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 (どうしましょう…。うっかりしていたわ)


 自分の昼食の準備もそっちのけで目の前の紙包みを睨み続けて早半刻が経過しようとしていた。朝のマントの件でいっぱいいっぱいで、うっかりサンドイッチを渡し忘れてしまったのである。彼も慌てていたように見えたので、気づかなかったのだろう。単に不要だったのではないかという不安が湧かないでもないが、そこまで卑屈になるのはやめることにした。


 うだうだしていたら、お昼になってしまう。アイリスは決意して外出の準備を始めた。


 ひと月前から二人で住み始めたこの一軒家は、街を挟んで王城を望む高台の集落に建っている。近所には農家や畜産、酪農で生計を立てる人々が多く、のんびりとした気風でアイリスも気に入っていた。首都に豪奢な屋敷と使用人を用意しようと意気込んでいた父を押しとどめて、二人で…といってもほとんどアイリスが決定権を握っていたが…決めた住まいである。今ではほとんど症状が出ることはないが、元々喘息を患って幼いころは病気がちだったアイリスにとっては理想的な環境だった。


 そういえば、と思い出して、笑みがこぼれる。ここはどうかしらとアイリスがアンドレアスを案内した時、めずらしく彼は優しく微笑んでくれたのだった。『ここなら、あなたにもぴったりだな』と了承してくれたのだ。彼とは幼少のころから面識があって、アイリスが喘息を患っていたことも知っている。それを覚えていて、しかもアイリスのことを気遣ってくれたのだと思ったら、その晩は胸が高鳴り続けて眠れなかった。

 そんな風に時折落ちてくる、値段もつかないような宝石の欠片をアイリスは後生大事に胸にしまっている。ふとしたときにそれをそっと取り出して、眺めて、磨いて、またしまって。この欠片があるうちは、きっと頑張れると思っているから。



 小奇麗なワンピースに着替え、くるりとスカーフを巻いて扉を開ける。一応戸締りはしていくが、近隣の住人たちに一声掛けておけば滅多なことは起こらない。せっかくだからと卵やハム、ジャムなどを具に量を増やして、付け合せにポテトも揚げてきた。詰所に持って行くのだから、部下の人たちも食べてくれるかもしれない。結構な重量になったバスケットをよいしょと持ち直し、街に向かって歩き始めた。


 時折、牛を追う少年や畑を耕す老夫婦と挨拶を交わしながら、今日も威勢のいい掛け声で賑わう首都中心部までやってきた。人口の多いこの一帯はほとんどの建物が二階建てで、店も一軒一軒は間口が狭い。その代り、店主たちは広く整備された目貫めぬき通りにまで屋台をせり出して所狭しと商品を並べるのだ。特に定めは無いのだが、自然と同業種で固まるようになり、今では組合なども結成されている。もう少し王城の膝元に近づくと、アイリスの父が営むような大規模の商店が並ぶようになり、自然と客層も高所得者や貴族に偏っていく。アイリスが生まれ育ったのは当然後者だったが、気さくな父はアイリスの体調次第でこちらにも遊びに連れて来てくれていた。


 「お嬢さん、お久しぶりです!」

 「アイリスさま、大荷物だねぇ!うちのせがれを荷物持ちに連れてくかい!」


 などと言う声が掛けられるのも、そのためである。ちょくちょく顔を出していた小物屋の店主や、ありがたい申し出をしてくれる八百屋のおかみさんたちに笑顔で挨拶やお礼を返して、一路詰所を目指した。

 人が集まるところには、どうしてもトラブルがつきものである。そんな訳で、アンドレアスの勤める守備隊の詰所は繁華街のど真ん中に鎮座しているのだった。


 教会の鐘はまだ鳴らない。なんとか間に合ったとほっとして、詰所の番兵に声をかける。表に立つからか、一見穏やかな気性の優しそうな青年である。人の出入りも激しい首都では荒くれ者も多く、その処理に当たるのは守備隊の兵士たちであるから、優しそうに見えて腕っぷしは強いはずだとアイリスは知っていたが。


 「あの、アンドレアス…オースティン隊長は今いらっしゃるでしょうか?」

 「はい?…あぁ、アイリスお嬢さま!」


 訝しげだった番兵は、合点がいったのだろう、がばりと頭を下げた。不本意ながら、アイリスの顔を知る住人は多いのである。


 「あの、そんなにかしこまらないでくださいな」

 「あははっ申し訳ありません、つい…。オースティン隊長でしたら、まもなく巡回から戻られる予定です!」


 苦笑いしながらなだめると、青年も照れながら教えてくれた。

 一目お会いできたら嬉しいとは思うけれど、お仕事の邪魔になってしまうのは避けたい。


 「そうですか…。お使いだてして申し訳ないのだけど、アンドレアスさまにこれを渡していただけないかしら。」

 「いえいえ、お安い御用ですよ!わ、こんな重いものお一人で持って来られたんですか?」

 「あら、全然平気よ!お恥ずかしいのだけど、今日の昼食をお渡しするのを忘れていて…」

 「いい匂いがすると思ったら愛妻弁当ですか!いいな~隊長~…」


 ころころと表情を変える番兵につられて、アイリスも笑ってしまう。


 「大したものは入っていないのだけど、たくさん作ってきたからよかったら一緒に召し上がってくださいな」

 「え!本当ですか!!やったー!」


 これで俺にも間接的愛妻弁当…などと涙でも流しそうな勢いで喜ぶ彼に、アイリスは堪えきれずに噴出した。いけない、ぐずぐずしていたらアンドレアスさまがお戻りになってしまう。隊長の帰りを待てばいいのにと引き留めてくれたのを辞して、せっかく街まで来たのだから実家にでも寄って帰ろうかと王城の方向へ足を向けた。


 愛妻弁当、そういうことになるのかしら。少し浮ついた気持ちが足取りにも現れていたようで、アンドレアスとの関係を知る店主連中には随分と冷やかされた。皆が思うような生活ではないかもしれないが、少なくともアイリスは幸せだった。正式にはまだ婚約の段階だったが、二人が同棲していることは周知の事実。幸せいっぱいの夫婦生活だろうとからかわれて赤面しているうちに、朝まで憂鬱だった気持ちも上向いてくる。


 もっともっと頑張って、アンドレアスさまにはこれから私を好きになっていってもらえばいい。顔や体型は変えようもないけれど、努力次第で彼の理想に近づくことは可能なはず。そうすれば、きっといつか…本物の夫婦になれる日も来るわ。少なくとも、これからずっと一緒にはいられるのだから。


 ちょうど鳴り響いた正午の鐘は、まるで祝福のように感じられたのだった。



 浮かれていたアイリスは、気付くとすでに繁華街を抜けていわゆる富裕層住宅地に入り始めていた。人通りも少なくなって、時折馬車や騎馬が通りすがるばかり。少し落ち着こうと足を止めて深呼吸をしたところで、すぐ傍の路地から人の話し声が聞こえてきた。何の気なしに覗き込んで、驚愕する。


 (アンドレアスさま…!)


 なんという偶然だろう、こんなところで出会ってしまった。隣にもう一人立っていたのは、副隊長のカインドさまに違いない。びっくりしすぎて思わず身を隠してしまったけれど、お声をかけるべきかしら…?


 「そういえばどうなんだ?アイリス嬢との夫婦生活は」


 逡巡したところで自分の名前が出てきたことに驚き、はしたないことと知りながら聞き耳を立てる。カインドのニヤニヤとした顔を見ていれば、彼の質問の下世話な意図にアイリスも気づけたかもしれない。だが幸か不幸か、気付いたのはアンドレアスだけだった。応える彼の声は、アイリスがびっくりするほど冷たく硬い。なんだかんだといいつつ、彼のよき相棒なのだということは知っているが。


 「…わざわざお前に報告するようなことは何もない。大体、彼女とはまだ夫婦になったわけじゃない」

 「へーへーすんませんでした。だけど婚約者と同棲って、もう新婚みたいなもんじゃねぇか」

 「まだ式を挙げていない」

 「ったく、相変わらずの能面堅物っぷりだな。ここんとこも仕事ばっかりで、アイリス嬢もこんなやつのどこがいいんだか」

 「…余計なお世話だ」


 事実とはいえ、頑なに未婚を主張するアンドレアスに少し悲しくなった。浮かれていた罰が当たったのかもしれない。悪趣味な立ち聞きはもうやめようと決めたアイリスを尻目に、二人の会話は続く。


 「そういえば二人の馴れ初めとか聞いたことなかったな」

 「お前に聞かせる必要はない」

 「まーそう言わずに!お前がどんな台詞セリフで口説いたのか、俺様興味深々だわー…ってなんだよその苦虫百匹噛み潰したようなツラは」


 不機嫌らしいアンドレアスの様子に、立ち去ろうとしていたアイリスはギクリと固まってしまった。…嫌な予感がして、体は動かないというのに鼓動ばかりがうるさく脈打つ。

 渋々といった声音でアンドレアスが口を開いた。



「…正直に言えば」



 やめて。


 アイリスは今すぐにその場から消えてしまいたくなった。耳を塞ぐ手も間に合わない。


 お願い、言わないで。アンドレアスさま──────




「できることなら最初からやり直したいと思わなくもない」




 決定的な一言に、アイリスの視界は真っ暗になった。もう、二人の声も、遠くに聴こえていた繁華街の喧騒も耳に入らない。



 アイリスが大事に大事に、仄かな甘い思い出をしまってきた心の中の宝箱。その頑丈な鍵を、どす黒い何かが無理矢理にこじ開けて、全て奪っていこうとする。…否、それはアイリスが宝石だと思い込んでいただけの、ガラクタだったのかもしれない。



 とっても綺麗な大切なものなの、え?駄目よ、誰にも見せずにしまっておくの──────そうやって、他人からも、自分の目からも覆い隠して。



 でも、それも限界だったのだ。やり直したい、無かったことにしたい。

 他でもない、彼がそう口にしたのだから─────



 今朝取り出して眺めたばかりの小さな宝石。彼の微笑みの記憶が、カシャンと音を立てて砕け散ったのが、アイリスには分かった。…分かって、しまった。







 「…ん?どうした?」

 「いや、何か物音がした気がしたのだが…気のせいか」

 「『奴ら』の追い込みも佳境だからな。ピリピリしてんじゃねぇのか?」

 「…そうかもしれんな。行こう、昼も過ぎた」

 「そうそう。…あーいいな所帯持ちはよ。今日もご自慢の愛妻弁当かぁ?」

 「今朝は…忘れてきた…」

 「…おいおい、今日の不機嫌の理由はそれかよ…あほらし」


 二人が路地裏から出てきたときには、ちょうど昼も半ば。通りに人影は一つもなかった。






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