滑稽なほど不格好で、ガチリと歯が当たって痛かったけれど、それがアイリスの精一杯だった。
両腕をついてほんの少し体を起こすと、珍しく驚愕の表情を浮かべた彼がこちらを凝視していた。サラリと零れた白銀の糸が、彼の頬に落ちる。
「ごめんなさい…ごめんなさい、アンドリュー…!好きなの…わたし、あなたのことが…っ」
好きなの。ごめんなさい。繰り返すうちに涙が溢れて、また彼の頬に落ちた。
「…アイリス」
彼の手がそっと涙を拭って、アイリスの頬に添えられた。そのまま腰にもう一方の手を回し、支えるようにして一緒に抱き起す。膝の上に泣きじゃくるアイリスを乗せて、なだめるように頭を撫でてきた。
「わたし、いやだった…!あなた以外の人と一緒になるなんて…おねが、…置いていかないで、お願い…!!」
「落ち着け、私はなにも───」
「───けっこん、して」
「アイリ──」
「お願い、アンドリュー…私と結婚してっ…!」
今思い出しても泣きたくなるような醜態だった。号泣しながら縋り付いてプロポーズだなんて、彼もさぞ困り果てたに違いない。それでも、そんなアイリスを抱きしめて、彼は言ってくれたのだ。
「…あなたの泣き顔は初めて見たな。…わかった。結婚しよう」
「アンドリュー…?」
「後生だから、泣き止んでくれ。あなたが泣くと…どうしていいかわからない」
自分から願ったくせに、彼の返事が信じられなくて。夢ではないかと思った───今まさに沈まんとする夕日を背後に、彼があまりにも魅力的で、幻想的に見えて。
それから彼は、ぼうっと見上げたアイリスをそっと幹に押し付けて、まるで教えるかのような優しいキスをしてくれた。作法も何も知らず固く目を瞑るしかない私を蕩かすように、慈しむように、何度も唇は触れ合った。少しかさついた二人の唇は触れ合うごとに潤いを増して、恥ずかしくなるような音を立てる。いつの間にか、二人の両手も繋がっていた。
それはとてつもなく長い時間に感じられたけれど、もしかしたらほんの数瞬のことだったのかもしれない。ちゅ、と一度強め吸い付いて離れた気配にそっと目を開くと、至近距離で彼と見つめ合うことになった。アイリスの視界いっぱいに広がったのはまるで星空のようだと見とれたあの瞳で──────
──────そこまで夢想して、アイリスは目を開けた。
過去のなんと愛おしく、甘美なことか。今目を開いたところで、アイリスの視界には夜空に瞬く星々が映るばかりで、あのとき熱を与えてくれた人はどこにもいない。
泣くな、と懇願されたあの日から、決して彼の前では見せなかった涙が静かに溢れる。
(明日になったら…)
(明日になったら、もう彼を困らせたりしないから)
優しい彼が躊躇してしまわぬように。
(今だけ、だから──────)
「…っ…泣いているのか、アイリス」
しゃがみこんだアイリスがやっとその気配に気付いた時には、もう彼はすぐそこまで近づいていた。走ってきたのか、少し息が上がっている。
「アンドリュー……!」
思わず零れた昔の呼称に彼がどんな顔をしたのかは、樹木の陰で判然としなかった。