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…どこをどう通って帰ってきたものか、気付いたときには自宅でキッチンに立っていた。レースのカーテン越しに見える外は、既にどっぷりと日が暮れている。例えひと月と言えども習慣とは恐ろしいもので、無意識にも夕食の支度を済ませていたらしい。常であれば、そろそろ彼も帰ってくる時間だ。
────顔を合わせたくない。
初めてそう思った。
彼を嫌いになったわけじゃなく…むしろ嫌いになれたならどんなにか良かったろう。自分でもこれがただの逃避だと分かっている。それでも、少しでも長くこの時間が続くのなら…。そう願わずにはいられなかった。
火の始末だけを済ませて、半ば衝動的に真っ暗な自室に篭もる。正しくは、もしかしたら使われることもない夫婦の寝室だ。なにもかもそのままで寝具に倒れ込む。見上げた天井は、実家のそれよりも遥かに低く装飾もない。比較してしまえば、この家全体がおままごとの道具、おもちゃのようなものだけれど。
(それでも、私にとっては何よりも大切な…)
愛の巣だなんて、自惚れるつもりはない。けれども彼は、初めて新居の戸をくぐる新婚夫婦の慣習を律儀に守ってくれた。式も挙げていないのに迷ったとむっつり言いながらも、一言断ってアイリスを抱き上げた腕はひどく優しく、ここが世界で一番安らげる場所だと思えたものだ。感極まって泣きながら笑うという芸当を披露したアイリスに彼は珍しく慌てて…。どうしたんだと急いで下ろそうとしてくるアンドレアスの首にぎゅっと抱きついて、しばらく離してあげなかったのだった。諦めたかのように息を吐いて、不器用にそっと頭を撫でてくれた彼の手の感触を思い出すと、手足がきゅっと縮まるような切なさを覚える。
ようやく泣き止んで顔を上げると、ひどい顔だったろうに彼は優しく微笑んでくれた。
彼の腕に抱かれて見つめ合ったあの日、二人は確かに笑っていたのだ。これから幸せな日々を紡いでいくのだと疑いもしなかったのは、アイリスだけだったのだろうか────。
コンコン、
おもむろにノックの音がして、はっと目を開けた。いつの間にか彼が帰宅していたらしい。…そういえば、出迎えられなかったのは初めてのことだ。彼がどんなに渋い顔をしようと、深夜でもリビングで彼の帰りを待っていたのに…。
「…アイリス?具合でも悪いのか」
「!おかえりなさいませ、アンドレアスさま…っ」
掠れた声が出て、扉越しにも一層彼が訝しむのが分かった。
「もしかして喘息が…」
「あ…っいえ、違うのです。久々に街まで歩いたら少し疲れてしまって…ふふ、すっかり鈍っていたのですわ。あの、今日はご昼食を忘れてしまって申し訳ありませんでした…」
「そうか…いや、失念していたのは私の方だ。わざわざ持ってきてもらって悪かった」
「召し上がっていただけてよかったですわ。皆さんのお口にも合えばよかったのですが…」
「…まぁ、喜んではいた」
少し歯切れが悪そうで不思議に思ったが、さすがにサンドイッチに上手も下手もないだろうからきっと大丈夫だろう。
「ぼんやりしていて申し訳ありません。温めるだけなので、お食事を…」
「いや、実は少し食べてきた。疲れから発作が起きるかもしれない…今日はもう休んでくれ」
「…分かりました。お休みなさいませ」
…皮肉ね。顔を突き合わせない方が会話が弾むなんて。そういえば、彼の方からアイリスと呼びかけてくれるなんて、なかなか無いことだ。なんだかおかしくて、自嘲するような笑みを浮かべてしまった。
おやすみ、と一旦離れたアンドレアスの気配が戻ってくる。
「…すまないが、アイリス」
いつになく真剣な声音に、思わずギュッと両手を握りしめる。
「…はい、」
「体調が良くなったら…明日にでも、少し話しておきたいことがある」
────来た。
喘ぐようにしてどうにか応えを返すと、今度こそ彼の気配は離れて行った。
腹心の部下であり、親友でもあるカインドさまにああ言ったからには、遅かれ早かれ行動に移されるつもりなのだろうとは思っていた。…覚悟なんて、できてはいなかったが。
眠ることも、泣くことさえできないまま夜は更けていく。外では夜行性の鳥たちが控えめに鳴きはじめた。今宵は、満月。レース越しに柔らかく白銀の光が差して、アイリスの乾いた頬を照らす。夜と地下を司る美しき月神シャニルは、この白銀の光を紡いだ絹糸のような御髪をなさっているという。数年前までのアイリスは、その月神シャニルに例えられるようなプラチナブロンドの髪をしていた。病気がちで色白だった肌の色も相まって、神秘的な美少女と持て囃されていた。嬉しくも憂鬱にも思っていたけれど、成長と共に色味を増した髪と肌は、もはや万人に埋もれる平凡なものになってしまった。
疎ましくも思った白銀を好きになれたのは、アンドレアスがいたから。せめてあのまま成長できていればあるいは…と欲を掻くこともある。彼が慈しんでくれた、白銀の美少女はもういないのだけれど。
今はただ、ひたすら彼に恋する乙女がいるばかりで。
止まらぬ思考に堪らなくなり、そっと部屋を抜け出した。少し肌寒いが、毛織のショールを羽織ればどうということもないだろう。彼もさすがに休んだらしく、火の気も灯りもない家はやけによそよそしく感じる。そのまま物音を殺して外へ出ると、ほっと息を吐いた。
特にどこへ行こうと思ったわけでもなかったが、足は自然と裏の林へ向かっていた。木こりたちによって適度に間伐されたまっすぐな針葉樹の林は、月明かりを遮ることなく足元を照らしてくれる。身が引き締まる程度の冷気と新鮮な空気にアイリスの気持ちは不思議と凪いで、ひとりの恐怖も感じなかった。
半刻もしないうちに開けた小さな草原に出る。緩やかな丘の頂上とも言えるそこは、アイリスの思い出の場所だった。そして願わくば、アンドレアスにとってもそうであってほしいと思う場所。
中央にぽつんと、しかし大きな存在感をもって生えているのは葉も花もない枝だけの樹木だ。しかし決して枯れているわけではなく、ずっと昔からそこに変わらず鎮座しているらしい。
近寄って、その幹にそっと触れる。背中を預けて月を仰ぐと、コツンと後頭部が当たった。目を閉じて体いっぱいに月明かりを浴びると、瞼越しにもじんわりと白銀が染みる。
(…この明かりが髪にも肌にも降り注いで、白銀色にしてくれたら…なんて、ね)
脳裏によみがえるのは、やはりアンドレアスのことばかりだった。
「お外に…行きたいわ」
「まぁ、しばらくは安静にとマシュー先生も仰ったでしょう。元気になったら、またすぐにお外で遊べますわよ」
「……」
生まれつき病弱で喘息持ちだったアイリスは、父の身分もあって同年代の友人も少なく、ましてやその子らと外で遊ぶなど到底できない状態だった。特に14歳ぐらいのころは喘息の発作が頻繁に起きてまともに学舎へも通えない有様で、両親や兄、使用人に宥められ、大きな窓から羨ましげに外を眺めるばかりの毎日。アイリスはその境遇に駄々をこねるほど子供ではなかったが、全てを諦められるほど大人でもなかった。
鬱々とした日々に変化が訪れたのは、そう…今と同じ夏の終わり。フェロウズ邸にアンドレアスを分隊長とする衛士たちが配備されたのがきっかけである。
そのころアンドレアスはまだ21歳の青年だったけれど、その実力を買われて12人からなる第三分隊を率いていた。当時エルケナル王国では貴族や商人などの富裕層を狙った組織的な襲撃が増えており、忠誠の証として私兵の所有を禁じられていた有力商人の館には軍から護衛が派遣されたのだった。
フェロウズ家に純粋な使用人など数えるほどしかいなかったが、そこはいわゆる暗黙の了解とでも言おうか。やけに眼光鋭い庭男や手に山ほどタコのあるフットマン、身軽すぎるメイドなど、恐らく武人であるアンドレアスたちは色々と悟っていたはずだが、追及はなかった。派遣されたのが分隊ひとつという少数精鋭であったのも、この辺りの事情が絡んでいたからに違いない。
いつしか『茨の王』を名乗り始めた犯罪者集団は軍も無視できないほど肥大化し、王より掃討の命が下され討伐隊が編成されると同時にアンドレアスたちのような護衛が派遣されることとなったのである。
ただでさえ面白味のない日常は、少数とは言え屋敷中を警護する武人たちのおかげで物々しさまで加わり、アイリスは辟易していた。…だからだろうか。普段わがままの一つも言わないアイリスが二階の自室から抜け出すなどという無茶をしてしまったのは。
(思い切ってしまえば簡単なものね…!)
つい先日読んだばかりの冒険活劇がいけなかったのか、我ながら無茶をしてしまった。見よう見まねでシーツをつなぎ、バルコニーから伝い降りる。万が一落ちても死ぬような高さではない…と思うが、それでもやはりはっしと握った両手は震える。
(下は見ない下は見ない…)
あと少しで飛び降りられる高さまで行けそう…と思ったところで不意に声が掛けられた。
「…おい」
「??!っ…きゃ…っ!」
突然の男の声に驚愕して、思わず手の力が緩む。落ちる──────!
恐怖のあまり声も出さずにずり落ちたアイリスはしかし、トサ、と予想外の柔らかさで着地した。
「…っ…無茶をする…!」
「…あなた…は…」
見た目以上に頑丈な腕に抱きとめられて固く閉じた瞼を恐る恐る開くと、そこには煌めく星空があった。夜紺色の瞳に宿った力強い光が、眩い日差しの中ではあったけれども、確かにアイリスにはそう見えたのだ。
人は何度も恋をするという。初恋もまだ知らぬアイリスに、母は内緒よ、と悪戯っぽく笑って自分の初恋の話をしてくれた。聞けばそれは父ではないという。首を傾げる娘に、母は言った。
「人はね、アイリス。何度も恋をして、別れを知って、大人になるものなの。お母様はね、そうして最後にお父様と恋をして、二人で愛を育んで夫婦になったのよ」
「みんな?みんながたくさん恋をするの?」
「うーん、みんな、とは言えないわねぇ。はじめに出会ったたった一人とずっと愛し合う人たちだっているわ」
「そのひとたちはとくべつなの?」
「ふふ、そうね。そういう出会いを、人は──」
────運命、というのかしらね。
アンドレアスさまが私の運命のお相手だなんて自惚れたことは言えないけれど。
「…アンドレアス・オースティン。見ての通り、屋敷の護衛に来た衛士だ。あなたがアイリス嬢なら、なるほど…噂に違わぬ美しい方だ」
瞬きもせず見つめる私を見返して、どこか眩しげに微笑んだあなたに。
私は一瞬で、一生分の恋をした──────。