一夜
職場ではそろそろ若手とは呼ばれないはずの敏彦だが、この最近変化した環境においては充分すぎるほど、或いは年端も行かないと軽くいなされてもおかしくないほどに若輩者であるようだ。そのため「ちょっと悪いけど」や「兄ちゃん、来てくれるか」のかけ声に始まって、「コップに水くんできて」、さらには「眩しいからカーテン閉めてくれ」などと気軽に頼まれる。最初のうちは同じ病室の患者同士、助け合うのが常識、多生の縁と思っていたが、その回数が甚だ非道い。点滴台を引きずりながら一つ用事を済ませると、ベッドで休む間もなく次のお願いを言いつけられるのだ。特に敏彦の隣のベッド、患者仲間から、ご隠居と呼ばれる八十代の寝たきり老人は容赦がない。
「兄ちゃん、無い。どこにも見つからん。看護婦さん呼んできてくれんか」
何をどうすればナースコールのスイッチが無くなるのかわからないが、ベッドからコードの延びた呼び出しボタンを薬で腫れ上がった手で掴みながら、押すところが見つからないといつも騒ぐのだ。
「あなたも病人なんですからね、緊急性と言う意味ではむしろあなたの方が悪いんです」
ていよく使われるだけの敏彦に看護師は文句を言うが、その口元は笑っているので、若者であれば仕方ない、世代間のコミュニケーションくらいに捉えているのだろう。敏彦からすれば、
ーーこれが仕事ならなぁ。ここまで御用聞きしてんだから、新規の一つや二つ開拓できそうなもんだけどーーと、思わずにはいられないのだ。
ーーそれでも、この中じゃ俺が一番体力あるんだから仕方ないかーー
諦め半分、それなりの愛想笑いを浮かべ、がらがらと点滴台の音を立てながら、他愛もない用事を済ませていく。だが、こうして歩くたび、左腕から延びたチューブが大きく揺れて絡まるので、輸液はなかなか細い血管に入らず、予定時間より延びに延びて十時の消灯時間を過ぎた頃にようやく点滴を終える。もうこの時間となると、同室の老人たちは大きないびきをかきながら、むにゃむにゃごにょごにょと夢の中で泣いたり怒ったりしているが、当の敏彦と言えば、長時間の点滴を終えた証のようなもの、頻尿に悩まされることになる。いつものとおりベッドの上に置きっ放しになっていたiPhoneと専用のイヤホンを引っ掴み、このまま便所に行こうと灰色のパジャマの胸ポケットに差し込んだ。静まりかえった廊下に出るとセントラルヒーティングの暖房は効いていないのか、うっすらと寒気がする。薄いパジャマだけでは不十分とダウンベストを取りに戻ろうとしたが、ロッカーを開ける音で誰かが起きてしまうかもしれないと思い直す。両耳からは甘く愛くるしいアイドルの歌声が聞こえてくるが、疲れ切った敏彦の気を紛らわせることは出来なかった。
ーー病棟はWi-Fi入ってねえもんなぁ。ああ、新譜でてもダウンロードも出来ないって、どんな拷問だよーー
自宅には一ヶ月前に通販で頼んだCDがポスト投函されているはずだったが、一人暮らしが入院してしまったのだから、どうしようもない。実家の母親は毎日顔を見せてくれるが、アパートに寄ってCDを持ってきてくれなどと言おうものなら、
「あんたはまだそんなこと言ってるの。いい年してアイドルなんて追っかけてるからいつまで経っても一人もんなのよ」と愚痴をこぼされるに違いない。
点滴後の便所では、さらに腹立たしく思うことがあった。治療の一環で尿量を計りましょうと医師から指示されているために、立ち便器に向かって勢いよく噴射することが許されないのだ。ストレスが溜まる事を覚悟の上で溲瓶の口に差し込みながら、こぼれないよう、気を使ってそうっと排出するしかない。それでも不器用な敏彦は三度に一遍は手に掛かってしまうのが嫌だった。これが泌尿器科病棟なら似たようなお仲間もいるのだろうが、あいにくとこの消化器科病棟で蓄尿をしている男性は敏彦ただ一人、相談する相手もない。そのため、入院して最初の数日間は、敏彦は情けなさと恥ずかしさで真夜中に便所に行くのが臆病になりかけた。
ーーこんな姿、格好悪くて人には見せられないよなぁ。俺に嫁がいないのは、きっとこの入院が終わってからでいいってことなんだーーと、独身の身の上を都合よく喜びもしている。
こうして便所通いが落ち着く深夜、今度は大人しく眠っていたはずの患者たちもそろそろ目が覚めるのか、順番にナースコールのボタンを押して看護師を呼び始めた。すると、隣のご隠居も釣られたように人を呼ぶ。
「なあ、兄ちゃん。兄ちゃん、いないのか? 誰か! 誰かおらんのか! 看護婦さん呼んで。誰か助けてえ!」
廊下にまで響きわたるような声で「助けて」と叫ばれると、敏彦はどんなに眠くてもどんなに辛くても側に行ってナースコールの呼び出しボタンを押すしかない。放っておけば、
「誰かぁ助けて! 助けてぇ! お母さん、お母さん、どこにいるの? お母さん!」と、まるで子供のような口調で、実際には生きてはいないと思われる相手を呼び始めるのだ。そうなるともう手をつけられないほどの叫びとなる。いつしか「お父さん」を呼び始めたり、「お母さん」が段々と活用されて「岡田さん」を呼んだりすることにもなった。つまり、呼ぶ相手は誰でもいいようである。他にも、
「透析に行く時間なんだよ。誰か起こして、誰か連れて行ってぇ」などと、今が何時頃かまるで分かっていないような言葉も飛び出す。こういった騒ぎになると、敏彦がナースコールで呼ぶ以外にも、一時間に一度見回る看護師が気づくこともあった。
「どうしたの? 大声出して。あのねえ、昼間ぐうすか寝てるから、こうして夜に寝られなくなっちゃうのよ。今は夜中よ、わかってる?」
鼻から酸素を吸入している相手にも関わらず、心なしか邪険に扱っているようにも聞こえた。というのもご隠居だけに限らず、深夜に看護師を呼び出す用件には「布団が落ちた」や「靴下を取ってくれ」「もう朝か?」などと、あまり緊急ではない件が多いからだろう。しかし、時として「息苦しい」や「腹が痛い」と、どこからか入院患者らしい文句が聞こえてくることもある。その「時として」がいつあるかわからない以上、敏彦としてはどんなに自分が辛くとも重病人に手をさしのべるのは当然のように思えた。それを見舞いに来た家族に話すと、
「そんなの、あんたの仕事じゃないでしょ」と母が怒り、
「お兄ちゃん、勝手に良いことした気分になってんの? ほんと、お人好しだよね」と年の離れた妹が嫌みを口にしたのは、少々不満である。
今時、珍しいくらいぎゅうぎゅうの六人部屋が並ぶ病棟は常に満員で、多くの外来患者が順番待ちをさせられているらしい。本来なら敏彦もゆうに半月は待たされただろうが、仕事中に突然背中に突き刺すような痛みを感じて、何度か気が遠くなりながらも営業車を運転し、ようやくたどり着いた総合病院で急性膵炎と診断されて緊急入院したのだ。あまりに急だったおかげで、病院の駐車場まで同僚が社用車を引き取りに来なければならず、仕事仲間が見舞いに来る度、急に病欠となった件も含めて精一杯の嫌みをベッドの上で聞かされることとなっていた。
一人一人がそれぞれのナースコールを済ませ、室内の温度がぐっと下がった頃、老人たちはようやく深く眠りに入ったようだった。敏彦は一日のストレスを忘れ、幸せ気分で眠りにつこうとイヤホンを耳に差し、バックライトを最低限まで暗く落としたiPhoneをいじりながら、YouTubeから無断ダウンロードしたアイドルのライブを耳だけで楽しむ。実際にこのライブに行った経験のある敏彦は、ふとしたアクシデントでアイドルのスカートがめくれあがった映像と音源を何よりの宝物と感じている。撮影も違法、動画サイトにアップロードされたのも違法とあって、すぐに消されるだろうと予想が出来たので、仲間から連絡をもらった三分後には海賊版を作って保存してあったのだ。これが悪いこと、と分かっていても、これくらいなら犯罪と呼ぶにはほど遠い、例えるなら赤信号で渡るようなものだと敏彦は考えている。要は見つからなければいいのだ。
ーーこれで見せパンじゃなければもっと良かったんだけどなーーなどと横になって考えるうちに、ついつい独り言が漏れてしまう。
「理想は白、選ぶならエロエロピンク」
呟いてしばらくすると、よくよく考えればまわりの老人たちに聞かれていると非常にまずいのではないかと思い、今更ながらに焦って飛び起きた。イヤホンをはずし、息を潜め、誰か自分を笑っていないか、罵っていないかとあたりを窺う。室内に響く他愛も無い寝言、大きく響くいびき、小さく聞こえる寝息を確認してほっとため息をついたが、その中に一つ、乾いた咳を耳にした。かはかは、と吐くような、噎せるような咳である。その後に続いて、ぜぇぜぇ、と苦しそうな息が隣のベッドから聞こえるのだ。
ーーご隠居か? 大丈夫かよ、今日はいつもより苦しそうだなーー
そのうち止むだろうとイヤホンを外したまま待っていたが、咳は一向に治まる気配はない。そのうち「苦しい、苦しい」と聞こえてきたのだが、看護師はまだ来ない。
ーーいや、そもそも普段からナースコールが押せないご隠居が、苦しんでるときに呼べたのか? あり得ないだろ。だから看護師が来ないんじゃないかーー
仕方なく、いつものように隣のベッドに向かった。病室の各ベッドはピンクのカーテン一枚で仕切られているということもあり、本来なら開けるだけで相手の顔が見られるのだが、敏彦はいつも個人を尊重して、律儀に声をかけてからプライベートなエリアにそっと入る。しかしこれは自分に言い聞かせているだけの建前で、実際のところ、カーテンを勢いよく開けたとき、目の前に苦しみ悶える醜悪な老人の顔を見たくないからに過ぎないのだ。
「ご隠居、入りますよ。ナースコール押しました?」
さぞ苦しんでいるだろうと覚悟を決めて入ったものの、ご隠居の様子はそれほど悪いようには見えなかった。噎せ込んだせいか、若干、顔は赤く腫れてはいたが、もっと非道い様子を今までに何度も見てきたからだ。今回、手にしているのは呼び出しボタンではなく、コップにもなる水筒の蓋を握りしめていたので、夕食前にご隠居お気に入りの看護助手が配ってまわった麦茶の誤嚥から咳が出たようにも思える。放っておくわけにはいかないと、取り急ぎナースコールのボタンを押すと、
「どうしましたかぁ?」と無闇に明るい声が聞こえてきたが、敏彦は看護師に何も応えなかった。放っておけば勝手に来てくれるだろう、と思ったからだ。ナースコールをしたとは言え、ご隠居の様子がほんの少し気になったが、あとは任せたと自分のベッドへと戻り、イヤホンを耳に差す。しかし、音が漏れるのを気にして先ほどの続きを再生することはなかった。
それほどの時間が経ったのだろうか、いつしか眠りについていた敏彦は、ベッドでちゃんと眠っているかどうかを確かめる見回りの看護師から懐中電灯の光を無遠慮に顔へと当てられ、眩しさからつい目を覚ました。枕元のiPhoneを操作して時間を確認すると、ナースコールから一時間ほどしか経っていない。目が覚めてしまったのだから、ついでに便所へ行こうかとも思ったが、眠る前に飲んだ睡眠剤が思った以上に効き過ぎているようで、足をベッドから下ろそうとしても力が入らない。先刻とは違い、室内の老人たちは深い眠りについているようで寝息すら聞こえなかった。隣のご隠居からも先ほどまでの乾いた咳はもう聞こえない。だが、かわりにハッハッハッという荒く短い息が連続し、まるで真夏の犬が何頭もいるような勢いで聞こえてきた。看護師がつけっぱなしにしたのだろう、アーム式のベッドライトがカーテン越しにうずくまったご隠居の姿を映しだしている。
「ご隠居、大丈夫か? 苦しいのか?」
荒い息の間に、
「おう、おう」と返事が返ってくる。その「おう」が単に返事をしただけなのか、大丈夫と言う意味なのかは分からなかった。
ーーご隠居、大丈夫かよ。ナースコールした方がいいかな。まずは顔見に行った方がいいか。いや、眠いなぁ、面倒くさいよなぁ。ああ、そっか。俺んとこから押して隣に行ってもらえばいいのかーー
敏彦は自分のベッドの呼び出しボタンを取ろうと手を伸ばした。そのとき、見回りの看護師が持つ懐中電灯の明かりが廊下から、それも隣の病室あたりから漏れてきたので、これは見回りが来てすぐ後か、或いはもうすぐに来るに違いないとあたりをつけた。
ーーつまり、看護師の誰かがご隠居の様子を見るってことだな。俺が人を呼ばなくても、ご隠居の病状が悪ければ、誰かが助けてくれるだろーー
そう考えると途端に気が楽になった。抗ガン剤を長く使用してリスクの高いご隠居の容態を放り出すのは気が引けるが、救急病院には医師や看護師がいるのだからそれほど問題は無いだろう。素人があれこれ心配するよりも、餅は餅屋に任せようと心に決めたのだ。それなら今夜はゆっくり眠らせてもらおう、と枕元のiPhoneを手に取り、好きなアイドルのバラードやスローテンポの曲ばかりをまとめたプレイリストを選んで再生する。その隣ではうずくまって荒い息を吐く犬のような老人が苦しんでいるのだが、敏彦は優しく切ない天使のような歌声によって眠りへと誘われていった。
幸せな夢を見ていた。そう思った。暖かくとても明るいこの場所には敏彦一人しかいないはずなのだが、どこかでざわざわと声がする。途端、幸せな気分はどこかへと弾け、不満が襲ってきた。
ーーここは俺の場所だ、誰に断って入ってきたんだーー
目を開けると室内はまだ暗かったが、隣のベッドからは煌々と明かりが漏れていた。それもアーム式のベッドライトだけではなく、スペースごとに壁に取り付けられた本格的な照明まで明るく灯っている。さらにはご隠居のベッドのまわりには幾人かいるようで、その手元にもLEDのペン型ライトがあるように感じられた。
ーーああ、ご隠居、体調悪かったのかな。看護師が何人も来てるなんて。大丈夫かなーー
「せえの」というかけ声で全てが始まった。がたがたと物を動かす音がする。明かりに照らされていたカーテン越しのベッドが動いていく。ごろごろと音をさせながら、布団の影が波打ってまるで大山脈の美しい尾根のようにさえ見えていた背景が動いていくのだ。ぎぃしぎぃしと軋むような低い音もした。地響きのようだった。動いて行く、動いて行く。物影はインドネシアの影絵のようにいつまでもどこまでも流れていく。カーテンのスクリーン上から山々が消えたかと思えば、もう一度「せえの」とかけ声がかかり、ぎぃぎぃと今までで一番大きな音を立ててご隠居のベッドは方向を変えたようだった。というのも横側のカーテン越しに見えていた影絵が、今度は足下のカーテンに映ったからだ。敏彦は体を起こし、その光景を見守った。動くベッドの四隅にライトを持った看護師が付き従っているように見える。ゆっくりと、ゆっくりと眼前を通る一団を眺めていると、視界の端に強い光が差し込んだ。眠る前にはきちんと閉めていたはずのカーテンだが、見回りの際、ほんの少し開いたままになっていたようだ。そこからカーテンの外側の様子を窺い知ることが出来た。暗闇と人工の光の中で、運ばれるベッドの上に波打つ布団は、白と言うよりも精彩を失った灰色である。やがてそこにチェックの柄が目に入り、それはご隠居のパジャマだと気が付いた。しばらく目の前をゆっくりとチェックが横切り、そのうち皺だらけの肌が現れる。胸、首、顎、口。口は少し開いているように見えた。注意して見ると、いつものご隠居とは何か違う。干からびた年寄りの唇に隠されていたが、口の中はいつものカビが生えたように白い舌ではなく、赤く、赤く生々しさを放ち、おぞましくも舌が飛び出て来るかに見えた。次に現れたのは閉じられた目であるが、少しだけ開いたその奥に、おそらく白い眼球があるだろうとは思えない、木のウロをのぞき込んだような気配がする。それに何より、延々と続くベッドの行進の間、ご隠居は身じろぎ一つしないのだ。敏彦はしばらくの間、何も考えることは出来ずにいた。やがて夜が明けると、隣のベッドから漏れてくる人工的な光は朝の光に紛れ、溶け込んでしまった。
陽が昇った頃、ご隠居の家族があわただしくやってきて、ぶつぶつと文句を言いながらも私物をすっかりと片づけ、いつの間にかどこかへと行ってしまったようだ。朝食後、敏彦は勇気を振り絞って看護師に
「なあ、ご隠居さんどうなった?」と聞くと、
「ご隠居さんって平岡さんのこと? 平岡さんねえ、昨日、具合が悪くなったみたいで個室の方に移ったんだって」と言う。
ーーそれは違う、あれは、あれは息をしていなかった! ーー
声を大にして叫びたかった。だが、朝になって交代した看護師には詳しい事情を知らされることなく、ただ結果だけが伝えられ、その上で箝口令が敷かれたのだろうと思われた。何を言っても無駄だと悟った敏彦は当たり障りのない言葉でその場をごまかすしかない。
「そっか。俺、隣だからさぁ、ご隠居が苦しそうにしてるの知ってたし、気になってたんだよ。個室に移ったか。じゃあ安心だよな」
「そうよねえ。お隣さんだもの、気になっちゃうよねえ」
看護師はそう言いながら敏彦の体温や血圧を確認し、さっさと行ってしまった。
ーー気になってたなんて嘘だ、俺はご隠居が苦しんでるの知ってて無視したんだ。俺があのとき、ナースコールしてれば助かったかもしれないーー
一つ気になり出すと、後悔は山のように襲ってくる。もしもあのとき、あのとき自分が。自責の念は、どこまでもどこまでも追いかけてくるような気がする。常識で考えれば自分に非がないことは容易に想像できた。
ーー俺は一介の患者で、俺自身も療養中だったんだから仕方ないーー
そもそも患者が別の患者のナースコールを押さなければならないという状況からして、病院の管理責任が問われるはずだ。しかし、何かが心に引っかかる。
ーーそれでも救えたかもしれない命を、俺は自分の手で消しちまったのかもしれないーー
看護師が来たからといって助かるとは限らない。だが、ご隠居はもともと今日明日という差し迫った命ではなかったはずだ。
ーー大部屋で人が死ぬなんてあり得ないだろ。ほんと危なかったんなら、バイタルモニタでも付けてナースステーションで心臓の様子を管理すればよかったんだーー
しかし、看護師が気づかなかったというのは、見回りの後に何かが起きたのだろうか。ご隠居は水筒のコップを抱えたまま咳き込んでいた。もしかすると誤嚥から悪化して、呼吸不全になったのかもしれない。
ーー俺は、ご隠居の命とアイドルの歌を聴くのと、交換しちまったんじゃないかーー
何より悔やまれるのは、もしもあのとき、耳にイヤホンさえ入れてなければ、さらに悪化する前にご隠居の容態に気がつけたかもしれないのだ。
考えれば考えるほど自分の中では決着がつきそうになかった。あれほど魅力的に思えたアイドルの歌も、敏彦の心を晴らすには力不足のようである。いつの間にか消化器科部長による午前の回診は終わっていた。昼食を食べ終わっていた。二回の点滴を終え、いつしか残るは一本だけになっていたし、気づかない内に夕飯までもが目の前に運ばれていた。
ーーああ、俺は今日一日、何をしてたんだっけーー
ずっと惚けていたわけだが、室内にはまだ四人の老人がいるのだ。彼らは相も変わらず、「体温計が落ちた」「眼鏡がない」などと敏彦を振り回していた。無意識ながらも点滴台をがらがらと引きずって、いつの間にか用を片づけていたようだ。夕食時、向かいの老人が白飯をスプーンでつぶして、くちゃくちゃと噛みながら言った。
「ご隠居、個室だってなぁ。今頃はのんびりやってんのかね」
部屋の端の方で茶を啜る音が聞こえる。別の老人たちもそれぞれに喋りだした。
「そんなに悪かったかね? まあ、大部屋ってのは元気な爺さんどもしかいられねえからな。いつまでもここに居たいもんだ」
「そりゃそうだがな、頑張りすぎて何度も苦しむのはご免だなぁ」
「違いないね。一遍でころっとな」
よくも昨夜の騒ぎを気にせずに寝続けていられたものだと敏彦は思ったが、同時に、本当に眠っていたのかという疑問も生まれた。老人たちは何をどこまで知っているのだろうか。確かにナースステーションから離れた大部屋は、比較的症状の軽い、もしくは自立した患者が多い。ご隠居は自分で動くことこそ出来なかったが、少なくとも自分の意志は、はっきりと持っていた。そのご隠居よりも元気な老人たち、皆が眠りについていたとは考えにくいのだ。
ーー大部屋、か。爺さんたちからすれば、一番安いこの部屋で、たまに入ってくる若者をからかいながら部屋に残り続けるのが生き甲斐って言うか療養なんだろな。貧乏のくせに個室につっ込まれるってのは、もう後先が短いって言われるのと変わんないのかもなぁーー
では、大部屋に残れなかったご隠居はどうだったのかと気になったが、考える間もなく、いつものように老人たちが無秩序な会話を始めた。
「誰かタオル知らんか? 仮面ライダーのタオル」
「ほーう、仮面ライダーとは若いなぁ」
ーー若い? どうせ孫がくれたとか、そういうことだろーー
老人たちの他愛もない会話を聞いているうちに、一つ用事を済ませばまた一つ増えていく、そんな昨日までの日常が戻ってきたような気がした。ただ隣のベッドは空になったままであるのだが。
カーテン越しにご隠居のいた空間を見る。今は何もないが、明日か明後日には新しい入院患者が入ってくるだろう。何しろ病室が空くのを大勢の外来患者が待っているのだから。次の患者は、そのベッドがなぜ空いたのかなど気にすることはないはずだ。患者も治療に従事する人も、無意識のうちに、ただただ生と死の繰り返しをありのままに受け入れているように思えた。この繰り返しの波に飲まれないようにするには、自力で泳ぎ続けるしかないのだろう。それこそが老人たちのいう、大部屋に残るということに違いない。
敏彦は、毎日を点滴台を引きずって過ごすことで、急性膵炎で落ちた体力が少しずつ戻ってきたような気がしている。日にち薬と適度な運動で、徐々に回復してきたのかもしれない。いずれ、この部屋を出て行くことになるだろうが、それはご隠居のように死を経て出て行くのではなく、回復してのことと絶対的な確信を持っている。ご隠居のことは心残りを感じているが、敏彦に何か出来ることなどあるはずもないのだ。ただただ部屋の老人の言葉を深く、深く噛みしめた。ご隠居が何度も苦しまずに済んだのは、幸いであったと。
「なぁ、兄ちゃん。悪いけど」
いつもと変わらない夜が来た。