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──────まだ日の出も遠い早朝、アイリスは眠りから醒めた。軍人である彼の朝は早い。温かな朝食を供し手製の昼食を持って出てもらうためには、アイリスも相応に早起きをする必要があった。使用人に起こされない生活を始めてまだ日は浅かったが、彼のためと思えば何も苦にならない。
暖かなたっぷりとしたオフホワイトの羽毛布団は、両親からの贅沢な贈り物だ。夜着のまま寝床を抜け出すと、夏の終わりとはいえ冷えた空気が肌を刺す。
あぁ、と思わず苦笑した。この冷たさだけは苦手かもしれない。…たった一人、広いベッドで目を醒ますたび、知るはずのない温もりを隣に求めてしまう。誰もいないベッドをしばらく見つめていたが、いつまでもそうしてはいられない。よし、と心の中で気合を入れ、まずは着替えと洗顔を始めようと動き出した。
──────分かっていたはずよ、アイリス。これ以上何を望むというの?
部屋付きの洗面所で、汲んでおいた水の冷たさに堪えながら顔を洗う。ふと鏡の中の自分と目が合って、思わず心の中で自戒した。同時に大嫌いな自分の髪が目に入って、さっさと視界から追い出そうと髪紐で括りあげた。
…かつて彼が賞賛してくれたのは、こんな薄汚れたブラウンでは無かったはず。今更どうにもならぬと知りながら毎朝未練がましく思う自分が嫌で、振り切るように朝食の準備に想いを馳せる。
今日は昨日の内に仕込んでおいた、彼の好物のスープがある。オニオンを練り込んだ塩気のあるパンはまだたっぷりあったはずだし、卵も裏で産みたてを採ってくればいい。ソーセージはあっさりとボイルにしよう。サラダには昨日隣のバーニャさんからいただいた野菜を使って…。合いそうなドレッシングの配合まで考えてから、ようやく前向きな気分になれた。
(大丈夫。今日も一日、笑っていられるわ。)
練習のつもりで笑って見せた鏡の中の自分は、少し歪だったけれども。
「─────おはよう」
「!おはようございます、アンドレアスさま!」
朝食を粗方テーブルに並べ、昼食にしてもらおうと昨晩の夕飯だった鶏肉の香草焼きをサンドイッチにしていると、アイリスの大好きなテノールが響いた。彼の声はいつ聴いても体の芯がジンと痺れるような美声だが、寝起きの声はまた格別だ。18にもなってと彼に呆れられるのが怖くてなるべく抑えようとは思うのだけれど、ぱぁっと沸き立つ気持ちが声に乗るのは仕方がない。
笑顔で振り向いた私を、案の定アンドレアスさまは厭わしく思ったのか、目を眇めて食卓につく。
「…私に合わせてこんなに早く起きてこなくてもよいと、いつも言っているだろう」
「…ごめんなさい。あの、たくさん練習したので、せめてお食事だけでも召し上がっていただきたいと思って…」
「いや、別に責めているわけではなく…。あなたの作ってくれる料理はどれもおいしいが、あまり無理をしないで欲しいだけだ」
「無理などしていませんわ!私はただ、大好きなアンドレアスさまに私の作った料理を食べていただけるのが幸せなのです!」
「…そうか。ならば、いい」
それきり彼は黙ったまま、アイリスが向かいに腰かけるのを待って短い祈りを捧げはじめた。
自分はうまく、無邪気な笑みを浮かべられているだろうか。あなたのことが大好きだと、私が毎日冗談でも言うかのように口にするたび、本当は心臓が飛び出してしまいそうなほど胸を高鳴らせていることなどあなたは知らないのでしょう。今日もあなたは何も返して下さらなかった。
けれども当然だ。彼は別段、この婚約を望んでいたわけではないのだから。
アイリス・フェロウズが彼、アンドレアス・オースティンと正式に婚約したのは今から1年前、アイリスが17歳、アンドレアスが25歳の時だった。世界随一の商業国エルケナル王国の首都において、最も大きな勢力を誇るフェロウズ商会の頭取を父に持つアイリスは、まごうことなき名家のご令嬢である。シビアな商人気質と評される国民たちは、出世さえすれば別段平民生まれとて成り上がりと蔑むことはない。しかし古くは王家にも連なる血筋であるフェロウズ家は、やはりどこか一目置かれていた。そんな訳で、街の守備隊長を務めるとは言え平民出身のアンドレアスがアイリスと婚約した時には、しばらく首都中がその噂で持ちきりになったのである。
普段は鷹揚な父・コンラッドもさすがに少し思い悩んだ様子ではあったものの、彼の人柄を知った妻・アリアナの後押しもあり、なにより愛娘の強硬な主張が決め手となって快く賛同するに至った。…少し歳の離れた二人の兄は、未だにどこか不満そうにしているが。
この婚約も、ひと月前から始めた同棲も、全てはアイリスのわがままだと自覚していた。商業国エルケナル王国において、コンラッドのような有力商人たちは、国の政治を左右する評議会の議席さえ有する。資産だけで言えばどの貴族をも凌駕し、その気になれば国を乗っ取れるだけの私兵も用意することができる者たちなのだから当然と言えば当然である。隊長とは言え一介の軍人であるアンドレアスがそのような家から娘の婿にと望まれて、断ることなどできなかったろう。
──────分かっていて、それでも望んだのが私の罪。
「──では、行ってくる」
アンドレアスがカトラリーを置いて立ち上がったので我に返った。訝しむ様子もないので、無意識にもいつも通り一方的に話しかけていたのだろう。…別段、私の様子など気にも留めていないだけかもしれないけれど。
鎧や武具の類はほとんど詰所に保管しているらしい。出勤するとき、彼はズボンにシャツ、季節によってはマントを羽織る程度の軽装で、愛用の剣だけ持って行くのが常である。軽装だからこそシャツごしにも彼の類まれな肉体美が堪能できて、毎朝アイリスはうっとりとしてしまうのだが。
惚れた欲目を抜きにしても、アンドレアスは端正な顔立ちと、アイリスなどすっぽりと隠れてしまいそうな体格に恵まれた美丈夫だった。美しい金髪は軽薄な印象を与えがちだが、彼の場合仕事で逞しく焼けた肌と澄んだ夜紺色の瞳、意志の強そうなキリリとした眉がそれを許さない。彼の瞳に射抜かれると、自分の平凡な淡褐色がどう見えているのかと気恥ずかしくなってしまう。
「あ、あの、道中はまだ冷えますから…どうぞ」
綿のシャツ一枚で出かける素振りを見せたアンドレアスに、慌てて濃緑のマントを差し出す。すげなく断られるかと思ったが、少し目線を彷徨わせただけで素直に袖を通してくれた。あ、まるで夫婦のようではなくて…?背伸びをして羽織らせると一瞬幸せな気持ちになれたが、フードを整えようと伸ばした手が触れ合うと、彼はびくりとその手を引いてしまった。
「っ…ありがとう。行ってくる」
「あっ…お、お気をつけて…いってらっしゃいませ!」
そのまま慌てたように扉から出て行ってしまったアンドレアスの背に、なんとかいつも通り声を掛けて手を振った。つかの間の別離を惜しむ抱擁も、口づけもない。それどころか、振り返らない彼の背中が見えなくなるまでこっそり見送るだけの毎日だ。ほんの少しの触れ合いさえも拒絶されるのかとショックではあったけれど、同棲を始めてひと月、少なくとも彼は毎晩アイリスの待つ家に帰ってきてくれる。食事も、言葉少なに、それでもちゃんとおいしいと言って完食してくれる。同じベッドで休んでくれたことはないが、それでも十分アイリスのわがままに付き合ってくれていると思う。
(優しい優しい、アンドレアスさま…)
朝靄の中に彼の背中が消えたのを見届けて、そっと家に戻った。朝食の続きを…いや、今日はもういい。片付けて、お洗濯とお掃除を──────。朝食の時のように段取りを組み立ててみるけれど、なんだかぼんやりと立ち尽くしてしまった。
優しい彼は約束通り、このままふた月後には式を挙げ、アイリスと夫婦になってくれるのだろう。それから一年、五年、十年、…『二人を死が別つまで』、こんな風に脆いおままごとのような家庭を続けていくのだろうか。乙女のアイリスとて、触れ合いもなく子供を授かるはずのないことは知っている。それではアイリスが哀れだと、初夜ぐらいは共にしてくれるのだろうか…。
込み上げてきた虚しさが溢れたものか、熱い雫が頬を伝う。
彼は是、と言ったもの。
それだけがアイリスの支えだった。確かに、アイリスからの求婚に、彼は応えたのだ。そう思っても溢れてくる不安は抑えきれない。なぜなら、彼に好きだと愛を乞われたことも、アイリスの告白に同じ言葉を返してくれたこともなかったから。
(それでも、いい。それでもいいから…あなたの傍に添わせてほしい)
この胸の痛みがその代償だと言うのなら、それでも構わない。
誰にも明かせぬ胸の内をまた心の奥底に押し込んで、アイリスは涙を拭った。
家事をこなしていれば忘れられる。元来自分は商魂たくましい父の血を受け継いだ、したたかな娘なのだ。言い聞かせて、シャツの袖を捲った。
───────さぁ今日も、一日が始まる。
…昼食のサンドイッチを渡し忘れたことに気付いて上げた悲鳴で、裏の鶏たちが盛大に騒ぎ始めてしまうのはそれからすぐのお話である。